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キラキラネーム
僕は、自分の名前が嫌いだ。
僕の親はどうして僕にこんな名前を付けたんだろう?
「あ、初めまして……た、橘と言います」
だから初対面の相手には必ず『上の名前』だけを名乗る。
「初めまして!わたし、トミ子って言います!橘くん……って、言うんだね!インプットしておくね!よろしく!橘くん!」そう言って彼女は笑った。
思わず僕はドキッとした。まるで人形のように整った顔立ち。僕の目の前に現れたのは、なんの非の打ちどころもない完璧なルックスを持った"女性"だった。
「こ、こちらこそ、よろしく……」とは言ってみたものの、まず最初は何をすれば良いんだろう? あまり女性とデートなんて事をしたことがない僕は自らの経験値の乏しさを心底呪った。
「お腹……空かない?」僕の口が勝手にそう喋っていた。
彼女は可笑しそうにクスクスと笑った。僕はハッとなってすぐさま取り繕うとするも、時すでに遅し。
「わたしは空かないよ」
小さく口に手を当てて笑う彼女。変な事を言ってしまった自分が恥ずかしかったのも事実だが、僕の顔がやけに熱かったのは、きっと彼女に一目惚れしていたからだと思う。
ーーー
「ここ、すごく美味しいらしいよ!」そう言ったのは彼女だった。
結局僕なんかがデートに似合うお店など知っているわけもなく、彼女が適当な店を調べることになった。僕が無理してエスコートするよりも、そっちの方がはるかに合理的だった。
彼女は店を調べるのに数秒も掛からなかった。それでいて、距離、クオリティー、値段、雰囲気、すべての項目を織り込んだ最大公約数を瞬時に見つけ出したのだった。
「ご、ごめんね……なんか、僕だけ食べてしまって」思わず僕は恐縮してしまう。
彼女はなんの不満そうな様子もなく、僕がパスタを食べているのをただ眺めているだけだった。
「ねえ、橘くんって、趣味はなんなの?」唐突に彼女が聞いてきた。
答える前に、まず僕は口の中にあるものを飲み込まなければならなかった。大きく、速く、僕は口をもぐもぐさせた。……と見せかけて、実はもう口の中には何も入っていない。ただ、質問に答えるのを躊躇っていただけなのだ。
「趣味……か」
それでも答えないわけにはいかないだろう。僕は意を決して言ってみることにした。
「スポーツ、かな?」
まるで清水の舞台から飛び降りるように、僕はぎゅっと目を瞑った。
「すごい……」感心の声が聞こえてきた。
それは、僕の予想していたのとはまったくもって逆の反応だった。嫌がられるどころか、感心されたのだ。
「でも、こんな男、嫌だろ?」そう聞かずにはいられなかった。
「ううん、すごくかっこいいと思う!」と彼女は激しくかぶりを振った。「もしかして橘くん!結婚したら、働きたい人⁉︎」
彼女の質問に、僕は完全に舞い上がってしまった。
「うん!働きたい!僕、結婚しても仕事は続けて行きたいんだ!」いつの間にか僕は身を乗り出すようにして話していた。
彼女は唯一、こんな僕を嫌がらなかった。だからだろう……僕はつい、調子に乗ってしまった。
「やっぱりさ、僕は男だから、女の子を守ってあげたいんだ!だから、もし僕が結婚したら……その、自分の嫁には……主婦をしてほしいっていうか……」と、僕の言葉は途端に尻すぼみに小さくなっていく。途中で失言したことに気がついても後の祭りだった。
これは、さすがに嫌われてしまっただろう。僕は彼女の顔を直視できなかった。これだから僕は恋人すらできないんだ。
「ごめんね……」僕は先に謝った。「こんな男、女性からすれば嫌だよね。でも、どうしても僕、男としてのプライドが……」
またやってしまった。さっきも女性の事を『女の子』だなんて言ったし、今も『男のプライド』とか、そんなことばかり言ってしまっている。
