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欲望には果てがない
虚しさには底がない
ーーこれは何?
薄暗闇のなか仄かに光を放つもの。
近づいてみよう。ああ、そうか、
白い宝石箱のオルゴールだ。
ロココ調の安っぽい装飾ーー
赤茶けた畳の上に転がっている。
蓋はひらいたまま。中はからっぽ。
メロディが流れている……何年か前にすこし流行った曲『セカンド・バースデイ』だ……部屋の湿った空気にひろがっていく……
今日がわたしの
二度目のバースディ
あなたと別れて
生まれかわるの、わたし
さようなら、あなた
おめでとう、わたし
……指がのびてきた。女の細い指。
そっとオルゴールの蓋をとじた。
ーーメロディが止まる。
裸電球だけが灯る暗い部屋は、しんと静まりかえった……。
女が畳に座っている。何かをブツブツと呟きはじめる。「穴、穴、穴……穴だらけ。赤いポケットは穴だらけ。私には片腕しか残されていない……」
そして、周囲を見わたした。
部屋中に大小さまざまな鏡が張りつけられている。それらの鏡に、女の姿が映し出されている。
女は痩せている。女は赤いワンピースを着ている。女は項垂れている。
その顔や頭部は黄ばんだ包帯で何重にも巻かれ、隠されている。唯一、包帯の隙間から眼だけが覗いている。異様なまでに見ひらかれ、血走っている。まったく瞬きしない。
包帯の下からは長い黒髪が垂れている。べとつき、油で濡れたように光っている。
女は呟き続ける。膝上には真っ赤なダイヤル式の電話機が置かれている。
電話機の上で、女は両手を絡ませ、動かしている。まるで二匹の蜘蛛が虚空で脚を絡ませあうように。繰り返し、繰り返し……。
ーーやがて、はたと手の動きを止めると押し黙った。
ゆっくりとダイヤルを回していく。
受話器を右耳にあてた。三回目のコールで電話が繋がる。相手が出た。しばらくのあいだ、女は、ひそひそとか細い声で相手と話していた。そして突然、
「お前を絶対に呪い殺す」
と、捩れた野太い声で言って電話を切る。
ゆらりと立ち上がった。
天井を見上げた。
……視線の先には、天井のフックから下がるロープがある。その先端は輪のようになっている。
膝上の電話機を乱暴に払い落とす。ロープ下に置かれた椅子のところまで近づいていく。みしり、みしりと湿った畳を踏む音がする。そして、椅子の前で立ち止まると、
「……さようなら、あなた」
と、呟いた。
椅子のうえに立つ。
俯きながら、包帯をはずしにかかる。包帯が、徐々に、はずされていく……。すべてはずされた。
ロープの輪に頭をあずける。顔を上げた。鏡に映る、その顔が禍々しいーーーー遠くで悲鳴が聞こえる。聞こえたように思う。それは女自身の悲痛な叫び声なのかもしれない……。
椅子を蹴った。椅子が倒れる。オルゴールを天井まで跳ね上げる。電球が割れた。
ーー部屋が暗闇につつまれる。
「おめでとう、わたし」
その後は、ギシ、ギシ、というロープの軋む音が続いた……。
1
ーー鴉がひと鳴きして、店のまえに積まれたゴミ袋から早朝の空へ飛びたつ。
佐藤えみは、ふらつく足どりで歌舞伎町を歩いていた。彼女の重い体を支えたピンヒールが、夜の猥雑なエネルギーの残滓をうっすら漂わせた通りに硬質な音を響かせている。ゴミ収集車が後方から耳障りな走行音とともに近づいてきた。通りの真ん中を歩いていた彼女は小さく舌打ちをし右脇へよける。生ゴミの臭いを十一月の冷たい空気にのこし、収集車は傍らを通り過ぎて行った。「まじ最悪」思わず呟くと、今度は大きく舌打ちをした。
はたとマスクをしてない事に気づく。
どこで落としたのだろう。予備の持ち合わせはないーー慌てふためいた。風俗嬢は体が資本だ。えみの在籍する店では、出勤前の体温計チェックを写メ日記に載せることが義務づけられていた。緊急事態宣言中からのルール。これまでと違い、風邪気味や微熱でも休まなくてはいけない。コロナは別に気にしてない。でも風邪は心配だ。働けずに干上がってしまう。(マスク買わなきゃ。お金もったいない。まじで最悪最悪最悪)
