ぼくのせかい、きみのせかい

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 恋人が出来てから、すこし自分が大人になったような気がした。年を取ると時間の流れを早く感じると聞くけれど、若干一七の僕が同じ感覚に陥っている。授業はいつの間にか終わるし、部活も夢中になっているうちにお仕舞いになる。でも、こうして楽しみな時間を待って時計の針を見つめていると、恥ずかしいのか、針はなかなか動いてくれなくなる気がする。 「じゃあここを、ボーッとしてる吉村(よしむら)!」 「わかりかねます」 「黒板も見ずに答えるな貴様」  のんびり視線を動かし、黒板に書かれたながったらしい数式を見つめる。うむ、やはりわからない。先生は呆けた顔の僕に嘆息し、しゃれたジョークで教室を沸かせたあと別の生徒に問題を解かせた。しかし、皆の意識が黒板に向かってもなお、僕に刺さり続ける一つの視線が消えない。  顔を向けると、見事に視線がぶつかった。強気な目が窓からふくこむ風に短髪を揺らしながら、こちらをジロリと見つめている。見つめているというよりは、睨んでいる。まじめに授業を聞かない僕を注意してくれているんだろう。  軽く手を振ってみる。無反応。ならばと思い立ち投げキッスをしてみる。彼女はシャワーでも浴びるように目を細めて口を動かした。 『馬鹿?』  断じて違う。これはれっきとした君への愛情表現で(そうろう)。  呆れられたかな。少し息をつくと、彼女は黒板のほうを無垢かと思いきや、頬を染めながら僕の方へ向き直り、軽く手のひらの自らの唇に当てた。そして、予想外にも、僕に向かってクールな投げキッスをしたのだ。恥ずかしさに目をつむって、初接吻もまだな唇を少しだけつきだして、ややヤケクソに。  彼女の意図をはかりかねて、僕は頬が熱くなるのを感じた。授業中であることを忘れてしまう。君と僕だけの世界だと勘違いしてしまいそうになる。おそるおそる目を開いた彼女と僕の大きく開かれた瞳がぴったりとあう。それは一瞬の出来事で、彼女はすぐに黒板に向き直って姿勢を正した。 「沙耶(さや)……かわいいやつ」  背中をふるわせて羞恥心と戦う彼女が愛おしく感じて、僕は口元をゆるませた。  金管楽器の音が途絶えた放課後、僕らは正門から少し離れた商店街の入り口のベンチで落ち合う。本当は学校で待っていてほしいけど、彼女曰く恥ずかしいとのこと。それがまたいいんじゃないかと僕は言ったけれど、軽く腹をつつかれてしまった。  部活仲間にはやし立てられながら自転車に乗り込み、商店街の入り口まで立ちこぎで走る。乾いていた汗が再び噴き出す。首にかけた水色のタオルで乱暴に顔から髪の毛まで拭った。ジャージで登下校するのが禁止になっているせいで、運動系の部活に所属している生徒の持ち物は多い。それは僕も例外で無く、自転車の籠には教科書を詰めた鞄、背中には部活のユニフォーム、腰には学ランを縛り付けていた。 「お待たせっ」  少しかっこつけて自転車から降りる。額からまた汗がしたたる。そんな僕を見て彼女は少しだけ嬉しそうに嘆息した。急がなくていいのに、なんて呟きをしながら読んでいた文庫本を鞄にしまう。  彼女のために急いできたけど、彼女のために急ぐのは自分のためだ。彼女のためになにかするのが嬉しいのだ。僕の気持ちはこんなに明確だけど、彼女に伝えたことは無い。授業中はあんなにふざけて見せたけど、こうして二人きりになると恥ずかしさが増して、何も言えなくなってしまう。 「いこっか」 「ほい、いつものとこまで」  肩を並べて歩き出す。一〇〇メートルほど商店街を歩くと目の前に倉敷駅が見える。大きな四車線道路をエスカレーター付きの歩道橋を登っていけば、すぐに彼女とはお別れだ。偶に商店街の中でご飯でも食べようかという話になるけれど、今日はどうする? と聞くと少し悩ましそうにしている彼女を見て、なにか予定があるんだろうなと察して、少し寂しかった気持ちを笑ってごまかした。本来、彼女の家は真逆の方向なのだ。学校から倉敷駅に向かおうとすると南にいくことになるが、彼女の家は学校から北に向かったところにある。  授業中のことをからかったり、まじめに話を聞けと叱られたり、他愛の無い会話をしている家に二人で過ごせる時間は過ぎていく。