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12 嘘から出た真実まで
「おい、まさか俺の妹に懸想してここまで追いかけてきやがったのか、ドスケベ水蜥蜴」
逆巻く風を受けて髪やコートの裾を靡かせながら、アルスが威勢よく言った。相手を敵とみなしているためか、口調に攻撃的なものが混ざる。
〈何だこの間の魔法使いか。お前に用はない。用があるのは後ろの乙女だ。この間はよくも我をたばかってくれたな。そなた、本当は、処女であろう〉
場所が広場でなければ、いくつか建物をなぎ倒していたであろう巨体の水竜は、赤い目を光らせてミシュレを見据える。
アルスの背後にかばわれていたミシュレは、アルスの腕に手をかけて前に出ながら、きりっとして涼しげな目に怒りを宿らせると、断固とした調子で抗議した。
「処女だなんだとみだりに言うのはやめてください! 大体、ずーっとおかしいと思っていたんですけど、なんで魔法使いや魔法の生き物は『処女』を重視するんですか!? 経験のあるなしで清らかかそうでないかを判別するなんておかしいです! 一度の経験がなんだっていうんですか。そんなに人間性や肉体に影響があるものだとでもいうんですか!?」
〈そうだ。しかし処女のお前にはそれがどういう意味かわからないだろう。これから我がたっぷりとその体に教え込んで「女」にしてやる〉
猛烈な憤りとともに雷光を迸らせたアルスが口を開きかけたが、ミシュレのほうが早かった。
「それもおかしいです。経験があろうがなかろうが私は『女』です。経験の前後でそこまで何が変わるっていうんですか!」
〈経験すればわかる〉
ミシュレは奥歯を噛み締めて水竜を睨みつけた。
やがて、陰々滅々とした調子で言った。
「そこまで言うなら経験してみるのもやぶさかではないですね。だけど相手はあなたじゃないです。口を開けばエロいことしか言わないモンスターに、誰が身を任せるものですか! 相手は」
そのとき、ミシュレが掴んでいたのはアルスの腕であり。
ハッと気づいて見上げると、目を瞠って見下ろしてきていたアルスとばっちりと視線がぶつかってしまった。
「お義兄様……。私またお義兄様をだしにしてしまうところでした」
「いや、良いんだミシュレ。それで良い。おおいに結構。こんなこと他の男に任せるわけにはいかない。お前が経験したいことは全部俺が引き受ける」
誠実そうな様子でアルスはそう言い、ダメ押しのようにミシュレの耳元でこそっと囁いた。「大切にするから」と。
吐息が耳をかすめたことや、言われた内容もありミシュレは顔から火が噴くのを感じつつ、焦ったように言い募る。
「お義兄様、ご自分の結婚はどうなさるつもりですか!? 私はどうせ縁談もないですし、侯爵家に晩年まで独りでいるかもしれませんけど、お義兄様は……!」
「大丈夫。この身をお前に捧げる以上、俺のすべてはミシュレのものだ。この先何があっても独りになんかしないし、子どももたくさん生んでもらう。……大家族、のぞむところだ」
どさくさに紛れて手に手を取り合いながら、アルスはミシュレに甘やかに微笑み、掴んだ手に唇を寄せる。
指に口付けられながら、ミシュレはぽーっとアルスを見上げて「お義兄様」と口走り「アルスと呼んでごらん」と訂正されていた。
アルス。
ミシュレ。
恥じらいながら名前を呼び合う、一組の若い男女。ハッと我に返ったかのようにミシュレは「あれ、これ演技ですか? どこまで続けますか?」とアルスに小声で尋ねたが、ミシュレの手をしっかりと握りしめたアルスは「一生、演技ではなく本気で」とすかさず答えていた。
伝説の神獣、水竜の出現にただならぬ気配になっていた広場で、責任を感じて残っていたラドクリフとプリシラ、及びその護衛たちは呆然とその光景を見守ることになった。
もちろん、水竜も。
