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使い慣れたスマートフォンをタップして、メッセージアプリを経由し、まずはURLを送り付けてやる。それから「良い店を見つけたから来週どうだ」と一言添えると、大抵はすぐに既読のマークが付いて、返事はない。斉藤は営業成績優秀な若手のホープらしくて、こと取引先へのレスポンスは迅速・的確・丁寧と評判だが、その分、プライベートじゃ返事不精として綾下の中では有名だった。
受信メッセージを見るだけは見て、送信元が十年来の付き合いの同窓生と分かるや否や、返信は後回し。それでも友達が減ったなんて話は聞かないから、相手を選んでやっていることなんだろう。
(俺は選ばれた人間というわけだ)
斉藤の、返事を延ばして構わない枠の一人として。綾下はこの点に関して、もはや吐く溜め息の持ち合わせもない。
別段、返事がなければ綾下は一人飲みにシフトするだけだ。提案したのは、先週にもふらりと一人で訪れたばかりの店である。綾下は送信後のスマホをジャケットの胸元へすとんと戻し、七階のオフィスフロアの窓から、飲み屋街の方面をなんとなく眺める。奥まった路地に入り口を潜るとカウンターのほかにテーブルが二席、こじんまりした趣きのある店構えの小料理屋だった。自慢だというモツ煮で頂く、こだわりの日本酒が実にいい。
「綾下さん」
「おう。今から休憩か?」
「はい……すんませんすぐ戻るんで」
「いいって、きっかり一時間休め。俺もあと五分は戻らん」
「はは、んじゃそうします。お疲れ様っす」
エレベーターホールへ向かう部下の慌ただしい足音を見送り、綾下は午後の眠気覚ましに、突き当たりの自販機で缶コーヒーを煽る。大きなガラス窓から眺める街並みは穏やかな小春日和だ。執務室を上へ下への繁忙期なんてどこ吹く風、年の瀬ってのは世間が思うよりもずっと速く長く走っているもので、昼ぐらいは休まなきゃやっていられない。最後の一分まできっちりと休むのが、名刺に肩書きが付き始めてからも、綾下の変わらぬ主義だ。
コーヒーの缶を空にしたところで、さて残りの五分がどこまで減ったかと思って胸ポケットからスマホを取り出す。同時にぶるりと手の中で震えたのを、始め、綾下は錯覚かと思って画面をまじまじと見た。
『今週でもいい。今日でどうよ』
すみやかにロックを解除して返事を打ち込む。
『今日は無理だ。せめて明日にしろ』
それだけ送って、また画面をロックし直すと同じポケットへ戻す。綾下は空き缶をゴミ箱へ放り込んだのち、オフィスの入り口にカードキーをかざして戦場へ舞い戻った。唯一静かな廊下に、去り際、バイブ音が再度響いたが終業まで通知の中身は確かめなかった。どうせ了承の旨のスタンプ一つだと思ったからだ。
「またフラれやがって」
小さく悪態を吐いても、年の瀬の総務課は喧騒けたたましく、紛れて消えた。
指定した店に着くと、ワイシャツの袖をたくし上げた男が座敷でジョッキを煽っている。綾下は軽く溜め息を吐きながらコートとジャケットを脱いで、近くの鴨居に引っ掛けてあったハンガーへ着せた。隣には同じように、斉藤のチャコールグレーの上着と洒落たトレンチコートが掛けてある。店員から受け取ったおしぼりが、冷えた指先にじんわりと温かい。
「またか」
「うるせ。またとか言うな」
「今度はなんだ、『こんなに仕事人間だと思わなかった』?」
「今度も、だよ」
「またとか言うなってお前が言ったんだろ」
「ホントに嫌みなヤツだよおまえ」
綾下はハハ、と笑いながら届いたばかりの自分のジョッキを斉藤のソレにぶつけてやる。かつん、とガラス同士が軽い音を立てた。かろうじて、先に置いてあった方の中身は半分ほど残っているが、おそらくこれが一杯目じゃあないだろう。
「すぐ分かったか?」
「うん?」
「場所。ここ、ちょっと入り口が見つけにくいだろ」
「あー、綾下の好きそうな店構えって思って探したら分かったわ」