すごく短く感じてしまう。 「ぼくさ、大人になった気がしてるんだよね」 「嘘、君はまだまだ子どもだよ」 「だってさ、すごく時間が過ぎるのが早く感じるんだよ。君との時間も、さ」 「ふうん。寂しいんだ? かわいいね」  馬鹿にされた気がする。でも嬉しそうに目を細めて、意地悪な笑顔を浮かべる君を僕は見逃さなかった。なんだよ、僕が寂しいと嬉しいのか君は。 「君は、寂しくないの……?」  わざと弱々しく、俯いて、悲しそうに言ってみた。案の定、彼女は申し訳なさそうに僕の顔をのぞき込んでくる。笑っている表情を見られないように僕は手のひらで顔を隠した。慌てる彼女。でも、僕がどんな言葉を望んでいるかは伝わっているようで、恥ずかしそうに僕の袖をつまんだ。  顔を上げると、目を背け頬を染めながら、彼女がゴニョゴニョと呟いていた。 「わ、私も、あなたがいないと、寂しぃ……っ」  凜としたつり目をギュッと閉じ、恥ずかしさに耐えている彼女がかわいくて、僕は思わず彼女の手を握った。きゃっと小さな悲鳴。僕は彼女と鼻が触れあうくらい顔を近づけた。 「じゃあ、今日は君の家まで送るよ」 「え、遠いよ……」 「いいじゃん。たまにはさ」  彼女をやわらかい手を握りなおして、北へと舵を切る。商店街には十字路があり、まっすぐ進めば倉敷駅へ、右に進めば駐車場へ、そして左に進めばまだまだ長い商店街が伸びている。始めて行く道だ。  彼女は僕を送り届けたあと、この騒がしい道を一人で歩いているのだろう。きっと、文庫本に目を落としながらでも。アンティークな喫茶店とか、知る人ぞ知るトンカツ屋とか、全国一位をとったぶっかけうどんとか、僕が聞けば答えてくれるけれど、君は当然のように目も向けず通り過ぎていく。僕の知らない世界で、沙耶が生きてきたのかと思うと、少しだけこの景色に妬けた。  商店街を出て、倉敷駅前からまっすぐ伸びた大きな道路と合流する。目の前には大きな国際ホテルと図書館博物館。そういえば博物館には行ったことが無いから、今度デートに出かけてみようかな。でも、彼女にとってはもう思い出の中で飽和した代物なんだろうか。  二人で歩く距離が長くなってくると、だんだん話すことも無くなってくる。いくら好きな人でもだ。僕はその沈黙がどうしても苦痛で、なにか話すことは無いかと探すわけだけれど、彼女は気にしていない様子でつないだ手を偶に見つめては微笑んでいる。僕が知らない彼女が生きた世界。それを見るだけでなんだか満たされない気持ちになって、少しいらいらした。唇を尖らせてみる。対照的に彼女は楽しそうだ。 「あ。ここ知ってる?」 「ここって、ああ。美観地区」 「そ。ちょっと入ってみない? 君とつきあう前はよくここを通って帰ってたんだよ」 「帰り道が観光名所って、なんだか贅沢だね」  彼女は気にしたこと無かったといって、可笑しそうに笑った。  美観地区の入り口から地面はアスファルトでは無く石造りになってごつごつしているため、サンダルなんか履いてきたら大変そうだ。江戸時代からの町並みがそのまま残っていて、和風の町並みと言ったらまず想像できそうな作りをしてる。でもその看板にフクロウカフェとか、豆柴カフェとか、桃パフェとか、なんだか洋風なのか和風なのか分からない名称が書かれているのだから面白い。道と道で挟むようにして一本の小川が流れ、美しく凜々しい白鳥が、堂々と泳いでいた。子どもたちが餌をあげて楽しんでいる。  道の端っこに腰掛けて、地面に商品を広げているアクセサリー売りがいたり、暑苦しそうな顔をした人力車をひくおじさんが走っていたり。 「僕たち、タイムトラベラー?」 「初めて来た人ってそんな感想なんだ?」  地元の子どもたちは無料では入れる大きな美術館があったり、なぜか外国人が陽気にトルコアイスをねっていたり。不思議な空間がどこまでも広がっていた。でもどこか自分が住んでいた世界とは遠くなくて、まるで遠く離れた家族の元にやってきたような少しの緊張と安心感がある。不思議な感覚だった。 「ちょっと、ここ寄ろうよ」 「え、ここ酒屋じゃん」  彼女がすっとつないでいた手を離して店の中に入ってしまう。握っていた手が少し温かくて、だんだん冷えていくのが寂しかった。後を追って、おそるおそる暖簾をくぐる。  