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二 孤独であり孤独ではない
とある土曜日の夜十時頃、俺は原宿から渋谷の間をただ一人でひたすら散歩していた。
俺の住んでいる場所は神奈川の横須賀。
夕方五時頃出発し電車で二時間ほどかけて到着し、七時から約三時間歩いていることになる。
特に何かをするわけでもなく音楽でも聴きながらただひたすらに・・・。
もしこの渋谷を今歩き回っている人たちが俺のしていることを知っていたとしたら、いや周りの人たちだけでなく普通に考えれば俺のしていることは良く分からない行動であると考えるだろう。散歩したかったなら分かるかもしれないがならなぜわざわざ二時間もかけて渋谷に来る必要があるのか。
俺はこの時間が、この空間が好きだ。そう、この時間とこの空間が。
時に皆は友達、人付き合いについて深く考えたことはあるだろうか。友達とは学校、塾、地域、同じ習い事、他にも多数あるが同じコミュニティの場で確立することが当然のように社会でされ、考えている人がほとんどであり、実際にはどのようなものなのか、どうして多くの人はそのような関係を築きたがるのかについて考えてみたことがある人はどのくらいいるだろうか。
友達がいないのはいやだ、寂しいという人は少なくないが、ではなぜいやなのか、本当に心から「寂しい」と感じるのだろうかと疑問に思う点が俺には多々ある。
まず何が嫌なのか、しゃべる人がいないのが嫌だ、寂しい、退屈、などなどの意見はよく耳にするが、疑問のなのはなぜそれが、学校や塾、習い事というコミュニティの場にのみ強く作用するのかということだ。もししゃべる人がいないのが寂しく、一人でご飯を食べる、本を読むのに対して寂しいや嫌だと感じる人がいるとすれば家や図書館、電車のなかではどうしているのだろうか。家でもし母親とあまり話さないタイプなら毎日寂しいから友達と電話でもしながら食べているのだろうか、電車に乗っているとき寂しいからからと言って他の人に話しかけたりしてるのだろうか、図書館で本を読んだりする時はどうするのだろうかと。
よくよく考えたらおかしな話なのだ。時間ではなく毎回場面や環境によって寂しくなり、他者と時間を共にしていなければいられないなどと言う話は。
つまり俗に言われる友達のいないというものの寂しさを湧かせ、友達がほしいと考えさせるのは関わった時間でも関わる特定の人物によるものでもない。周りの環境が示す常識の元、多数の元に紛れていなければ不安になることを防ぐため、自己のブランドイメージの低下を恐れて、の行動でしかないのだ。
学校では皆休み時間に友達としゃべり、お昼には共にご飯を食べ、周りと同じ環境下に身を置くことで自己を守り、それ以外の欲望を押し殺して生活している。
逆に家、電車、図書館、などでは他者との時間を学校等に比べ強要されないから、さも当然のように一人でも生活出来る。
実際一人自体がそこまで嫌だというわけではないのだ。
周りに『他者』がいて、熱の持った何かがいて、また周りもそれぞれ自分と同じ環境なら生活できるのだそういう奴らは。そしてそれは学生のうちは八から九割がそうだといっても過言ではないだろう。
こう言う関係は所謂偽りの友達関係、利用するかされるか、はたまた利用し合うかの関係でしかない。その当人たちがそれに気づいてなくともそのような関係ではいつか必ず弊害が生じる。
そりゃそうだ。
そういう奴らは気づいていようがなかろうがあらゆる面において欲が強くそれでいて臆病で自己のために組織を作り生活しているのだから。そして組織としての自身たちの安泰、安全が保障されれば次はさらに個人としてもっと強いものを求めようとする。そしてもっと時間が経てば経つほどあからさまに自己のために利用し出す。
これを聞いて心当たりのつく者もいるだろう。
俺には欲がない。果てしないまでに欲がない。寂しいとは思う。さみしがり屋だからな。ただ俺はそれが自分と直接的な関係を結ばなくとも同じ熱を持った何かが近くにいればそれで満足できる。
あんな下らん関係はごめんだ。
ほら今日もこの町にはたくさんの人がそれぞれの道へ向かって行き交っている。なんて楽なのだ。それでいて観察も出来る。俺はこれで十分。
この町に見たところでは俺の面識のあるやつはいない、いなくて当然だ。そのためにきてるのだから。
だからある意味一人、孤独だ、しかし俺と同じ熱を持った何かはたくさんいる。そこら中に。ある意味孤独ではない。
だから俺はこの時間、空間が好きだ。
俺はそう思いながらあと一時間ほど歩いて帰ることにした。
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