フレイミングナイト

10/10
前へ
/92ページ
次へ
「シンゴ、焦ってチャンネルを消しちゃだめだよ」  私の血中に大量の焦りが分泌されるのを、チャンは医師のように正確に診ていた。思わず鏡をのぞいて自分の顔を見た。沸騰するように火照っている顔は、思っていたよりも白い。 「というより、チャンネルを消しても意味がないんだ。ぼくが確認する限り、すでにコメントをまとめてるサイトが生まれてるし、ツイッターでも批判コメントが出てる。僕らの動画をさらに転載しているチャンネルもあって、そこも炎上している。逃げるにはログが残りすぎているんだ。むしろ、逃げるほうが悪い印象を与えて、リスクになる。ぼくたちの個人情報を調べてる輩も出てきているだろうしね」 「……どうしよう」  私の声には、もはやなんの感情も灯っていなかった。小動物にとってのヘビのような、圧倒的な悪意を想像して、私は、本当に何も考えられなくなっていた。命の危険が迫ると脳へのエネルギー供給は止まり、逃走するための筋力にすべてのリソースが費やされることを体現していた。すでに筋肉が震え出している私は、冷静なチャンの指示を待つのみであった。いまチャンがなにも言わずに通話を切ったら、すぐにでも筋肉が働き始めて、体は猛スピードで夜の住宅街へと消えていくだろう。 「リーダー、明日、動画を撮ろう。先生ももちろん呼んでね。ぼくからどうしても伝えなきゃいけないことがある。それまではチャンネルを消しちゃいけない。あ、でもカナちゃんが映っている動画だけは消したほうがいいかも。女の子ってだけで、乱暴に扱っていいと考える人間が山ほどいるからね」 「わかった、了解した」  そのときの私にとって、チャンが示したことは交通標識と同じだった。守らなければいけないもの。守らなければ死に直結するもの。それ以上でもそれ以下でもなかった。あとから振り返ってみると、このときのチャンの言葉には経験に裏づけられた肉が宿り、深い洞察の谷に血がざぶざぶと巡っていた。それほど存在感のある生きた言葉を、単なる記号としか受け止められなかった。
/92ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加