本当に最悪としかいいようのない気分で、えみは誕生日の朝を迎えていた。
二日酔いで頭痛がする。
何故だか体の節々も痛くて、ミニスカートからのぞく肉付きのよすぎる太腿や膝には原因不明な青あざが数箇所も出来ていた。お気に入りの白いモヘヤのセーターには黄色い吐瀉物らしき染みがついていて、酒臭い彼女をさらにつんと臭わせている。そして何よりも最悪なのは、昨晩からの記憶が全くといっていいほど飛んでしまっていることだ。一体、いつから自分がこうして歩いているのかも分からない。
(二十四歳の誕生祝いを楽しい思い出にしたかっただけなのに。何も覚えてないなんて……浮気した罰かなぁ)
えみには『彼氏』が二人いる。
両方とも歌舞伎町で働いている。同じエリアのデリヘル店で働く彼女は、稼いだお金をほとんど彼らに注ぎ込んでいた。彼女にとっての本命はホストの男の子で、二番手のほうは小さなBARを経営する四十過ぎの男だ。最近、本命の『彼』とは客の女たちに対する嫉妬や不安が原因で喧嘩をしてしまった。ひとりで誕生日の朝を迎えるのは寂しいから、二番手の『彼』の店で誕生祝いをしようと思ったのが失敗だった。
埃っぽい店内でカウンターごしに微笑む男とシャンパンをあけたところまでは覚えている。その後、男に「四十歳のお誕生日おめでとう」と言われた辺りから記憶がおかしい。
(は? あたし四十歳になるとか言った覚え全然ないし。他の女と間違えてるの? てか、そんなオバサンに見える?)
悶々としながらも男に問いただすことが出来ず、ひたすらアルコールをすきっ腹に流しこみ続けたのだった……。
「おいデブス雑菌、マスクしろ!」
突然、向こうから歩いてきた二人組の男に怒鳴られた。朝から酔っている。男はもう一人に、やめろよ、となだめられながら去って行った。えみは嘲りの言葉を跳ねかえすようにうつむき表情を硬くすると歩をはやめる。コンビニに駆け込みマスクを買う。マスクを着けて、これで安心だと思う。
歌舞伎町を出た。
通勤途中の人々にまぎれて新宿駅東口のほうへと向かう。山手線の電車で渋谷駅まで行って乗り換えれば、住んでいるところまでは四十分とかからない。はやくアパートの部屋に帰って眠りたい。このみじめな気分から解放されたかった。
山手線のホームで電車を待ちながらスマホでラインのチェックをする。
本命の彼からのメッセージはない。
寂しいのでツイッターにアクセスすると、『あたしなんて死んじゃえばいいのに』と呟いてみた。何人かからイイネを貰い、すこし気分が落ち着いた。電車が到着する。まだ通勤ラッシュの時間帯ではないので、運よく空いた席に座ることが出来た。ふあぁ、と大きな欠伸がもれる。えみはすぐに微睡みはじめた。
……浜松町への到着をつげるアナウンスで目覚めた。
寝すごしたと思い、慌てて時間を確認すると午後三時前だった。
電車のなかでずっと眠りこけていたらしい。二日酔いの頭痛もだいぶおさまった。かわりに、ぐうぅ、とお腹が鳴った。(そうだ、渋谷でハンバーグとグラタンとケーキ食べよう)どうせ帰ってもカップ麺しか食べるものはない。今度こそ渋谷駅で降りると、えみはまず改札付近にある女子トイレへ向かった。レストランで食事をするのならセーターの染みは洗い落としておきたい、と思ったのだ。
薄暗い洗面台の鏡のまえでハンカチを水に濡らしていると、腐臭めいた、何ともいえない強烈な臭いが鼻をついた。まるで腐肉を鼻先につきつけられたかのようだ。
(うげぇ、この臭い、どこから!?)思わず鏡ごしに周囲を見わたすーーーー彼女のうしろにトイレの個室がふたつある。そのうちひとつが閉じられていた。それ以外は誰もいない。個室から流水音が聞こえると、ドアがひらいた。中からは、ハイブランドのコートを着た、厚化粧で背の高い中年女が出てきた。ワンポイント刺繍の施された黒い布地マスクもおそらくブランド品だ。都会的で隙のないファッションは、どことなく威圧感がある。
