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「いや、この頃なんだか暇で」などと返事をしたが、どうにもくすぐったかった。チーフが私のことを心配して声をかけるなど、今まではありえなかったからだ。
梶井の退職によって積み上がったピラミッドが崩れ去り、ヒエラルキーが真っ平らになったことを敏感に感じとったのかもしれない。かさり、かさりと、チーフがレシートを指遊びに巻き込んでいるのは、もしかしたら新たな人間関係の構築に少し戸惑っているのかもしれない。
二十三時五十分。店の片づけを終えたあと、いつも以上に丁寧にチーフに挨拶をして駅に向かう。
ホームに立ったのが二十四時。繁華街近くの駅なので、飲み会帰りの会社員が老若男女問わず潮のように満ち、波のようにうねって音のない喧騒を放っていた。
一人の老いたサラリーマンが柱に寄りかかって座り、首が折れたかのように深くうなだれて眠っている。頭頂から白髪が放射線状に伸びていて、男の身体全体が使われなくなった古い民族楽器に見えた。ひとたびそのイメージにとりつかれると、投影は連鎖して、周りの群衆も次々に楽器と化していった。
首が長く細い男はニスの真新しいクラシックギターに、黒いスパンコールのワンピースを着た女は錫色のトランペットに、ワイシャツの袖をまくりあげた太った男は革の黒ずんだ和太鼓に。
しかし、彼らは一人として歌っていなかった。誰もがスマートフォンを覗き込んで、自らの音色の届かない空間に浸っていた。現実でもっとも大きな音を立てているのは当然ながら電車であり、下りの十両編成が鉄の音を筐体の内と外に響かせながら滑り込んできた。
同時に、群衆のうねりから鋭い声が火のように閃いた。
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