おまえこういう隠れ家っぽい立地のとこ好きだよなあ。言いながら、斉藤はぐるりと店内を見回したから、なんとか綾下は手に取ったつきだしの小皿を落とさずに済んだ。
雑居ビルの並んだ奥の路地に、カウンターのほかは座敷の個室が二つのこじんまりした店構え、全体的に木目調の目立つ内装は上品ながらもどことなくほっとする雰囲気がある。確かに綾下は表通りに面した店より、『知る人ぞ知る』を探して選ぶことが多い。こと、斉藤との不定期の会合においてはその傾向が顕著だった。
「すぐには分かんなくて五、六分かな、そこらへんでウロウロしたけどさ」
「はは。遅くなって悪い」
また部長の無茶ぶりでさ、と続ければ斉藤は綾下に向き直って枝豆へ手を伸ばす。その頃には綾下も元の表情のままだったから、へんにぎくりとしたのをまさか、気付かれやしない。
得意先とのパイプ第一でその他の交友は三の次、普段は飯にも酒にも付き合わない昔なじみが即刻返答を寄越すのがどういうときか、綾下はよく知っている。上から今朝がた振ってきた仕事と、下から出てこない資料の話を遅刻の言い訳としてごく簡単に並べ終えたところで、ふっと会話が途切れた。ああこれは、と綾下が思うが早いか、斉藤がばたりと突っ伏して情けない声を上げる。
「あやしたあ」
「……なんだってこんな時期にふられるんだ?」
窓のない座敷では外の景色を眺めようもないが。師走、年の瀬、世間的にはクリスマスシーズン。絢爛なイルミネーションやショーウィンドウのプレゼントボックス、浮足立った空気が、綾下の働くオフィス街までも浸食している。恋人たちにとって、あるいは、恋人と過ごしたいと思う年頃の若者にとって、この時期に交際を始めるとかやめるとかは繊細な問題だろうとは、綾下の持ち合わせた一般論だ。
先月駅前でばったり居合わせた斉藤とその彼女(正確にはそうだった女)の姿を綾下は思い起こす。彼氏(だった男)の腕に絡めた腕の、反対側に抱えたバッグは小ぶりながらも名の知れたブランドの品だった。腕時計も決して安価ではなかったろう。イベントや贈り物に比重を置くなら、こんなタイミングで恋人なるものを手放しはしないと思うが。
(さすがにそれは失礼な話か)
ちらりと見かけただけのほぼ見知らぬ女に内心で詫びつつ、綾下は目の前でめそめそとしている斉藤のつむじを見下ろす。それらを差し引いても別れるべき欠点がコイツに見つかったのかもしれない。
「なあ、何がダメだったんだと思う?」
また始まった。綾下は溜め息も吐きたくなった。吐きたくなったので、呆れているふりをして、吐いた。実際、呆れてはいるのだ。
綾下の昔なじみで学生時代からの腐れ縁、なんやかんやと十数年来の付き合いになるこの男は、付き合う女の悉くにフラれている。
「どっか外したのかな、来週だってディナーの予約もしてプレゼントも考えてさ、結構楽しみにしてたのに」
「さあ? つい最近だったろ、付き合ったの」
言外に『詳細も知らされていないが』というニュアンスを足す。名前も知らない女へのコメントなんて、綾下にしてみれば、できてたまるかという話だ。眉間に若干の力を入れてじとりとにらんだ顔を、斉藤は報告漏れへの糾弾だと思ったろう。わたわたとした様子で、ふた月くらい前かな、と話し始めた。別れたばかりの傷も痛むだろうに、律儀で、綾下は少しだけ阿呆らしい気持ちになる。
「前に教わった店あったよな、大通り外れの」
「あー、二階のカフェバーか」
「おまえにしては珍しく小洒落たトコ選ぶなって思ってさ」
「おい店員はやめろ。俺が行きづらくなる」
「違うって! あそこの常連さんらしくて」
せめて『常連さんだった』と言ってほしかった。どっちみち行きづらいことには変わりない。一人でふらりと飲みに行くのは綾下にとってほぼ唯一の暮らしの彩りだ。男一人とはいえ入るのに気を遣う店もあるもので、気に入った店を訪れにくくなるのは痛いのだけれど――斉藤がこんな調子なもので、ひとつ行き先が増えるたびに、ひとつ行き先が減るを繰り返している。綾下は眉間を抑えつつも話の続きを促した。
