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この手がある
「ねぇ、覚えていますか?」
君の覚えていますかが今日も始まった。
「あなた、高校生の頃、カッコつけたくて無茶していましたね。その理由を覚えていますか?」
「覚えているよ。君の前でカッコつけたくて自転車三台は駄目にしたよ」
「ふふ。ならはじめてのデートの日を覚えていますか?」
「覚えているよ。映画館に行って喫茶店に行った。君のためと思って恋愛映画を見たけど、お互いに欠伸してたね。喫茶店じゃ慣れないブラックコーヒーを飲んだものだから舌が痺れたよ」
「よく覚えてますね。結婚記念日は覚えていますか?」
「ああ。七月七日。そんな特別な日を忘れる訳がないだろう」
何年も何年も君と一緒にいる。私はそれを果てしなく幸せだと思っているんだ。どうして忘れられる。
「なら……、私の顔を覚えていますか?」
「もちろん。忘れないよ。この両目が見えなくなって三十年だが、君の顔を忘れたことなどない」
そう。僕の両目はずっと前に光を失った。それでも最愛の君の顔を忘れた日などない。君の覚えていますかは毎日聞くが、顔を覚えていますかは数年に一度。突然に問われても、僕が君の顔を忘れた日は一度もない。
「なら、今の顔はどうですか? 私はもうしわくちゃなんですよ?」
僕はそっと手を伸ばし君の頬を探り、その手をゆっくりと動かす。鼻に唇におでこに髪。ゆっくりゆっくりと君の顔に手を触れる。
「そんなことはない。君はまだまだ綺麗だ。この手で君の顔を見ることはできる。君は綺麗だよ」
「ちゃんと覚えていてくださいね。あなたもまだまだ素敵ですよ」
君の心も綺麗だ。君こそ覚えているかい?
僕が光を失ったとき、僕のもとを絶対に離れないと約束してくれたことを。
僕はね、そのとき君に惚れ直したんだ。君が綺麗なのはずっと分かっているんだよ。
「忘れないよ。忘れそうになったらまた、この手で君を見るから」
約束だ。僕の最愛の人。
了
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