入り口が常に開いているせいか、あまりお酒の香りはしなかった。底まで広いお店では無かったけど、数え切れないほどの瓶がそこら中におかれている。ラベルには読めない漢字が書かれたものが多かった。俗に言う、日本酒というものだろう。 「おや、沙耶ちゃんはこんなイケメンを連れて! やっぱり高校生じゃけえのう!」 「別にいいじゃん! おばちゃん、ラムネふたつ!」 「金はええから勝手に持っていきな。開かんかったら外のやつをつかいぃ」  彼女がお店に並べられたラムネを二つ手に持って駆けてくる。いこっ、と僕に声を掛けて、そそくさと店を出る彼女を見て、彼女と話していたおばちゃんのほうをみた。もう僕に興味は無いようで、店の作業に戻ってしまっている。少し寂しく感じながら、おばちゃんにお礼を言ってから店を出た。返事は聞こえてこなかった。  暖簾をふたたびくぐると、彼女は店の前に設置されたラムネのビー玉を押す道具をつかって、片方を僕に手渡してきた。受け取り、二人並んで店の前のベンチに座る。 「ここ、結構来るの?」 「昔から仲良くしてもらってるおばちゃん。遠い親戚なんだって」  そうなんだ、と納得したように首肯してラムネに口をつける。炭酸のはじける感触が口全体に広がった。夏って感じ。甘い風味が心地いい。  おばちゃんと話す彼女は、なんだか楽しそうだった。あんなに元気な姿は見たことがない気がする。学校ではいつもまじめでおとなしくて、曲がったことを嫌う委員長タイプ。僕以外も、見たこと無いんじゃないか。いや、彼女と昔から親しかった人がいるなら、あるいは。  気になり出すと、どこまでも気になってしまう。僕が知らない彼女のことが、どんどん知りたくなってくる。僕の知らない彼女がいることが、嫌で嫌で仕方なくなってくる。 「ねえ、君はさ、小学校の時はどんな感じだったの?」 「え? どうしたの、急に」 「いや、なんか、気になってさ」 「……ちょっと様子が変じゃない? なんか、いやだった……?」  不安げに彼女が僕を見つめる。ラムネはほんの少ししか減っていなかった。ガラガラと人力車が通り過ぎる音が耳に残る。初めて聞く音。でも、彼女は聞き慣れた音。 「なんか、君のこと何も知らないなって、思って」 「え? そんなことないでしょ」 「そうかもしれないけど、君が今まで過ごしてきたこの町のこと、僕は何一つ知らないんだ。君が、どんな風に過ごしてきたのかも」  なんでこんなことを気にしているのか分からない。でも、どうしようも無い独占欲が叫んでる。君のことがもっと知りたい。過去も未来も全部僕で埋め尽くしたいと思ってる。こんな気持ちになる自分が嫌だった。大人になれたなんて傲慢だ。僕はどこまでも子どもだった。  でも、彼女がそんな僕を見て微笑んでくれた。そして、僕に顔を近づけた。 「え?」  頬に柔らかな感触。わずかなつめたさ。鼻孔をくすぐるラムネの香り。頬にキスを、された。驚きのあまり彼女の方を見る。てっきり真っ赤になっているのかと思いきや、大人っぽく微笑んで、僕の鼻を指先でつついてきた。 「なに不安になってるの」 「いや、ごめん」 「わたしだって、吉村くんのこと、なにもしらない。これからずっと一緒にいるなかで、しれたらいいなって思ってる。吉村くんのこと、全部大事にしたいから」  彼女はすらすらと話す。まるでドラマのワンシーンを見てるみたいだ。恋愛に疎いと思っていた彼女はどこかに隠れて、今目の前にいるのはまるで違う人のよう。彼女は、いったいどんな人なんだろう。 「中学校の部活動とか、委員会とか。お父さんお母さんのこととか。昔好きだった遊びとか。初恋の人とか」  僕も沙耶も、お互いのことを何も知らない。でも好きになった。この感情は一時的なものじゃない。知れば知るほど、好きになる。今目の前で話す沙耶が、今まで思っていた沙耶と別人のようだとしても、僕は沙耶のことをもっと好きになった。 「だから、おしえて」  あなたのこと。  夕暮れの、黄金の光が彼女を照らす。 穏やかで涼しい風が髪をゆらす。 ビー玉が、鈴の音のように軽やかな音を奏でる。  僕たちの恋は、まだ始まったばかりだ。  これから、もっと君を好きになる。 了
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