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話によると近頃はお客が増えて一人で大変なのだと。
今すぐにでもやってほしいと熱く語られた。
(こういう困ってるアピールに弱いのよね)
おそらくブラック企業に就職したのはこれが原因だ。懲りてない。
仕事内容は至ってシンプル。客から注文を取って、席に届ける。
大切なことは――雑談などしてお客をもてなしてほしい。できればここに来たことをよかったと思わせてほしい。――この二点。
「そんな雑用みたいなことでいいんですか?」
「誰かを喜ばせるってことは簡単なようで実は難しいんですよ」
オーナーは神妙な顔になって口元だけで笑う。
(この顔、ずっと見ていたいなぁ)
思わず好みの顔に頬が緩み切ってしまう。
瑞樹の背後で扉が開き、カランと涼やかな音でドアベルが来客を知らせる。
「早速、お願いしてもいいですか?」
入って来たのは初老の男だ。
禿頭に帽子を乗せて品のいいスーツに身を包んでいる。
見るからに優しそうな男性だ。
笑顔で男性に近づくとふわりとどこか懐かしい香りがした。
注文はコーヒーを一つ。
「待ち合わせですか?」
一人でぽつんと座る丸めた背中が寂しそうで思わず声をかけた。
わずかに目を見張る。すぐに驚いた顔をひっこめて優しい笑顔になる。
「ええ。川のむこうで待っている人がいるんです。ずいぶん前から会っていないので、向こうは覚えているのか不安で……」
男性はテーブルの上で手を組んだり閉じたり、落ち着きがない。
(久しぶりに会う人って緊張するよね)
「もしかして同窓会ですか?」
「いえ。違うんですが、久しぶりに会うんです」
「女性の方、ですか?」
「分かりますか? 随分と前に別れてしまった私のとても大切な人なんです」
大切な人――初恋の人だろうか?
(初恋は実らないって言うもんね)
まるで初めてのデートの前のように緊張している。ガチガチの少年のような姿に思わず頬が緩む。
(いくつになっても初恋の人に会うのは緊張するかも)
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