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「ああ、やっぱり雨だったなぁ」
亡くなった母の顔を思い出すと、傘をさしている姿が目に浮かぶ。母は雨女と名高かった。雨で気分が盛り上がらないからと、いつも綺麗な色の傘を選んでいた。
「こんな日まで雨でなくてもいいのにね……」
そう思いながら歩いていたら、目の前に猫の死骸が落ちていた。
「可哀想に。跳ねられたのかな? 箱をもってくるからちょっと端に寄っとこうね」
轢かれたのかもしれないけれど、目に見える外傷はなかった。私は持っていた大きめのタオルで包んで猫を道路の脇によけた。
後ろから甲高い声で「信じらんない。死んでる猫、触ってる~」と聞こえた。
「何? 文句あんの?」
普段だったら私も猫の死骸を見ない振りをしていたかもしれない。
「こわっ」
綺麗な格好をしていてもこんな女は嫌だなと思いながら足早に去って行く人を横目に手を合わせた。
雨がぱらつく程度になってきた。
「にゃぁ」
一瞬猫が生きていたのかと思った。でも違った。小さな猫、その猫の子供らしき毛玉が母猫に擦りよった。
「あんたも一人になっちゃったのか」
「みゅ」
まるでそうだと返事したような気がした。
「佐々木さんじゃない。その猫、ここに入れてくれる?」
「大家さん」
年金暮らしだという我がハイツの大家さん、いやハイツの大家の時点で年金暮らしではない気がするけれど、まるまると肥えた可愛いおばあちゃんだ。
「可哀想にね。自転車に轢かれたみたいなのよ。打ち所が悪かったのね。今授乳期だから、終わったら子猫と一緒に保護してもらう予定だったのに。あら? 子猫その子だけ?」
「ええ、この子だけです」
「後二匹いたはずなんだけど……運んでる最中だったのかしら……」
大家さんはハイツの庭で咲かせた花を猫の上にのせて拝んだ。
「その子の兄弟、探しましょ」
大家さんと一緒に何故か猫の子を探すことになってしまった。ちなみに子猫は私のエコバックにタオルと一緒に入れている。
「いないですね」
大家さんのめぼしい場所は全て見て回ったけれど、子猫の姿はなかった。
「ねぇ、佐々木さん。その子飼ってくれないかしら?」
「ええっ、うちのハイツ、ペット禁止でしたよね?」
確か入った十年前そう言われたはずだ。
「平気よ、私が大家だし。猫アレルギーだった旦那ももういないから」
三年前に亡くなった旦那さんの為だったのかと初めて知った。大家さんとこんな長い時間一緒にいたのは初めてだ。挨拶もするし、時折畑でとれたという旬の野菜をお裾分けしてもらったり、会社の慰安旅行で買ってきたお土産をもっていくけれど、それだけだ。
「そうなんですね。うん、でもなぁ」
生き物を飼うのは覚悟がいる。
「私が飼えたらいいんだけど、老い先短いから心配でねぇ。あ、でも佐々木さんそろそろ結婚とかなのかしら? そしたら無理よねぇ」
大家さんは七十を超えているから心配なのだろう。そして私の心配は余計なお世話と言うものだ。
「いえ、結婚の予定はないので――」
「でも彼氏さんいたでしょ?」
家にもつれてきていたからしっかり把握されていた。いた、確かに半年前まではいた。
「別れちゃいましたね~。母が病気になって、結婚を焦ったからか逃げられちゃいましたよ」
母が重篤な病だとわかって、私は親孝行のつもりで付き合っていた彼と結婚しようと思った。そんな気はなかったのか、重くなったのか、結婚式場までみにいっていた間柄だったのに。
彼はある日別の女とキスしているところを私に見られて「お前が悪いんだからな」と逆ギレした。母の看護に通って相手をしなかったから悪いらしい。
「そうですか、どうぞお好きに!」
悔しかったしムカついたけれど、せいせいした。これで看護し放題と思っていたのに、母はあっけなく逝ってしまった。
ぽっかり開いてしまった穴。それが確かにここにある。
「そんな男、別れて正解よ! きっとお母様がもっといい相手と糸を結んでくださっているわ」
大家さんには身寄りがなくなったことを告げている。何かあったときに困らせるからと思って。
「でも母には言ってないんです」
「お母様はわかってるんじゃないかしら? そういえば今日が四十九日よね?」
思い出したように大家さんは頭を下げた。私も会釈を返す。
「お花ありがとうございました」
「いいえ、いいのよ。この子、本当にもらってくれない? もしかしたらお母様の縁かもしれないわ」
猫が心配な大家さんの都合のいい解釈だと思ったけれど、私が寂しいのは確かだ。
「そうですね。母だと思って大事にします」
「小さなお母様ね。あ、動物病院連れて行くならそろそろ行かないと駄目よ。私も飼ったことないからどう育てるのかわからないし、行きましょう!」
