chapter,5 シューベルトと婚約の試練

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   * * *  ……そういえば、人前でわたしにピアノを弾けと命じた章介は、ひとりで弾けとは言っていなかった。  彼とその周りの人間を納得させられるだけの、ふたりの息ピッタリな姿を見せつけろと言いたかったのだろう。  アキフミはそのことに気づいたから、舞台で身動きのとれなくなっていたわたしの傍に来て、「一緒に弾く」と言ってくれたのだ。 「っ、疲れた……」 「さすがに四十分ぶっ続けで弾いたのはやりすぎたか」 「高校のときでも通しでなんか弾いてないわよ!」 「だけど譜面しっかり暗譜していたな」 「お互いにね」  ふふっ、と笑い合って、人前でキスと抱擁を交わすわたしたちを、観客たちが唖然とした表情で見つめている。前座で完璧な演奏をした詩のことなど、もはや眼中にないほどのふたりの世界が、会場内を包み込んでいた。  盛大な拍手に見送られながら、わたしとアキフミは舞台から撤収する。マイクを持った章介が「正式に紹介しよう、彼女こそ息子の婚約者だ!」と舞台から降りてきたアキフミとわたしに称賛の声をかけてきたが、アキフミはわたしを抱きかかえたまま、「これ以上クソ親父の見世物にされてたまるか!」と一蹴し、あとのことを立花に任せ、会場から逃亡する。
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