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まだ小さかった頃にはじめて「王」を見た。
同じ歳くらいの女の子だけど、わたしと違って、きれいな格好をしていたから、その人がただものではないということは幼心にすぐ理解できた。兜を被った二頭立ての馬車、絹で飾られた幌に覆われた窓の隙間からこっそり見えた横顔。薄い金色の髪の毛と、宝石を散りばめたティアラ、豪奢で重たそうな赤い礼服、白い肌、青い瞳。
それはたった一瞬のことだけど、わたしの人生を変えるのには充分な出会いだった。それ以来、わたしは未来の女王の顔をずっと頭の中で眺めながら、つらく貧しい暮らしに耐えてきた。臭い貧民街の奥の奥、寒くてじめじめして、虫やネズミがたくさん湧いてくる家でひとりで震えている時も、あの人の顔を思い出すだけで、勇気が湧いてきた。
16歳の戴冠式は、王宮前の広場で盛大に開かれたので、わたしも遠目から女王の姿を見ることができた。小さいころの未来の女王が、本当に女王になった瞬間だった。
成長した女王は、めちゃくちゃ、美少女になっていた。ドレスも宝石も、全部が邪魔でしかない。この人の本当の魅力には敵わない。わたしの胸は高鳴った。
「みなさん、集まっていただきありがとう」
女王の声で、ざわめきはしんと静まり返った。そういえば声を聞いたのは初めてだ。想像していた通りの、よく透き通った声だ。
「私は、女王としてはまだ未熟ですが、この国に暮らす全ての人を幸せにします。病める者には救いを。貧しい者には富を……そして全ての者に幸福を……」
女王の演説にみんな聴き入っていた。わたしもだ。そのすばらしい声に、すすり泣く人もいるほどだ。
短い演説は終わり、大歓声が王宮を包んだ。わたしはそれを見ながら、こっそりと自分の暮らす貧民街へと戻った。女王の顔と、声とを、何度も何度も思い出しながら。
女王さま、あなたの言うことが本当なら、わたしのように貧しい人も幸せになれますか?
それから数年経ったころ、女王の婚約が決まったというニュースが国中を駆け巡った。海の向こうの国の若い王子らしい。わたしはそれを聞いた瞬間、すぐに準備に取り掛かった。
女王は明日には、かの国へ出立するらしい。時間がない。決行は今晩だ。
◯
「女王さま……」
わたしの呼びかけに、女王は寝台からゆっくりと体を起こした。そしてわたしを見ると、きゃあ、とか細い悲鳴を上げた。わたしはそれが部屋の外に響かないように飛びかかって、身体の上にのしかかった。胸の上に膝を乗せて体重をかけると、女王の肺から空気が抜け、声が響かなくなる。貧民街では誰でもできる強盗のテクニックだ。
「だ、だれか……」
「大きな声を出さないでください。そうすれば何もしませんから」
「だれか……!」
「大声を出さないで!」
わたしは懐に隠していたナイフを見せた。月明かりに照らされ、まだぬらめいている血の赤を見て、女王は目を見開いてひっと息を呑んだ。
わたしは女王が言うことを聞くと確信したので、胸の上に乗せていた膝を退けた。
「女王さま。この度は、ご結婚おめでとうございます」
まずはそれを言わなくちゃ。
女王は眉をきっと寄せて、目を怒りにゆがませた。そんな顔もできるんだ、かわいい。
「何が目的……ですか……?」
でも本当は怖がっているのだろう。声が震えている。ああたまらない、女王の見たこともない表情をこんなにたくさん見られる。女王の聴いたこともない声をたくさん聴ける。
「わ、わたし……あの……」
いけない、緊張でわたしの言葉も詰まりがちになる。落ち着いて、深呼吸だ。この部屋はとてもいい匂いがする。たぶん女王さまの髪の毛の匂いだろうか、甘ったるくて、でも薬草みたいな突き刺すような匂いもする。
「わたし、小さい頃に貴女に出会ってから、ずっと貴女のことが好きでした。貧民街では、その日暮らしも精一杯で、つらくて、苦しくて……ご飯を食べられない時はネズミやウジを食って生きたこともありました。病気になっても医者にかかることもできませんでした。痛くて、ひもじくて……そんな時でも貴女がいたから生きてこられたんです。貴女のことが好きだから、貴女があまりにきれいだから……でも、そんな貴女が結婚して、誰かのものになるって聞いて、いてもたっても……いられなくて……」
喋っているうちに悲しくなってきて、わたしの目からぼろぼろと涙がこぼれてきた。そうか、女王は結婚して、他の誰かのものになってしまう。わたしのものにはならない。わたしは女王にとっては、ただの「国民」のひとりになる。それも貧しくて、卑しくて、見向きもされない、日の光の当たらない貧民のうちのひとりでしかなくなってしまう。
「わたしを見て」
ずっと言いたかったこと、ようやく面と向かって言えた。
「わたしだけを見て。今夜だけ、今だけでいいから、わたしのことを見て。わたしだけの女王さまでいて」
そのためには、わたしがこうして上に乗っているのは、違うよね。
わたしはベッドから降りて、女王さまの乱れた髪の毛と服を直した。そして脇に跪いて、見様見真似の礼をする。
生まれてから、誰かに頭を下げたことなんてない。
そのわたしが女王とふたりきりで、王に向かって頭を下げることができるなんて、夢みたいだ。
「顔をあげなさい」
女王の声が聴こえる。
「顔をあげて、こちらを見なさい」
ああ、夢みたいだ。
夢かもしれない。目覚めたらボロ家の隅っこで、ほこりまみれのボロ布に包まれていて、あちこちから糞尿と吐瀉物の臭いがするかもしれない。夢なら醒めないでほしい。
顔を上げると、女王がベッドから身体を起こしていた。わたしに向かって視線を投げ下ろしてくれている。目がばっちり合う。
ああ……
ほんとうに綺麗な姿。綺麗な瞳。見られてよかった。
背中から銃声が鳴り響く。
どたどたと、女王の寝室に踏み入ってくる足音がたくさん響く。
わたしは体に空いた穴と、吹き出す血を見て……痛くて、冷たくて、ああこれは夢じゃなかったんだと思って、ほんとうに心の底から嬉しかった。
「女王陛下!」
「陛下、お怪我はありませんか……!?」
「気をしっかり!」
「廊下の見張りが倒れているぞ!」
「こっちもだ!」
騒がしくなる中、わたしは、最後まで女王の顔をみていた。女王は目を動揺させながらも、わたしをじっと、見つめてくれていた。
しあわせ。
ろくでなしのわたしの死を、女王に看取ってもらえるなんて。
しあわせ。
うれしい。
だいすき。
でもどうせ死ぬなら、無理やりキスくらい、してやってもよかったかもしれないな。
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