桜のしべが見つめている

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 ユウコは、満開の桜を貴ぶ風潮がなぜだか昔から、さほど好きではなかった。今も大して好きではない。嫌いではないが、好ましくもない。より正確には桜を好まなかった。  花の繊細で薄く透けるようで、曇り空を背景とするとまるで花弁さえ灰色に見える感じだとか、他方、幹や枝の、なりふり構わず冬の寒さをしのいで来たのであろうごつごつした質感だとか、相反する要素がひとつの樹や一帯の景色として合わさったときの妖艶さだとか、総じて、在りようとしてはすきなのだ。植物の種として、季節の象徴として、美しいものとして、好ましいとは感じていた。  ところが満開、これ以上もこれ以下もない十分咲き、となると話は別だ。なんともいえず、気味の悪さを覚える。コンビニへの行きがけに、ファミレスからの帰りに、ふと仰ぎ見る、近所の小学校のグラウンドを囲んだソメイヨシノに、毎年この時期は決まって眉をひそめていた。  しべの根元の、花弁の色のわずかに濃いあたりが、文様のような、目玉のような気配で、じっとこちらを見つめている。  それも見渡す限りすべての花という花がそっくり同じ具合なものだから、ユウコはいつも堪らなくなって、すぐに、さっと目を背けるのだ。最初から見上げなければいいとは、ユウコ自身も都度、思う。懲りずに視線をしまうから、タチが悪い。今日の空に薄紅色の花はどんな姿をさらすのだろうと思って、それが未だつぼみの目立つ五分咲きであったり、あるいは二、三分ほどを散らせ始めたころであったりすると、ひどくほっとするのだ。満開よりよほど、美しいと感じる。  東風の強く、砂の舞う中でわざわざ飲食をする催しが、自身の好まざるところなのを差し引いても。やっぱりどうしてか、咲き始めか、終わり始めが、ユウコをずっと安心させたし、素直に春を喜ばせるものだった。  自宅近くの小学校の校庭を、ぐるりと囲むように、ソメイヨシノは植えられていた。フェンス越しの学校の敷地内にあって、その桜は、まるでフェンスを挟んだ外側の遊歩道のために植えられたかのようだった。さながら並木道である。ユウコが家から出かけるのにも、どこからか家へと帰るのにも、どうしたって遊歩道を通るのが近道だったから、目のようなしべの視線を不気味に感じながらも、花の盛りの頃でもやはりユウコは同じルートを通った。  ひとつ、ひとつの花やつぼみは決して濃い色をしていないのに、ぎゅう、と集まると確かに、白と呼ぶには紅色に近いものがあるのだから不思議だ。足もとに、すっかり花の形を残したまま落ちていたソメイヨシノをひとふさ見付けては、拾い上げて、まじまじと見て、なんとも言い難い気持ちを得る。こうして見ても、おそろしいとは感じないのに。  それでも仰ぎ見た先の枝に、群生するがごとき桜しべの視線をみとめると、薄ら寒さを覚える。それから、拾い上げた花を、ぽいと元の通りに落としてしまう。  それでいいのだ。  手元に残そうなんて、考えるだけいけないことだと、ユウコはぼんやり思っていた。いくら人工的に植えられ増やされたといったって、花は花だし、人は人だ。それ以上には交わるべくもない。  だからを見たとき、ユウコは心臓が急に冷却でもされたような心地がした。  宵の迫る夕空を背景に、桜の下へ、およそ人とは思えないがある。空に向かって広く伸びた枝の陰になるところ、幹に寄りかかるようにして、ソレは佇んでいる。ユウコはトートバックの左の肩紐をずるりと肘のあたりまで落として、慌てて肩へと掛け直した。今日からの講義資料がずしりと重い、教科書の著者と同じ名前の教授に悪態も吐きたくなる。 「こんにちは」  あろうことか、ソレは声を掛けてきた。  ユウコはだらだらと首元にいやな汗を掻きながら、笑い掛けられているのが自分ではない可能性に考えを巡らして、一瞬で棄却する。母校の校庭脇を突っ切ってそのまま住宅街へ至るルートにたまたまの通りかかりなどいない。小中学生が遊ぶにはすでに、少し遅い夕の頃。犬の散歩でもなければ、通りかかるのは、実家に帰るのがどことなく億劫で学友と講義後にだらだら喋って悪足掻きをした帰りの大学生くらいだ。すなわち、ユウコ一人である。 「ん、間違えたかな。声を出すなんて三十九年ぶりで……ああ、もしかしてこんばんは、が正しいのか? こんばんは」  ユウコはなるべく見えていないフリを装おうとした。