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3 “煉獄の炎”
がぶっと背にしたリュックに牙を立てて噛みつかれた感触があった。
予期していたミシュレは、するりと腕を抜いてリュックごとその一頭を道に投げ捨てる。
辛くも追いつかれぬまま、木立を抜け、終着地点に到達。
視界が目一杯開ける。
アイトヴァン湖。
空を写し取った鏡面のごとき深淵。周囲の音を吸い込む静けさ。
(王家の姫に加護を与える水竜がいるというなら、今こそ姿を現して頂きたいものですね!)
陽は暮れかけていたが、頭上を覆っていた木々の枝葉が無いおかげで、これまでよりは明るく感じる。
立ち止まらぬまま視線をすべらせて、先に逃げたはずのプリシラの姿を目で探した。
スピードが落ちた一瞬、耳を唸り声が掠める。硬い革のブーツに、牙を突き立てられた。
(うさぎさん、はやい!)
勘で体をしならせながら、足に食いついてきた一頭の角をかわしつつ、首にナイフを突き立てる。
噴き出す血には目もくれず、声を張り上げた。
「プリシラ様! 水竜様にはお会いできましたか……、ん!?」
ひゅうっとなにかが頭上を飛んでいった。
かなりの低空飛行。髪の毛を爪に掴まれそうになって、ミシュレは双眸を見開く。
(翼竜まで……!)
飛びながら急降下した先に、金髪を振り乱して逃げ回るプリシラの姿。
さらにもう一頭、自分の上に影を落としてきた個体を確認し、身をかがめてやり過ごす。飛び越えていった瞬間、ミシュレはためらわずに手にしていたナイフを投擲した。
命中!
ギャアアアア
悲鳴が上がり、苦しそうに悶える。致命傷にはなりえないだろうが、動きは一瞬だけ止められた。
(ごめんなさい、あなたたちの領域を荒らしておいて、怒られても当然なんですけど。殺されるわけにはいかないので! アルミラージは!?)
数頭がプリシラに気づいて、一目散に飛び跳ねながら迫って行くのが見えた。
プリシラは今まさに、湖の際まで追い詰められている。
周縁部はともかく、水中まで追い立てられた場合、どれほどの深みかわかったものではない。
(遠い!)
駆け出そうとしたそのとき、背中を強い力で押されて、ミシュレはその場に倒れ伏す。
飛んでいくワイバーンの後ろ姿。
蹴り飛ばされて堪えきれず、押し倒されたらしい。その背にアルミラージが体重をかけて飛び乗ってくる。
ゴキっと背骨が軋む音がして、痛みが脳天まで突き抜けて行った。
(いくら魔法を使ってこない相手でも、魔力で強化されているモンスターとの対多数戦は無謀でした……!)
完全に制圧される前に素早く身を翻して逃れ、まさに飛びかかってきていた一体の腹を蹴り上げる。
その勢いで体勢を立て直し、立ち上がった。囲まれている。
「プリシラ様を助けに行かないといけないので。通していただけますか」
言葉が通じるとは思っていないが、にこっと笑って声をかける。
こめかみから頬に伝ってきた汗を拭ったら、革手袋が濃く染まった。血だった。
(怪我。集中していたから気づかなかった)
意識を凝らせば、全身至るところが痛んでいることに気づく。ひりひり、じくじく、ずきずき。
帰り道がつらそうだな、と笑いそうになった。すぐに頬を引き締める。
いっせいに飛びかかられたら難しい。
引きつけて、かわして、敵同士をぶつけて、と頭の中で動きを描きながら組み立てていく。
目で動きを追うのも限界がある。感じろ、と自分に言い聞かせて睨みつけた、そのとき。
“汝は太陽が生みし〈炎の五重の剣〉 無垢にして至聖 来たれ最奥の光”
“SHEMESH,NOGAH,ASH,MADIM,RUACH……”
空気を震わせるのは、旋律めいた抑揚のある詠唱。
風を巻き起こしながら空より地に降り立ったのは、背の高い人影。
ミシュレの真横に立ち、両手を組み合わせて印を組んだ手を突き出す。
「全員死ね。“煉獄の炎”」
炎の結界が展開される。
効果範囲は、彼の視界すべて。敵と認識した対象。
軽く頭を振るような仕草で、周囲に首を巡らせる。
複雑な魔法文字で構成された紅蓮の結界が、目覚ましい勢いで広がっていく。
湖の周囲に姿を見せていたモンスターを業火で包み込み、駆逐しながら。
地上だけではなく、視線を空に向ければ、ギャアアアアと断末魔の悲鳴を上げて、ワイバーンたちが炭化して黒い灰となり、散って行った。
(……すっごい高等魔法使ってる気がする……)
助かったとほっとするよりも、目の前で展開された「一個師団壊滅級」洒落にならないほどの絶大な攻撃魔法にミシュレは息を止めるほどの緊張を強いられていた。
そうっと横に目を向けると、甘やかに微笑む群青の瞳と目が合った。
黒髪を風になびかせ、藍色のコートに身を包んだ青年。黄金比を思わせる目鼻立ちが顎の細い顔に美しく収まっており、立ち姿は八、九頭身というすらりとした長身。
冠絶した才覚。さらには、秀でた容姿でその勇名を馳せる国内最強の魔法使い、アルス。
ミシュレの父であるバトルズ侯爵が再婚した女性が、亡夫との間にもうけていた男子であり、連れ子である。ミシュレにとっては血の繋がらない義兄であった。
「遅くなった、ミシュレ。連絡は受け取っていたのに、野暮用が。血が出てるな、可哀想に。全部殺したけど殺し足りない。あいつら、もっと生き地獄を味わわせるべきだった……」
「お、お義兄さま、大丈夫です! 致命傷ではないですし、間に合ってます! 来てくださってありがとうございました!!」
――プリシラ様と、アイトヴァン湖に行きます。二人で大丈夫だとは思うのですが、もし万が一お休みがとれたら少しだけ加勢していただけないでしょうか。
念の為、王都を出てくる前にアルスに手紙を出していたのである。
義理堅い性格であるアルスのこと、いくら控えめな文面でも、滅多に助力を乞わないミシュレからの申し入れがあれば、何をおいても飛んできてくれるであろうと信じていた。
最悪の事態になる前には、間に合うはず。
そう期待していた面はあったし、タイミングはバッチリであった。
ただ、遺憾ながら使用魔法は度が過ぎていたように思う。
(さすがは魔法使いアルスといいますか……。加減はしてくれていたみたいですが、王家の聖域であるアイトヴァン湖が焦土になるところでした。あっ、プリシラさま……!?)
絶妙な統制力で、アルスが敵と認識した相手を殲滅するという繊細な調整を施していたようだが、プリシラをきちんと避けてくれただろうか。
ミシュレはアルスに対して挨拶も感謝もそこそこに視線を巡らせる。
その目に、想像もしていなかったものが映り込んできた。
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