一瞬、鏡ごしにえみと目が合う。
怪訝な表情をうかべたえみを気にする風もなく、洗面台でゆったりと手を洗いはじめた。隣の中年女からは濃厚なバラの香水が漂ってくる。(違う。この人じゃない……)さきほどの悪臭は消えていた。再び、鏡ごしに顔をあげた中年女と目が合う。今度は、その女が訝しげな表情を浮かべえみを見ていた……。
ーー何故か、背筋がぞくりとした。
えみは何となく気分が悪くなり、濡れたハンカチでセーターを急いでこすると逃げるように女子トイレを後にした。
改札を出てスクランブル交差点のほうに向かいながら、彼女は思っていた。
(誕生日っていうのにまじ最悪で変な日。そうだ、また優香先生に電話して占ってもらおうーー)
トイレの個室から出ると、太った、愚鈍そうな顔の女が鏡ごしにこちらを見ていた。
何故だか不機嫌な表情を浮かべている。
全体的にだらしのない崩れた雰囲気を醸し出している。年齢不詳で、十九歳にも四十歳にも見える感じだ。彼女と鏡ごしに目が合ってしまう。下手に絡まれでもしたら面倒だ。谷美沙子は何食わぬ表情をよそおい洗面台まで行くと、わざとゆっくり手を洗ったーーと、何ともいえない不快な臭いが鼻をついた。
思わず、鏡ごしに隣の女を見遣る。
ハンカチを持って立ちつくす彼女の右肩に、一瞬、異様に長い指をもつ女の手がのせられているように見えた。(ーーえ?)美沙子が目をこらすと、その手は消えていた。
再び、鏡ごしに女と目が合った。
美沙子が何か言う間もなく、彼女は慌てたようにセーターの汚れをハンカチで拭うと出て行ってしまった……。
「今のは何だったのかしら。私も疲れてるのね、人混みは目に汚いものばかりで」
そう美沙子はひとりごちる。気をとりなおして鏡に向き合う。マスクをバッグにしまい、化粧ポーチをとりだすと念入りに化粧直しをはじめた。完璧に顔をつくり込みたい。
鏡にうつる自分は四十九歳とは思えないほど若々しく魅力的に見えた。(これだったら、あの子と歩いていても親子なんかには絶対見えないわねぇ)赤い口紅を唇に塗りたくりながら、彼女は待ち合わせをしている相手のことを考える。頬がゆるんだ。今日はお互いに休日なので、思いきって、渋谷のミュージアムで開催されているボッティチェリの展示会に夕食がてら誘ってみたのだ。
プライベートで会うのは初めてなので、とても新鮮な気分だった。
あの子ーー葉月という、天使のように綺麗な女の子が美沙子のところに弟子入りを志願し訪ねてきたのは三ヶ月前だ。
画家として成功した美沙子は、広尾でかなり規模の大きい絵画教室も経営している。葉月はそこで学びながら、助手として無給でもいいから働きたいと言ってきた。どこか儚げな外見とは裏腹な情熱におされつつ、葉月から見てほしいと手渡された分厚い作品ファイルをめくるうちに、美沙子は今まで経験したことのない激しい感情の芽生えをおぼえていた。
それは恋ーーとも違う。
美沙子は自分に同性愛的な指向はないと思っている。今まで特別な意味で同性を意識したことはない。現在、別居中だが結婚もしているし、学生寮で暮らす大学一年になる息子もいる。葉月に対して抱いたのはもっと切実で屈折した感情だった……。
才能に溢れた若くうつくしい女性。
かつての美沙子がそうであったように。
若干の妬ましさもあるが、それよりもむしろ愛おしい。あの子が幸せになれるよう尽力したい。ずっと傍で支えていきたい。彼女から一番に必要とされ愛されたい。そのすべてを支配したい。そうすればーー
(ーーあの子さえいれば、私も幸せになれる)
パウダーを顔中に力強くはたいていた美沙子は、そんな事を思った自分に戸惑い、パフをもつ手をとめた。(……それじゃあ、今までの私は幸せじゃなかったというの?)
