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「覚えとくんだよ、絶対に譲れない条件は1つ。たくさんあるとね、ぶれちゃうんだよ」
これは僕が物心つく前から母がよく言っていた言葉。
母は山あいのドがつく田舎に生まれた。男女取り混ぜた6人兄弟姉妹。そんな田舎には、今不用意に言っちゃうとピー音が入る「結婚適齢期」ってやつが存在したらしい。母が23歳を迎える年の正月、例年通り親族30人が大集合した。ほぼ全員の顔がお煮しめの金時人参と同じ色になり(ちなみに18歳以下はプラッシーで乾杯しております。え?18以下ではダメ?)30本以上の瓶ビールとおせちの重箱が空になる頃、母に見合い話が持ち上がった。
「みえちゃんには、川畑村の浩二さんとこがいいぞ。あそこは次男、三男、六男までいたっけ?選び放題だな」
「いいや、梅橋村の外れの勝男さんとこ、また神社の当番回ってきたらしいで、験のいいとこが一番やぞ」
金時人参達が、それぞれ持ち寄ったネタを好き勝手に披露し始めた時、母の母が(僕のばあちゃん、現在92歳、趣味は牛乳パックで椅子を作ること)母、みえ子を肘でつっついた。するとここぞとばかりに母は言った。
「おっちゃん、おばちゃん、私、無口な人がいい!」
一言一句間違えずこの言葉を言うために、母はこの日絶対に金時人参化するまいと心に決め、お屠蘇とグラス2杯のビールで、雑煮にシフトチェンジしたらしい。おっちゃん、おばちゃん達は急なみえちゃんの大声に少し驚いたが、すぐに「おおそうかそうか」とうなずき始めた。本来、8畳の和室が4つ並んだ間取りなのだが、盆、正月など総勢30人が大集合する日は、全ての襖が取り払われ、都会では考えられないほどの広い座敷になる。しかし母、みえちゃんの声はそこにいる全ての親族に届いた。台所で餅を焼いている噂好きのカヨおばさんにも、縁側に顔を出して酔いを覚ます農協役員の進三郎おじさんにも届いた。
そしてその年の節分の日、母はとなり村の山藤正蔵の三男、正和と見合いをした。
「親父、トムのドッグフードまだ在庫あるの?僕あっち方面についであるから、ないなら買ってくるけど」
「ん」
「パパ、さっき新聞読んでたよね、どこに置いたの?」
「ん」
「お父さん、今日のお昼お蕎麦でいいですか?あ、でも昨日外でお蕎麦食べたって言ってましたっけ?うどんでしたっけ?そうそう、お父さん、いとこの舞ちゃん、女の子が生まれたんですって。お祝いどうします?上の子の時はお食い初めの食器にしましたよね。同じのあげるわけにもいかないし。あ、ねえお父さん、トイレットペーパーの芯、ゴミ箱に捨てて下さいよ。どうして窓枠に立てておくんですか?お父さん、気づいてました?もう咲かないと思ってた庭のアジサイ、今年は咲きそうですよ、ねえ、お父さん」
「ん」
僕は今、婚活ネット「手軽で気軽に♡マリッジ・ファンファーレ」の会員登録をするためパソコンに向かっている。同僚の杉本が1年前半信半疑で会員になり、見事理想通りの相手に出会った。そして明日は手軽で気軽に幸せを手に入れたヤツの結婚式だ。ヤツの頭の中で盛大なファンファーレが鳴り響くのだろう。圧倒的な男系の職場で出会いが皆無の中、僕もヤツも就職してから彼女なし歴10年。(ヤツに関しては悔しいが過去形だ) 今僕が自分のために何がしか行動を起こさなければ、明日の披露宴の挨拶を笑顔でこなすことはできそうにない。
まずは名前、や、ま、ふ、じ、、山藤
ま、さ、はる、、正治、山藤正治っと。
生年月日、住所、勤務先、年収、ざっと必要事項を入力し、ついにこの時が来た。幼い頃から言い聞かせられてきた母からのメッセージ?呪縛?いやこれは一番の重要事項なのだ。
僕がトムのカリカリドッグフードの在庫を聞いても、新聞が見当たらない姉ちゃんがイラついていても、母ちゃんが質問とも意見ともジャンル分けできない、随筆タイプのマシンガントークを繰り広げても、蚊の鳴くような声で「ん」とだけ発す親父。その「ん」は家族を、何より母ちゃんを幸せにする魔法の「ん」なのだ。あの日30畳の座敷で30人の親族に届く声で高らかに宣言した「私、無口な人がいい」の賜物なのだ。マシンガン随筆に「ん」以外の良縁があるだろうか。絶対に譲れない条件は1つ、母上、了解致しました。
「あなたが結婚相手に望む譲れない条件は何ですか?」
僕は絶望的に暗算ができない。居酒屋では得をしたのか、損をしたのか、騙したのか騙されたのかが分からない。いつもレジ前でのわいわいがやがやで、言われた金額を財布から取り出す。人付き合いからは外せない「割り勘」というレギュラーメンバー。僕はその度に数字の海に溺れ、タス、ワルの迷宮に立ちすくんできた。そんな人生を変えたいのだ。僕の隣で優しく、厳しく、時に家庭を道場にして欲しい。何をそんな、もっと他にないのかと思う人がほとんどだろう。しかし、母ちゃん師匠は譲れない条件を1つにしろと言った。信じるよ母ちゃん、親父と一緒にいる時の笑顔、丸い顔がより丸く、太陽よりも輝いてるよ。それが答えだね。
母ちゃん、ありがとう。僕は幸せになります。
「暗算の得意な人」
早くも僕の頭の中で、トランペットの音が鳴り響いた。
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