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「素敵ですね」
瑞樹はお盆を両手で抱え込むように持って微笑んだ。
「大丈夫ですよ。私だったらこんな素敵な方、忘れません」
びっくりしたような顔になったがつられるようにやわらかく表情を崩す。
――そのまま甘酸っぱい思い出話を聞かされた。
楽しそうにゆっくりとコーヒーを味わうと、小さくつぶやいて立ち上がる。
帽子を手に笑顔でオーナーに深々と頭を下げた。
「ありがとう、これで思い残すことはありません」
「良い旅路を」
何だか奇妙な挨拶だった。
店をでると禿頭に帽子を乗せ、ゆっくりと歩いていく。
男性の行く先には見覚えのない大きな川が見えた。
(あんな川、あったっけ?)
小首をかしげながらも背中が小さくなるまで見送って店に入る。
(片付け、しなきゃ!)
つい、ゆっくりその背中を見送ってしまった。
油を売ってると怒られてしまう。
慌てて店内に戻りカップを回収する。のんびりし過ぎたことを注意されるかと思ったが、
「――お疲れ様。実にいい接客だったよ」
お叱りどころか笑顔で褒めてくれた。
これにはお盆を抱えたまま瑞樹はあんぐり口を開けてしまった。
「いいんですか、あれで?」
「君は人の心に寄り添うことが上手なようだ。君にお願いしたことをやってくれて満足ですよ」
オーナーが微笑んで頷く。褒められて素直にうれしい。
そう言えば仕事と言えばブラックな不幸旋風が吹き荒れる環境しか知らない。
(やはり余裕のある会社というのは環境も違うのだろうか?)
瑞樹自身は要領がよくない。思い返せば小さなころからあまり褒められる子じゃなかった気がする。
(はっきり言って暗くて不器用な子だった)
小さなころからグズでドジで。いじめられることはなかったけれど、あまり目立たない存在。家族にも褒められるより怒られることの方が多かった。
ぼんやり考えていると、涼やかな音でドアベルが鳴った。
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