スタープラチナ・ザ・ワールド

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スタープラチナ・ザ・ワールド

 今在る世界が現実のものと、一体誰に断言する事が出来ようか。私が見えている世界が在るからと言って、同様に他の人も同じモノを見ている等と一体どう証明出来ようか? 世界の証明――それは言葉遊びの域を出ないある種の妄想であろうか。 私にはそうも思えない。寧ろ逆で、世界の本質に迫ろうとする知的探求心は、ともすると人間が生まれついて持つ進化の奇蹟そのものであり、時の賢人たちがこのような哲学的命題に魅かれ、そして誤解を恐れず断言するならば、散って行った。 だが、哲学の体系は個で没する刹那的智慧では無い。連綿と続く系譜の中で、反論と証明という繰り返し起こる洗練の中で、確かに現代思想へと私たちの中に――少なくとも、無意識化では生き続けている。 であれば、私が世界に対して投げ掛ける謎というものも、人間の成長過程に於ける正しい進化と言えなくもない。 だから欲する、貪欲に。私は私自身が到達し得る真理を探し、その為に死のう。 だが、この命題に対して明確な答えを持つ者を、私は知らない。いいや、正確には、私を納得させる理論を持った人間を、私は知らない。 だが、知らないからといって何も学ぶ事がないかと言えば勿論否である。 そもそも、人間一人に太刀打ち出来る問題ではないのだ。 世界よ、これは私たち人類からの挑戦状である。神よ、我々の敬虔とは程遠い態度を嘲笑する束の間の余裕を楽しむが良い。 私は自らの死をも厭わない覚悟で、きっと到達してみせよう。そうしたら神は傲岸不遜にも居並ぶ私を見て、一体どのような表情をするであろうか、興味は尽きない。 とは言え難題である。人類史始まって以来、世界という神の座へと到達した者は一人もいないのだ。 狂おしい程の愛憎で以て真理を追い求めれば、その分世界も遠のいて行く。高名なる歴史上の人物も、同様に歯痒い思いをしたのだろうと考えると、少し可笑しいと同時に、そんな自覚は傲慢でもあろうかと少々反省の念も起きて来る。 とは言え世界に宣戦布告し神の不興を今から買おうという私が、高名なる先達に遠慮して物言えぬ人形となるというのも奥ゆかしい限りだが、その奥ゆかしさは別に取っておくがよかろう。よって私は自身の態度を改める気は毛頭無い。 よくよく見る原風景に、白銀に輝く眩いばかりの――その癖に何もない荒涼たる世界がある。これは現実世界なのか、夢の世界なのか、はたまた妄想の類の空想世界なのか? それをここで論じても始まらないから先へと行く勝手を許して欲しいのだが、私はこのスタープラチナに輝く世界が好きだ。 同時に、この世界の可能性にも薄々感付き始めている。この世界は私自身の始原であると同時に還るべき故郷である。 生まれ死ぬ、誰もが通る過程はあれど、それぞれの発着とも呼ぶべき世界観がそれぞれに在る。 だが、世界観がそれぞれにあると言うのなら、例えばこの原初の風景を、一体全体どのようにして共有し得る事が出来るのか。観測している事物の出発点たる認識の第一公理が、人間等しく同じ等とどうして言えるのだろうか。 例えば盲目の少女がいたとして、どのようにして私が見ているリンゴを説明出来ようか。形状を伝え、実際に触らせ、色と言う概念を伝え、甘酸っぱいという味覚に教え、新鮮な甘さを嗅覚に訴え――考えられる全ての情報を伝えたとして、私の認識と少女の認識が完全に一致しているという保証は、払った労力の虚しさに呼応するよう残念ながら無い。 なぜなら、視覚という第一公理の共通認識が、私と盲目の少女では既に前提として破綻しているのだから。 仮に彼女自身がその後の独力により視覚に関する研究を重ね、人間が知覚しているリンゴの『赤』という概念を、誰よりも理解したとしても――残念ながら盲目の少女はいつまで経っても、少なくとも私が現に見ているリンゴの『赤』を認識する事はない。 よって、私の世界に少女が到達する事はない。また、これは逆も然りである。私が少女の認識しているリンゴに到達する事もないのだから。 つまりリンゴを世界そのものへと拡大解釈していくと、私が証明しようとしている世界の真理は、あくまで私自身にしか理解できない、或いは到達出来ない真理でしかないという事になる。 これは観測者の気まぐれであろうか?神が人間に――否。世界に架した意地悪であろうか?私は後者の気がする。 いずれにせよ、私の追い求める世界の実像は、私によって完成する一方で、私の代で無用の長物となる悲しき運命を秘めている。なんとも空虚な思惟の結果ではなかろうか。一方的な期待を持つ、それは本人の勝手であり、仮に期待を裏切られたからと言って、その責を他人に対して咎めるのは不義と言えよう。 だが、それは相手が人間であれば不義として成立するもので、相手が神、或いは世界となれば話は別である。私は世界に完璧なる真理が存在すると期待した。 だが現時点に於ける観測結果として世界の真理はそれぞれに独立して存在する事になる。私が期待した真理は、真理から事物へと発信するものと思っていた。だが実際には、それぞれの事物からそれぞれの真理に到達するだけだったのだ。 世は儚くそして無常なり、とはよくぞ言ったものである。私を優しく包み込む、原風景とも取れるこの世界ですらが、共通認識を持たない孤独な世界であった。 独りぼっちの孤独に耐え忍び、生者の夢魔とも呼ぶべき白銀の世界で、神は更なる絶望の思し召しを私に格別の愛顧で以て遣わされた。この憤懣遣る方ない憤りを、どこにぶつけるべきであろうか。 世界は人間の観測、即ち経験によってその全容を表象へと炙り出すが、人間が観測する前――言い換えるならば経験に変換される前にあたる手付かずの、全くの始原世界は観測のしようがない。 つまり私たちがいかに世界の真理の実情を、余分な肉を削ぎ落し切りこれこそ真理と主張しようにも、結局はモノ自体には到達出来ない訳である。こんな結末、余りにつまらんと思うのは私が俗人故だろうか? 人間は、共通の経験の形式を持たない者とは真理を共有出来ないというドイツの哲学者カントの主張に、私も唯々諾々として流されるしかないのだろうか? いいや、結論を決めるには早計であろう。時間は在る、無限とはいかなくとも、この白銀に輝く世界においては、悠久とも思える有限の時間で存分に答えを思索する事が出来る。私は常に思い、そして悩もう。このスタープラチナ・ザ・ワールドの終末が訪れる、最後の審判のその時まで。
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