若い頃からひとの何倍も努力してきた。
有名になりたい、はやく世に出たいという渇望に突き動かされ、寝る間も惜しんで創作してきた。周囲に賞賛されない人生は虚しく意味がない。「谷美沙子の作品は俗っぽい量産品だ」ーー そんな負け犬同業者たちの陰口も一切気にせず進んできた。二十代で有名画廊がつき、マーケットに入り画家としての地位を築いた。才能と美貌に恵まれ、トークのセンスもあるので、芸能プロダクションからスカウトされた。一時期は雑誌モデルやテレビの仕事でも忙しかった。そこで知り合った大物プロデューサーと三十歳を目前にして結婚。すぐに妊娠した。家政婦を雇い、育児と仕事は難なく両立できた。多忙を極める夫は子煩悩だった。
我ながら、華やかな成功者の人生だと思う。
……それなのに。
息子の大学進学を機に、夫からしばらく離れて暮らしたいと宣告されてしまった。話し合いの際、吐き捨てるように言われた、
「結局、君には自分しかいない。君とは夫婦という気がしないんだよ」
というセリフが、今も胸の裡に鉛のように重く沈んでいる。夫とはいつの頃からか寝室を別にするようになっていた。今まで見ないようにしてきた夫婦間の溝を突きつけられてしまった。そして別居と前後するように閉経を迎えた。いつしか彼女は漠然とした不安を抱くようになっていた。コロナ禍で外出する機会も減ってきた。がらんとした家にひとりで居ると、深い孤独感に苛まれた。
すべてを手に入れたはずなのに。何故、これほどまで人生が虚しいのか……。
しだいに葉月に依存することで心の隙間を埋めるようになった。若くうつくしい女性との親密な関わりを通して、自分の中で損なわれたものを甦らせたい。そんな奇妙で不可解な欲求まで抱くようになったーーーーそう、夫の言葉は正しかったのだ。どこまでいっても美沙子には『自分』しか見えていない。
パウダーを完璧にはたき終える。
最後に、鏡に向かって口角をきゅっと上げ笑顔をつくってみせた。鏡の中の女性は、揺るぎない自信に満ちて誰よりも輝いているように見えた。美沙子は、葉月が待ち合わせ場所に颯爽とあらわれた自分を目にするときの反応をうっとり想像する。
(また優香先生に占ってもらいましょう。あの子が普段よりもお洒落した私を見てどう思ったか。ふふ)
腕時計を見遣る。
そろそろ待ち合わせの時間だ。
美沙子は注意深くマスクを装着する。手洗い所を出るとスクランブル交差点のほうへと向かった。
コロナ禍の平日なのに交差点前は若い人達で混雑している。
(あいかわらず渋谷は子供の街ねぇ)
街の騒々しさに辟易していると、信号が青に変わった。スクリーンにアイドルの顔がアップで映し出された正面ビルの方向に向かって、人の群れがどっと吐き出されるように動いていく。美沙子も周囲に押されるようにしてスクランブル交差点を渡りはじめるーーーーと突然、前を歩いていた女性が横断歩道の真ん中で立ち止まった。その背中に思いきりぶつかってしまう。女性は我にかえったようにふりかえると、すみません、と小声で頭をさげてきた。地味で大人しそうな印象。
具合でも悪いのか、顔が死人のように真っ青だ……。(なんだか貧相な子ねぇ)美沙子は心の中でせせら笑った。自分がひどく底意地の悪い、醜い表情になっていることに気がつかなかった。
ーーああ、もう。
河本祐子は軽い苛立ちをおぼえつつ、待ち合わせの相手にメールを送ろうとしていた。電波状況が悪いのか、何回試しても送信エラーになって戻ってきてしまう。電話もつながらない。
(最近、スマホの調子が悪いなぁ)
裕子は諦めてスマホをバックにしまう。
スクランブル交差点の向こうのビルのスクリーンにはアイドル・グループが映し出されている。マスクで顔を覆った人々が、女の子達の踊る映像を見るともなしに見ながら、信号が青に変わるのを待つ。平日、夕方近い時間の交差点前は、無数の人で埋め尽くされていた。(コロナが心配……)彼女は二重に着けたマスクを両手で顔に押しつける。
人混みの場所に出かけたことを後悔していた。アパートの部屋に今すぐ帰りたかった。
(疲れた。はやくステイホームしたい)
思わず憂鬱な白い吐息がもれた。
ーーそれでも、会いたいと連絡をしてきた相手が圓先生こと『大阪の先生』とあれば断るわけにはいかない。
大阪の先生は関西ではけっこう有名な占い師だ。拠点地は事務所のある大阪だが、月に一週間ほど、新宿の大手占い館で特別出演をしたり講座で教えたりしている。
六年前、祐子は何度目かの転職先の会社にどうしても馴染めず思い悩んでいた。当時の職場が新宿にあったこともあり、仕事帰りに、ふらりと占い館へ寄ってみた。
そこで大阪の先生と出会ったのだ。
