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「ジジイ、てめえここにいろ!」
若い男の怒声だった。離れていて見えないが、喧嘩をしようとしている。群衆はスマホから目を離して叫びの方へ顔を向けた。かなり離れているため、私から男の姿は見えなかったが、誰かを追いかけているようだ。
ただ、その誰かは群衆にまぎれて逃げてしまったようで、男の咆哮だけがホームに響いている。やがて、群衆はふたたび小さな画面へと目を戻し、耳にフタをして、鼻をつまんで音色のない海へ沈んでいった。
私には、怒りを抑えられず声を出し続けている彼だけが、この世界を生きているように思えた。しかし、だれもセッションに参加しないまま、彼もそのうちに心が鎮まって、沈黙の海に還っていくことだろう。暗い水底にただよう多くの人は、彼の入水にほとんど気づかないだろう。
二十四時四十分、家に着いた。日付けはとっくに変わっていたが、まだわたしは昨日にいた。風呂で体にまとわりつく油を洗い落とし、エアコンをつけたまま洗ったばかりのタオルケットにくるまると、ようやく昨日が幕を下ろし始めた。梶井がバイトを辞めたことやチーフが言ったことの意味など、反芻しようと思っていたあれこれが形を残したまま、頭は消化をやめようとしていた。
原口とチャンの前で約束した、〈物体X捜索隊〉の新たな方向性はまだ決めていない。もう、一ヶ月近く、チャンと夏菜子に会っていなかった。原口だけは授業が一緒だから顔を合わせているものの、最近彼も映画サークルの後輩への指導で手いっぱいのようだった。
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