「そこで一緒になって飲んでるうちに意気投合して?」
「ああ。どこの誰とも分からない彼女に自分の肩書と営業成績をぺらぺら語ったわけだな。おまえ、営業部の同期から刺されないのか?」
「は? なんでだよ、男の前で成績の話なんかしないだろ」
「俺には分からんが線を引いてるんなら何よりだよ」
「ま、でもそれで彼女とはいわゆる一線を」
「酔った勢いが良くないんじゃないのか?」
ずごん、と痛そうな音がして斉藤が額をテーブルへ打ち付ける。長い長い溜息が突っ伏した腕の下から漏れていた。
それ見ろ図星だ。綾下は苦々しい何かが出かかった喉へ、ぐいとビールを流し込んで耐えた。傍らのメニュー表を取り上げて眺める間、斉藤はだって、とか、でも、とかぐずぐず言っている。綾下は座敷のふすまからひょいと顔を出し、熱燗を二合注文した。追加でモツ煮とだし巻き卵、刺身の盛り合わせ。「あとアジフライ」これは斉藤だ。
「や、別に勢いだったわけじゃないって。その日は普通に飲んで別れただけだし」
「昔なじみが何日目何回目のデートでホテルへ行ったかなんて赤裸々な話は聞きたくもないが」
「うへえ」
「俺だって今こうして飲んでるおまえしか知らなければ、脅威のワーカホリック営業マンとはまさか思うかよ。彼女からの連絡そっちのけで顧客とよろしくしてたんじゃないのか?」
「違うって! 彼女わりとマメに連絡寄越すからさ、俺もすげーマメに返してたんだけど。今度はそれが、……」
「それが?」
「『職業病なのかもしれないけど取引先に応対するみたい』って」
「……それでまた『こんなに仕事人間だなんて』か」
「だから、またって言うな、またって」
はああ、斉藤の口から何度目かの溜め息が出てくる。眉を下げてしゅんと落ち込んだ表情は、こういうところが母性本能をくすぐるんだろうか、と綾下に思わせた。憶測でしかないが。
これまで斉藤のフラれてきた彼女たちが彼のどこに、どうして魅力を覚えて関係を持つに至るのか、綾下には知る由もない。どこがだめで別れたのかなんて、もっと知らない。いつだってフラれた後の斉藤から入ってくる片面の情報ばかりで、それ以上のものはない。特に分析してやろうという気もない。飲む間の話題に事欠かないという以上の意味合いは、どうせ感じられないのだ。
そこへ注文の熱燗とモツ煮が届く。朗らかな店主の声にほっとしてから、綾下は自分が緊張と苛立ちを感じていたのだと気が付いた。いいタイミングだ。店主夫婦のほかは斉藤の飛びつきそうな若い女性は働いていないから、どうかこの店には通えるようであってほしい。苦々しく思う綾下を知ってか知らずか――知っていたらこんな事態にはなっていないのだが、斉藤は小鉢を二つ受け取ってほくほくとしている。
「うお美味そ」
(ああ、その顔はいいな)
そう咄嗟に綾下は思った。思っているうち、斉藤が二つのお猪口へ勝手に酒を注いでいる。今日はスタートから出来上がっていて泣くやら嘆くやらだし、最後に会ったのが件の元カノと居合わせたときだから、素直に喜んだ表情はたったいま二か月ぶりに見た。でれでれとした、だらしのない頬をカウントしないなら更に遡る。
二人は学生時代からの付き合いで同じ会社に新卒入社、四月一日の入社式で会ったときには顔を見合わせて噴き出したものだが、近頃は同じビルにいるわりにフロアをまたぐこともない。斉藤はほとんど自席におらず顧客先をあちこち走り回っているし、綾下は綾下で社内の端から端まで電話を掛け、出てこない資料の締切を各所に説きまくっている。
それでも、以前なら綾下が営業部へ手ずから、資料の作り直しを要求にも行ったものだが。デスク複数個分の責を肩書きに負わされてからは、営業含む三階フロアへの用向きはほとんど部下へ任せていた。もともと、斉藤はデスクにいないから偶然の装いようもなかったけれど。
いいかげん潮時だろう、と一度は思ったのだ。