先生は四柱推命と霊感タロットなるもので祐子を占い、落ち込んでいた彼女をパワフルに励ましてくれた。その後、リピーター客となり、占いに興味をもつようになった祐子は先生の講座でタロットを学ぶようになった。今まで自発的に行動することがなかった彼女にしてはめずらしいことだった。タロットを修得後、先生からプロの占い師への転向を勧められた。
「祐子ちゃんはほんまにリーディングの筋がええわ。タロット占いでお小遣い稼がへん?」
と、先生が所属する電話鑑定の会社を紹介してくれた。電話鑑定とは自宅にいながら電話で占いをする仕事だ。
それまで占いの仕事は特別な能力に恵まれた人たちのするものだと思っていた。それなので、ごく普通な自分があっさりと面接で採用されたときは驚いた。丁度、先生が忙しくなり電話鑑定を辞める時期と重なった為、今までの顧客を『実力派の弟子である』祐子に引き継いでくれた。お陰で最初から集客は順調だった。ほどなくして会社勤めは辞めた。
現在、祐子はスーパーで週三程度のバイトもしながら、『優香』という占い師名で電話鑑定の仕事を続けている。月収は派遣社員の頃よりも多い。変なストレスを溜め込むこともなくなった。なりゆきから就いた奇妙な仕事だが今のところ続けられている。短期間での転職をくりかえしていた彼女にとって、それは何よりも大切なことだった。
(先生とお会いするのは三年ぶりくらいかな)
と、還暦近い先生の明るい笑顔を思い浮かべる。祐子にとって大阪の先生は、人生でつまずいてばかりいた自分を居場所に導いてくれた恩人だった。
ーービルのスクリーンにアイドルの顔がアップで映し出されたのと同時に、スクランブル交差点の信号が青に変わった。
祐子は多方向に行き交う人の流れのあいだを縫うようにして横断歩道を歩きはじめた。待ち合わせの喫茶店はスクランブル交差点を渡って左方向に歩けばすぐのところにある。(まずい、五分の遅刻だ)左側のほうにあるビルのスクリーンに表示された時刻を見て焦る。先生はせっかちなのだ。歩を早めようとしたとき、周囲のざわめきが急速に遠のいていった。かわりに金属的な音に包まれる。耳鳴りのように。あるいは女の悲鳴のように。
(ーーえ?)
祐子は戸惑い、思わず立ち止まった。
……周囲を見わたすとスクランブル交差点には誰もいなかったーーーー横断歩道のむこうに佇む、赤いワンピースの女を除いて。
女は痩せていた。裸足だった。
俯いた女の顔は風にたなびく長い黒髪で覆われていて見えない。金属音がしだいに大きくなってくる。声が出せず、身動きも出来なくなっていた……。
女はゆっくりとこちらに近づいてくる。
俯いたままで。
奇妙なのはその身体の動きだ。ときおり縄を絞るように全身を左右によじらせるのだ。それが無性におぞましい……鳥肌が立つほどに。両手の指が異様なまでに細く長い。それがうごめいている。まるで蜘蛛が虚空を這うように。(いやだーー何なの?)女はじりじりと近づいてくる。腐肉のような臭いが鼻をつく。近づくにつれ、その臭いがしだいに濃くなってくる。逃げ出したい。でも動けない。まるで金縛りにあったかのようだ。板のように硬直したまま、恐怖に目を見ひらき、小刻みに震えはじめる……。
近づいてくる。女が。こちらに、ゆっくりと……すでに女は祐子から腕の長さ分位の距離のところまで近づいていた。耐え難い悪臭。耳鳴り、真っ赤なワンピース……。
女がはたと立ち止まる。
俯いた顔は長い黒髪で覆い隠されている。すっと右手で祐子のほうを指さした。左手の指は気味の悪い動きをつづけている。
この髪の下には恐ろしい顔が隠されているに違いない……怖い。だれか助けて。祐子は心の中で叫ぶ。
……女は顔をあげた。
途端に消えた。
スクランブル交差点に人通りと雑踏のざわめきがもどったーーーーしかし周囲の人々は録画の早送りのようなスピードで交差点を行き交っている。動けないままの祐子の身体を通りぬけて。(お願い! 助けて)必死になって呼びかけるが声は届かない。
ーーそして気づいて、愕然とした。
祐子を嘲り見下ろすようにして、周囲のすべてのビルのスクリーンには黒い塊のような女の顔がアップで映っていた。
黒々とした重く長い髪の毛を振り乱して、女は――いや、スクリーンは一つではないから――女たちは叫ぶように哄笑していた。いつまでも、いつまでも……。
ーー背中に軽い衝撃を感じて、はっと我にかえる。一瞬、バラの香水が薫った。
誰かにぶつかられたらしい、と一拍おいて気が付いた。祐子は横断歩道の真ん中で立ち止まっていたのだ……。
ビルのスクリーンではアイドルの女の子がコケティッシュな笑顔をみせている。
どうやら白昼夢をみたらしい。
慌ててふりかえると、ぶつからせてしまった相手に謝った。背後にいた派手な中年女性は鷹揚に頷くと交差点の人混みに消えて行った。いけない、私も急がないとーー祐子はスクランブル交差点を小走りに渡っていく。
(つづく)
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