しかしそこが二人だけの気配になったのを見て、やれやれといった調子でプリシラを振り返ると、一言、〈これでいいのか、帰るぞ〉と宣言し、現れたとき同様光を放ちながら消えた。
一連の騒動を見守っていたラドクリフは、感動と諦念が絶妙に入り混じった顔で、呟く。
「水竜はただしく王家の守護者だった、と……。ありがとうございます水竜さま。これ以降も水竜様の儀式はないがしろにせず、しっかりと執り行うことを王家の一員としてここに誓います……!」
そう言ったわりには顔を手で覆って「そうだ、これで丸くおさまったことにしよう。納得しよう。自分はいったい何に巻き込まれたのかと、考えたら負けだ」と自分に言い聞かせるようにぶつぶつと独り言を続けていた。
* * * * *
ラドクリフとプリシラとその護衛やお付きが遠巻きについてくるという状況の中、ミシュレとアルスはぶらぶらと食べ歩きのために広場を出発した。
アルスからはやや緊張したような空気が伝わってきて、ミシュレも落ち着かない。そわそわとしながら間を持たせるように口を開いた。
「殿下からの縁談ですが、べつに私の方ではまだ色よい返事をしたわけではないのです。お義兄様の考えをお聞きしようと思っていて」
「うん。そうだな。侯爵はなんて言ってる?」
「父もそこまで乗り気ではないようです。むしろ、私とお義兄様が結婚してくれたらなんて言い出して」
あはは、と笑いながらミシュレは肩を並べているアルスに目を向ける。
けぶるような群青の瞳が、見ていた。全然笑っておらず、緊張した様子で形の良い唇を開く。
「もし、ミシュレが良かったら、なんだが」
「はい」
しぜんと足が止まり、二人で向き合う形になった。
凛々しく澄んだ瞳を細め、物憂げな様子でアルスは言った。
「さっきの水竜に言った件、本気で考えてみてくれ。俺はずっとミシュレのことを思っていた」
「私は、お兄様には女として見られていないとばかり」
「そんなわけあるか」
アルスがミシュレの手をとる。
ひんやりとして、滑らかな感触。
どきりとしてミシュレは手を引っ込めそうになったが、素早く長い指に指を絡め取られた。
「デートらしくなってきた」
アルスが満足げに笑う。
(兄妹は、ふつう、手を繋いでデートはしないですよね……)
声に出して確認するのがはばかられて、ミシュレは徐々に動悸の激しくなってきた胸の内で呟く。
その心を読んだように、アルスがひそやかな声で囁いてきた。
「休日ごとにデートしているような変わった義兄妹が、ひとなみの結婚なんかできるわけがない。ミシュレは俺と結婚するのが良いと思う。侯爵は良いことを言う」
「お義兄様」
「アルスだ。その呼び名に慣れるように。これからは、少しずつお互いの距離を縮めていこう」
この話の流れで、それは実質、将来を約束するようなもの。ミシュレも、アルスのまなざしにこめられた熱を、これ以上読み間違えるのは許されないと悟る。
(私は、今日、お義兄様に殿下との縁談を潰してもらえるのを期待していたように思います。私も……)
頬から耳まで赤らめながらも、従順な態度で待っているアルスを見つめ、ミシュレはなんとか頷いてみせた。
そして、震える声でいまいちど呼んでみる。
アルス、と。
ぱっと顔を輝かせた最強の魔法使いは、繋いだ手を空に向かって突き上げ、様子を見守っていたラドクリフたちを振り返る。
憂いの晴れた天真爛漫さで手を振ってから、普段の傲慢な彼らしからぬ爽やかさで声を張り上げて言った。
「俺もやればできるみたいだぞ!」と。
これであの凶悪な人間に首輪をつけることに成功した、と見守り一同はその成果を喜んだものの。
この不器用な二人が真の意味で結ばれ、「水竜についた嘘やはったりが真実になる」まで、いましばらく振り回されること。
(了)
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