大家さんもいくつもりのようだ。私達は母猫をハイツの軒に置いて、子猫を連れて動物病院に行った。
「あら、高橋さん! 何? 猫?」
動物病院の待合室に大家さんの知り合いがいたらしい。
「大家さん! あのこれは! 僕が飼っているわけではなくて!」
テンションの高い大家さんと焦りまくっている高橋さんという男性に待合室の目が集まる。
「ちょ、ちょっと大家さん声大きいです」
「だって、佐々木さん。この子猫……この子の兄弟じゃないかしら?」
「ドアの横の植え込みにいて、母猫もいないし雨降っているし……。死んじゃうと思って……」
高橋さんは捨てられている子犬の様な目で大家さんに訴えた。
「そう、そうなの。それは大変だわ。うち、ペット禁止じゃなくなったから飼ってあげて頂戴」
心配していた子猫が意外と近場で保護されていて大家さんもホッとしたようだ。
「でも僕も仕事があるので……こんな小さな子猫は育てられないと思います」
寂しげに高橋さんはそう言って猫の頭を指先で撫でた。
「そうねぇ、でも高橋さんは在宅よね?」
「在宅というか……文筆業で――」
「作家さんなんですか?」
意外な職種に驚いた私が声を上げたら、高橋さんは私の存在に気付いたようだ。
「何でも屋なんですよ。フリーライターってやつです。家にいることは多いんですけど、ずっといるわけじゃないので」
「それなら、皆で助け合いましょうよ。同じ屋根の下で暮らしているんだもの」
大家さん、確かに同じ屋根だけど……。
「ハイツの人ですか?」
「はい、佐々木と申します」
「佐々木さんは普通の会社員でしょ。だから朝、高橋さんの家に預けていくの。そして帰ってきたら高橋さんの猫も預かって夜遅くなったら高橋さんの家に高橋さんの猫を返して……。二人とも駄目なときは私が面倒みるわ。そしたら、皆、幸せでしょ?」
それは大家さんが幸せなのでは……と思ったけれど、実際ありがたい。昼間誰もいないところにこんな小さな猫を置いてはいけないから。
「でもそんな……佐々木さんは女性ですし、嫌でしょ?」
「高橋さんが佐々木さんを襲うほど甲斐性があるようには思えないわ……」
「大家さん、ひどい……」
高橋さんを見てたら、確かに頷きたくなってしまう。けれど、そこは会社員としてのスキルで曖昧に笑って乗り切った。
「いえ、そんな長い間でもないですし、願ったりです」
「佐々木さんがそうおっしゃるなら……」
子猫の時間は短いはずだ。そう思って私達は一緒に猫を育てることにした。
「話は聞こえてましたから、一緒に診察室にどうぞ――」
「あらやだ、皆さんに聞こえてたのね」
それは大家さんの大きな声のせいだと思います。
「ありがとうございます」
「助かります」
子猫の健康状態は問題がなく、ノミ取りの薬をもらった。もう少し大きくなったらワクチンとか去勢、避妊などあるけれど、問題がないようだったら一ヶ月くらいでくるように言われた。
高橋さんは実家に沢山猫を飼っていて色々知識があったので、三人でペットショップに寄って必要な物を揃えることができた。
「今日は土曜日だから、二人とも自分の家に連れて帰る?」
大家さんは少し寂しそうだが、私達は頷いた。
「月曜日の朝に高橋さんのお家に預けにいきますね」
「ええ、何時頃ですか?」
確認をとっていると大家さんが、「明日は昼の十二時に用事がないなら猫をつれて来て頂戴。美味しい昼ご飯作って待ってるわ」と言って慌てて帰って行った。
「大家さん?」
「大家さん、子猫と遊びたいんでしょうね。佐々木さんが駄目なら僕だけ行きますよ?」
面倒だろうに高橋さんはそう言ってくれた。優しい人なんだなと思った。
「いいえ、私も明日は暇なので行きますよ。また明日」
約束をして家に帰ってきた。
小さい時に父がなくなり、女手一つで育ててくれた母が亡くなって寂しかったはずなのに、心の中が温かい。
「ただいま」
一緒に住んでいたわけではないけれど、飾っている母の写真にそう言った。
「にゃあ!」
私の腕から飛んで降りた子猫が、写真の横に座って私に向かって鳴いたのはただの偶然だろうけど、私は何だか涙が溢れた。
「お母さんが好きだったから、お前の名前は虹子にしようか」
多分女子だと言っていたから、虹子でいいだろう。もし男の子だったら、虹郎でも虹雄でもいいか。
「にゃあ……」
足元に擦りよってきた虹子を抱いて母の写真に見せた。
「お母さん、うちの子だよ。虹子、よろしくね」
お母さんの縁かどうかはわからないけれど、猫友達が二人もできた。可愛い虹子にも出会えて、今日は思い出の日になりそうだ。
〈Fin〉
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