しかし、彼女の反応に、またもや僕の予想は裏切られた。
「そんなことないよ!」彼女の言葉に、僕はただ呆然とするしかなかった。「男だからといって卑屈になることなんてないよ!むしろ、わたしは橘くんのように自立した男はカッコいいと思う!」
僕はまた、心臓がドキンと高鳴った。僕のこんな生き方を肯定してくれる女性なんて、初めてだった。たくさんの女性から敬遠されてきた僕にとっては、この目の前の『トミ子』という女性は、どこか新しい人種のように思えたのだ。新しい人種、つまりは僕と同じタイプの人間だ。
すると、彼女はふと自分の言ったことに恥ずかしくなってしまったのだろうか、おもむろに顔を赤らめてモジモジとしだした。そして話を切り替えるように、僕にまた一つ質問した。
「ね、ねえ……橘くん!下の名前、教えてよ!」
僕はギョッとした。それは一番、言いたくない事だ。
しかし、目の前の彼女の顔を見ていると、それもまあ大丈夫かな、という気分になってくる。だから教えてやることにした。
「ミカエル」
「ミカエル?」
「そう。『天使』って描いてミカエル」
彼女は、きっと馬鹿にしたりはしない。僕はもう気がつけば、すっかりトミ子さんの事を信用しているようだ。するとーー
「あっははは!なにその名前⁉︎おっかしい!」
彼女は大爆笑。僕の期待は見事に裏切られたのだった。
ーーー
帰りはタクシーで一緒に帰ることにした。後部座席に乗り込むと、トミ子さんがドライバーに行き先を伝える。ドライバーは年老いたお婆さんだった。こんなにヨボヨボになってしまっては、タクシードライバーのような楽な仕事しかできなくなるのだろう。ドライバーが端末に向かって行き先の住所を告げると、車は発進した。
「さっきはごめんね」彼女は急に謝ってきた。
「なにが?」僕はそうとぼけてみるも、本当は何のことかは分かっていた。
「あれだよ……ミカエルくんの名前で、笑ってしまったことだよ」
「もう良いよ。慣れてるし」僕はそう言うと、車の窓へと顔を逃した。
タクシーは、いや、前後の車も含めて、すべての車が一定の速度で前に進んでいる。このタクシーも、まるで宇宙を漂う人工衛星のように無音の速度で前に進んでいた。
今度は顔を前に向けてみた。タクシードライバーの老婆はもうすっかりと眠りこけてしまっている。本当、楽な仕事だ。
「いわゆるキラキラネームってやつでさ……」僕は独り言のように呟いた。「名乗るたびに、笑われたもんだよ」
「でも、逆にユニークじゃない?わたしは今どき珍しくて良いと思う」
「良くないって。僕はどっちかっていうと、新しいものが好きなんだ。僕は君みたいな名前が羨ましいよ」
僕がそう言うと、彼女はもうそれっきりなにも言わなくなった。なんだか気まずい空気になってしまった。その時……
「新しい物ばっかりでも、良う無いよ」
急に聞こえてきた声に、僕、いや、トミ子さんまでもが反応を示した。しゃがれた声を絞り出すようにして言ったのは、タクシードライバーの老婆だった。
「アンタら若い者らは、すぐに新しいモン新しいモン言うけど、古いモンがあってこそ新しいモンが出来るんよ?」
急に口を挟んできた婆さんを少し鬱陶しく思ってしまった。
「ミカエルって名前、なにがダメなんや?」ばあさんはどこか間抜けな声で僕にそう尋ねた。
「古臭いじゃないですか」僕は若干のイライラを抑えつつ、言い返した。
「ワシらの時代は、そんな名前、普通じゃ。別に可笑しくもなんともない」
僕は何気なく、前部座席のフロントに掛けられていた名札に目をやった。そこには今の婆さんよりも、僅かに白髪の少ない証明写真と、彼女自身の名前が書かれてあった。
老婆の名前は、『黒田くろだ 緑エメラルド』とあった。
「ワシの名前も珍しいんじゃ。あのぅ、おんなじ『エメラルド』でもな、『翡翠』って漢字の方はいっぱいおるけど、『緑』って書いて『エメラルド』って読む名前はあんまりおらんのよ」