職場での綾下はチームひとつ任せられる年齢になっていた。同い年なのだから当然斉藤も同じ歳になる――二年ほど前の話だ。
その頃、斉藤は当時の交際相手と結婚秒読みで(のちに、これはあくまで斉藤から見た情報であり相手の認識は別にあったことが分かるのだけれど)、綾下の誘いにはうんともすんとも返答無かった。
既読マークだけが付いた九日前のメッセージを定食屋のカウンターで眺めながら、これからはむやみに誘うのも憚られるなと綾下は考えていた。
それならこのままフェードアウトしていった方が身のためになる。急な温度変化は身体にも悪いと、昼時の情報番組が背後のテレビから伝えていた。幸いにも自分が他人に仕事を振り分ける立場になったから、フロアの移動は部下に任せれば営業部とはほぼかち合わない。なまじ器用なもので、綾下はそういうことができる男だった。会うようにすれば、いくらでも会えるが、会わないようにと思えばそれくらい造作もない。
でもそれが、いまひとつ動きの読み切れない相手として斉藤はトクベツだった。
しかしここの麻婆豆腐は美味いな、最後の晩餐は中華もオツかもしれない――そう思った綾下が端末をタップして位置情報を共有すると、送信終わりにかぶせるようなタイミングで返信があった。
喜んでよかったのか、どうか、綾下には一定の良心もあって未だに分からないままでいる。
小さな水面がゆらゆら、荒れた手の中で揺れている。書類仕事は日に焼けない代わり、指の腹の水分をコピー用紙に持ち去られるのが常だ。お猪口へとっぷりと注がれた純米吟醸は豊潤な香りを漂わせ、伏し目がちの綾下は、その透き通った色に視線を浸していた。水面に映った顔はとても、相手に見せられる代物じゃない。
いつの間にやら刺身の盛り合わせは、きっちり一切れずつを残して斉藤の中へ消えている。自分の分の小皿を引き寄せて、綾下は醤油差しを傾けた。白い陶器の上には赤みがかった黒い液体だまりができて、またうっすらと綾下自身の影を映した。人影を塗りつぶすみたいに赤身マグロを一切れ浸して、そのまま口へ運ぶ、と。
「う、……っま」
「なあ! 美味くねえ!?」
「美味い美味い、けどなんでおまえが自慢げなんだ」
「先に食ってたからだろ。なんか綾下ボンヤリしてるし」
「店を見つけたのは俺だからな」
「まーいいじゃん。綾下の見立てが合ってたってことでさ、俺も嬉しーんだって」
斉藤は調子よく、湯気の立つだし巻き卵をひょいと一口取り上げて、笑う。綾下は自分がどんな顔をしているか分からなかった。鏡らしいものといったら盃の水面のほかはもう斉藤の眼球くらいしかないけれど、さすがにそれを覗き込んで己を確かめるのは憚られた。
斉藤はアジフライが届くのを待っている。ジュワジュワと油の音の立つ調理場の方をちらりと見ては、「まだかな」なんて呟いている。お子様ランチを待つ子どもみたいだ。二重まぶたの大きな瞳がきらきらとするところだけ、学生の頃とまるで変わらなくて、放課後の教室にいるときみたいな錯覚を綾下に起こさせる。彼女(だった女)たちの前ではこんな表情、見せないだろう、格好つけたままスマートに話題を提供し続けるはずだ、勿論綾下の推測に過ぎない。
斉藤は決して、綾下を優先に扱わない。眼前にいようがほかの事象に気が向くし、返信は一番最後だ。昔から先輩の呼び出しと気になる女子の挙動が先だった。いまだって懇意にしている顧客の次の次、上司と同僚の次の、さらに次くらい。ほかに、こうまで後回しにされる奴はいないだろう。それでも綾下との仲は途切れないと思われているのだ。
実際、そのとおりだから甘んじている。綾下は潮時を逃しに逃して、居酒屋の一席よりほか、どこへも行けなくなっていった。
綾下と行くといつも飯が美味くて、と斉藤は笑う。
いつも、美味い飯と美味い酒を用意して、いつまでも飲んでいる。
