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やがて、女は鼻歌を唄いだした。特に意図したわけではなかったが、月を眺めているうちになんとなく気分が良くなったからだろうか。とにかく、女はごく自然とそれを奏で始めた。
歌詞は思い出せなかった。ただその旋律を奏でていると、懐かしさを感じる。この歌もまた、自分にとって身近なものなのだと――――そう思った。
決して複雑な曲調ではない。これは単純な音列の繰り返しだ。しかし耳に残っている、心に刻まれている。女はその曲を何度も何度も繰り返した。静かに、ただひたすら反復する。そうすることによって、過去に立ち返ることができる気がした。
知っている、自分はこれを知っているんだ。
「ひっ」
背後で声がした。幼く、甲高い悲鳴だった。
「あら……」
女はゆっくりと振り返る。ただそれだけの動作でさえ、この世の物とは思えないほど優雅で、秀麗で――そしてずれている。幻想的であるということは、現実から外れているということだ。そしてそれは、この女がどれほど美しくとも、見る者によってはやはり受け入れ難い存在でもあるということだろう。
――――女の背後では、齢十歳程度の少年が腰を抜かしてへたり込んでいた。
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