そして、ばあさんの身の上話が始まった。
「旦那はもうとっくに死んでもうての。家の世話する人がおらんようになったのよ。女は料理なんてやったことないやろ?だからもう家の中はいっつも大変で大変で……」
あんまり興味はなかった。僕は適当に相槌を打ちながら、暇つぶしに窓の下を覗き込んだりしていた。車のはるか下には、建物や人間が、砂粒のように蠢いていた。
定められた空のルートを自動で飛ぶ車の行列たち。急いでいるのか、それともスリルを求めているのか、時たま一台の車がルートから抜け出して自由気ままに飛び回ったりもしていた。案の定、パトカーがサイレンを鳴らして飛んできた。あんな運転、危険極まりない。
「アンタら若い子らは知らんやろうけどね、今でこそ女は子供産めるし、頭も賢いから、男よりも女の方が偉いって言われてるけど、昔の男はもっとしっかりしてたんよ」
それは、聞いたことがある。大昔、世の中には『男尊女卑』という価値観があって、女性よりも男の方がどうも立場が強かったらしい。そして僕たちのお祖父ちゃん、お祖母ちゃんの時代に、世間は『男女平等』を目指すために、女性の立場を強くしていったようだ。
結果、過剰にやりすぎて逆に今は『女尊男卑』の世の中になってしまった。
「どっちが偉いとか、どっちの方が優れてるとか、そんなんじゃあないんよ」おばあさんは、まるで自分の孫に語りかけるように言った。「神さんがね、人間を男と女に分けたんは、何か意味があっての事なんや。どっちが優れてるとか、どっちの方がええとか、そんなこと言うために分けたんじゃ無いと思う」
僕はずっと外を見つめていた。だけど、話はちゃんと聞いていた。おばあさんの言うことが本当だとすると、僕の考え方も間違っているかもしれない。
目的地に着くと、タクシーはゆっくりと下降して行き、そして地面に着陸した。
「二千六百七十円です」おばあさんが前を向いたままそう言った。
「わたしが払うよ」トミ子さんは手首に巻いた端末を掲げた。
「いや、待ってよ!せめて割り勘にしよう」
初対面で奢ってもらうだなんて、いくらなんでも図々しいだろう。
すると彼女は不満げながらも僕の提案に応じてくれた。僕は彼女のメンツを潰してしまったのではないかと心配になった。女性に奢らせないのは、逆に失礼だって話も聞いたことがある。
そして会計端末に、僕と彼女が一人ずつリスト端末を掲げると、会計が手早く処理された。
タクシーから降りると、僕とトミ子さんの二人きりになる。
なんとなく気まずい雰囲気。
「性別のことなんて、気にしなくて良いと思う」沈黙を破ったのは、彼女の方だった。「結局、身体的な性別なんてものは子供を産むための『プラス』か『マイナス』かだけであって、大事なのは心の方だと思う」
たしかにそうだ。この、性別、人間、AIアンドロイドがごっちゃになった世の中で、『男が〜』とか、『女が〜』とか言う方がナンセンスだろう。僕はちょっと、過剰になりすぎていたのかもしれない。僕はあまりにも、『男』への渇望が強ずきたのかもしれない。
「ねえ!」僕は思い切って彼女に聞いてみた。「君はさ、もし結婚するなら、男がいい?それとも、女性がいい?」
彼女は少しだけ、クスッと笑うと、こう答えた。
「わたしはアンドロイド(人造人間)よ。改造さえすればカラダ的にはどっちでもいいよ。でも、心は女だから、男の人と結婚したいかな?」
安心した。僕は高ぶる気持ちを抑えながらも、声をやや弾ませて言った。
「だったら、僕なんてどうかな……⁉︎僕、"心"は男だから、きっと君とも合うと思うんだ!」
そして、勇気を振り絞って言った俺に、トミ子さんは優しく笑顔を返してくれた。
本当に大事なのが心なのであれば、自分のこの古臭い名前も、きっとどうでもいいことなのだろう。
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