小奇麗な小料理屋の小上がり、電車ががたごとと煩い高架下のおでん屋、景色の微妙なイタリアン、テーブルの表面がいつもどこか油っぽい中華店、向かい合わせのこともあればカウンターで肩を寄せていた夜もある、必ずしも座り心地が良くはない、椅子の一つから綾下はまだ立ち上がれない。
「勢いが良くないんだ、勢いが」
「また言う……」
「酒の入っていないときにしろ」
「あー、もう。わあったよ」
酔ってんのか? と斉藤が覗き込んでくる。綾下は手で振り払うようにして、妙に無邪気な斉藤の目から逃げて、盃を煽る。酔っていると思われているから、多少のおかしな顔も見逃されるだろう。酒の席でのことだ、と言える。酔っているうちのことは信用ならないと言える。
空になった器へ、綾下は手酌で酒をなみなみと注ぐ。斉藤の器も空なのを見つけて、注いでやっている途中で、徳利の中身が底を尽きた。すみませーん、と声を上げ熱燗を追加で一合。斉藤は半分ちょっとのお猪口の中身をぐいと飲み干して、ああ美味いなあ、と染み渡るような声を漏らした。
「おまえといるとホントに美味いのな」
「探してやってんだ、ありがたく思え」
「いつもゴチでーす」
「奢らねえぞ」
「ちぇ。……ははっ」
おまえホント顔に出るよな、と斉藤が笑う。綾下の顔が赤いのを指差し指摘してくる。体質だから仕方ない。それでも、赤くなるほど飲んだりは普段、しない。顔に出るような仕事はしないし、分かりやすいと指摘してくるやつも、斉藤しかいないだろう。おかげで居酒屋の一席が、たとえ学校の古びた木製椅子みたいに座り心地悪くても、綾下は席を立てない。
席替えをしないでくれなんて思う子どもみたいな感慨が、座布団の端を握っている。
酒器を傾けた指に震えが走る。汗ばんだ手を気取られる前に拭う。いっそ取り落としたら、設えたスーツにこぼした酒の話も、思い出のうちとして斉藤の中にストックされるだろうか。
ぬるめの燗が喉を通る。舌の付け根を焼いていく。かあっと熱くなるのを、綾下は美味い酒のせいだと、思うことにした。モツ煮の残りをつつく。柔らかく臭みのないそれをいつまでも噛みしめる。
「……上手くいくといいな、次」
小鉢の並びに目を泳がせて呟く。心にも無いことを言っている。どうせ気付かないだろう、肝心なところはなにも知らないのが斉藤という男だ。その上で綾下は結局、本当には、やはりどこまでも上手く立ち回ることができる男なのだから。
「おまえだけだよ。そう言ってくれるのはさ」
「そろそろ懲りろって?」
「もう、非難轟々」
「はは」
俺も同感だがな、と足してやったなら斉藤はげえっと潰れたような声を出す。ふっと、笑いか、溜め息か分からないものを吐きながら綾下は目を細めた。香ばしいにおいが鼻を抜けて、注文の揚げ物が届いたと気付く。空いた皿を脇へと避けながら、俺はいつ、この席から自分を片付けてやれるだろうと考えた。
酒の席でのことだ。アルコールが神経をどうにかして、ぼうっとする頭でのやりとりだ。度を越えた飲酒は、どうしたって、重要な商談には向いてない。人生のパートナーだとか生涯の伴侶だとか、そういうのを誓うにも向いてやしない。囁いた愛がうすっぺらく聞こえたって無理もなく仕方もない。
だから綾下はいつだって二人の間に酒を置く。
斉藤と自分との間に、かならず美味い料理と美味い酒を挟んで、決してこの場のことが、この場のこと以上にならないよう願っている。
「うっまそ」
「これ、ソースか?」
「だろうな。かけちゃっていい?」
斉藤の腕がテーブル脇へ延びる。白いワイシャツの色ばかりが、学生の頃となんら変わりなくて眩しい。どうせ見てもいられない光景なら、酒を煽ることが許された分だけ、今のほうが幾分かマシだとも思えた。
中濃ソースのほのかに酸っぱいにおいで、やけに鼻がつんとする。綾下は追加の酒をたっぷりと手酌で器へ注いだ。それから、長らく飲み下せないものを胃の腑へ納め直して、丁寧に出入り口を焼くようにゆっくりと飲み干した。
(了)
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