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第四章 真実 6
「おはよう友一」
翌朝、僕が布団から起き上がると、彼女が既に台所に立って朝ご飯を作ってくれていた。トントンと、包丁で食材を刻む音が聞こえる。
「おはよう。今日はもう、大丈夫なの?」
この「大丈夫」は、もちろん体調のことだ。昨日はほとんど回復している様子だったが、またいつ体調が悪化するとも限らない。
「大丈夫。今日はなんだか、本当に本調子よ。このままちゃんと、元気になりそう」
ちゃんと、元気に。
その言葉が、本当は無理をしているのだということを、容易に僕に知らせてくれた。けれど、きっと彼女がこうして朝早く起きて朝食まで作ってくれているのは、僕に心配させたくないからだと分かっていた。だからこそ、僕は彼女の心遣いを、簡単にふいにしたくないと思う。
「そっか。あまり無理はしないようにな」
「分かってる。自分の面倒ぐらい自分で見るわ」
「水瀬、久しぶりだな」
夏音の作ってくれた朝ご飯を食べた後、僕は再び彼女を家に置いてバイト先に向かった。彼女が僕の家に泊まるようになってから、ほとんど同じような毎日を過ごしている気がする。違うのは、彼女の体調が良かったり悪かったり、不安定だということだけだ。
「久しぶりって、この間一緒にシフトに入ってから一週間も経ってないよ、後藤」
「そりゃ確かに。でも俺たち、ほとんど毎回シフト被ってっからさ」
「それはそうだね」
ここ最近、アルバイトは新人の沢田さんと二人きり、というシフトが多かったため、後藤がいるのは確かにちょっと久しぶりな気もする。
「やっほ、水瀬君」
僕が最近のシフトメンバーについて考えていたとき、ちょうど沢田さんが裏のキッチンの方からひょこっと顔を覗かせた。
「沢田さんもいたんだ」
「『いたんだ』って水瀬君、あたしにはぜんっぜん興味ないみたいね」
まだここのバイトに入って一週間程しか経っていないというのに、既に彼女にはこんな冗談を言われる仲になってしまった。
「まあ、興味はあまりないかな」
「何それ、ひどーい」
彼女はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向くふりをした。もちろん、本当に怒っているわけではないということは、彼女の口元にこぼれた笑みから一目瞭然だった。
「なんだお前ら…俺がいない間に仲良くなりやがって」
後藤がレジ前で、朝一番の現金確認をしながら悔しそうにしている。
「仲良くはない」
「そうよ、水瀬君は夏音のことしか頭にないもの」
沢田さんが朝っぱらから後藤の前で、しれっとよからぬ発言をする。後藤はすかさずニヤッと怪しげな笑みを浮かべる。如何にして僕をいじろうかと企んでいるのだろうか。見れば、いつの間にか現金確認も終了したようだ。
「夏音って、水瀬の元カノだっけ」
「うん。まあ、今は彼女だけどね」
「そうだったそうだった」
夏音とよりを戻したことは、以前後藤に報告していた。夏休みの初めに彼女と再会した後、相談に乗ってくれていたからだ。
「で、上手くいってるのか、あれから」
僕の予想に反して、後藤は夏音のことで、僕をからかう様子ではなかった。
僕と後藤が二人で話し出したため、手持無沙汰になった沢田さんはいそいそと裏での仕事に戻ってゆく。
「ま、まあ…関係は良好だよ」
僕は一瞬、後藤に彼女の身体的な問題について触れようか迷ったが、デリケートな問題をこんなところで話すわけにもいかなかったため、彼に対して表面的な返事しかできなかった。
「そうか。それなら良かった。今度はちゃんと続くといいな」
後藤は僕の曖昧な回答に対し、さして疑問を抱くわけでもなく、僕の肩をポンと叩き、応援してくれた。いや、後藤のことだ。本当は何か感じることがあったかもしれないが、あえて深く聞いてこなかったに違いない。
どっちにしろ、彼の気遣いに僕は「ありがとう」と感謝した。
その日のシフトは、沢田さんと同じ時間に上がりだった。更衣室で着替えてから帰ろうとしたとき、ちょうど女子の更衣室から沢田さんが出てきたため、途中まで一緒に帰ることになった。
「水瀬君お疲れさま」
「お疲れ」
僕は自転車で通勤していたが、沢田さんが歩きだったので、チチチチと車輪の音を鳴らしながら自転車を押して歩いた。
夕暮れ時の光が、僕たちの進む道を橙色に染め上げる。高校時代、夏音と文化祭の委員会終わりにこうして二人で歩いて帰ったのを思い出す。あの時、夏音は夕日が綺麗だと言っていた。キャンバスに描きたいとも。でも、彼女は本当は青い世界しか描けない。赤い世界は、彼女の心の傷を呼び起こすから。だから、あの時彼女が「綺麗」と言ったのは、本心じゃなかったのだと、後で気が付いたのが妙に虚しかったのを今でも覚えている。
「さっき後藤君と話してたことじゃないけどさ」
沢田さんは、普段は今朝のように僕と冗談を言い合えるような明るい性格をしている。でも、そんな彼女も、夏音の話をする時は、ちゃんと「おふざけモード」をオフにしてから話し出す。
「どうだった?病院」
僕は、沢田さんにはきちんと夏音の今の状況を話すべきだと思い、病院で医者から言われたことをそのまま告げた。
「なるほどね……ストレスが原因で、記憶障害が起こったってわけか」
「どうやらそうらしい」
「だったら、そのストレスの原因、心理的ショックを引き起こした出来事が分からないと記憶も戻らないわけだ」
「多分そうだろうな……」
こればっかりは、僕にも沢田さんにもきっと分からない。夏音が、自分で思い出す外はないのだ。
それに、
―ううん、原因を知ることじゃないわ。むしろ、原因を知れたら、その時は本当に『ストレスによる解離性健忘』って言うことができるでしょう。健忘だったら、私は怖くない。でも、本当はそうじゃなかったら…?
彼女は、自分が解離性健忘ではない可能性も疑っている。僕には分からないが、彼女には彼女なりに何か思うところがあるのだろう。それを無理に聞き出すのは、今は難しいと見ている。
「水瀬君、あのさ」
足元で、僕と沢田さんの影がお化けみたいにひょろりと伸びて、時々、ふらっと揺れているように見えた。もちろん、そんなことは起こらないのだけれど。
「あたし、やっぱり夏音と会ってみたい」
隣を歩く沢田さんが、意を決したような固い口調でそう言った。
「……夏音と会う、か」
「……やっぱダメかな? あたしが夏音と会ったら、もしかしたら何か変わるかもしれないじゃない? もちろん変わらないかもしれないけど。でも、何もしないよりましだと思うの」
沢田さんは本当に友達想いなんだな、と僕は思う。
中学時代に、彼女が唯一仲良くしていたという友達。
僕だって、沢田さんと夏音を一度会わせてみたいと思っていた。
「分かった。彼女に聞いてみるよ。ここ2、3日でだいぶ落ち着いてきたし、もしかしたら会ってくれるかもしれない」
沢田さんが夏音を救う要になるかもしれないと、ちょっとばかり期待を込めて、彼女の要求を受け入れることに。
「ほんと! ありがとう。よろしくお願いします」
何が起こるか分からないけれど、彼女が沢田さんと会ってくれるようにと願いながら、僕はその日、沢田さんと別れた。
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