そこには何もない、何もいない、何も聞こえても見てもいない、自分は、母校の校舎をぼうっと眺めて帰るだけの通行人だと思いたい。  そんなユウコのひたむきな努力を知ってか知らずか、ソレはさらに首を――眼球らしきものが無数に埋め込んである箇所を頭や顔と呼ぶならだけど――かしげて、ユウコの視界に入り込んできた。 「最近の言葉は勉強したつもりなんだけど、おかしいな。もうすこし流行を覚えないと仲間に入れてもらえないってやつかしら、ここに通う子たちがよくやってるね」 「むやみに……返事をするのは、から良くないって」 「おや」 「今日の授業で言ってた気が、する……なあ」 「ああ、あくまでひとりごとの体を装うんだね。賢明な子みたいだ」  ソレの声はずいぶんと柔らかくて穏やかで、少年のようにも淑女のようにも聞こえたけれど、背丈は発育の良い小学生というところだ。だけれど、妙に言葉じりには老成したような、達観したような調子がある。たとえば人よりずっと長く生きているがいたならばこんな感じかしら、とユウコに思わせる凄みが滲んでいた。 「でも、本当に賢い子なら何も見なかったことにして立ち去るかな。ここらは、ほら学校だから、子供が多いだろう。黙っていても僕に気付いてしまう子がたまにいる。でも、大抵は目だって合わさない。僕が自分とは違うって、ちゃあんと区別できるんだろうね。きみはどう? ちょっと窺う感じだと、区別はついてるようだけど」 「見るからに違いますけど」 「見るからに?」  つい返答してしまったことに気付いて、ユウコは慌ててあさっての方向を見た。内心、怖くてたまらなくて手指がふるふる震えている。足の指をパンプスの中で、ぎゅう、と握ったり開いたりして必死に振動をどこかへ逃がそうと努める。  ソレは何が気に入ったのか、気になったのか、じっとユウコの顔を見ているようだった。無数の視線がじりじりと、そらした顔の側面へ突き刺さる。春先とはいえ夕暮れ時は冷え込んで、薄手のカーディガンには少しつらい風が裾から、首元から、ユウコの皮膚を撫でていった。寒いのか寒気なのか分からない。 「ねえ、見るからにってどういうこと?」 「み、るからに、は見るからに」 「きみには一体、僕が何に見えてるっていうのさ」 「だから! そんなに目がいっぱいあるのに、合わせない方法があるなら知りたいくらいで」 「えっ」  あんまり素っ頓狂な声で驚くものだから、ユウコは思わず顔をソレへ向けてしまった。そうして、やっぱりその人間の子どもみたいな体つきの上に、乗っかっている頭にやたらめったら目が多いのを確かめて、また、さっと視線だけ外側に投げ捨てた。 「もしかして、きみには、僕の目が三つか四つか付いているように見えるのかい」 「そんなもんじゃ済まないでしょ。ええ……と十五か、二十、数えるのも失礼かなと思って、ていうか自分の目の数くらい把握してないんですか」 「ああ。だって僕がそんなふうに見えるというのはきみが初めてだもの」 「はっ?」  今度はユウコが驚く番だった。 「大抵は美少年か、妖艶な美女か、はたまた殺人鬼なんて言われたこともあったけど。目の多い妖怪と言われたのは初めてだ。きみにはそんな風に見えてるんだね」  ソレはふっと口元をゆるめると(おどろくべきことに、口は人間と変わらない場所に変わらない数で備わっていた)、自分が寄りかかる桜の大木を仰ぎ見た。  どうやら今すぐ取って食われたりはしないらしい。ユウコはわずかに安堵した。  それから、ソレの無数の目の付いた顔でも、照れたように染めている頬が分かるのはなんでなんだろう、と自分の認識を気味悪く思った。 「そう、きみにはコレがそんなふうに見えているのか。そうか」  ソレはそっと幹を離れて二歩ほどユウコへ近付いてくる。ユウコは咄嗟に、一歩だけ後ずさった。一定の距離を保ったまま、ソレは何度も確かめるように、そうかそうか、と口にしてはうんうん頷いている。無数にある眼球のうち、いくつかは伏せられて口と一緒に感慨深そうな表情を作り、いくつかは興味深そうにぎょろりとユウコへ向けられる。  ユウコはいっそう居心地が悪く、誰か通りかかってはくれまいかと周囲をそっと伺った。けれどもやはり、子供が遊ぶには遅く、大人が帰るには早い頃合いで、遠くにからんからんと転がる空き缶のあるほかは、人の暮らしの気配もない。まるで、そっくり見た目だけ同じの、無人の町へ来たみたいだ。 「それにしては逃げたり怖がったりしないんだ?」  ソレはこてん、と首を傾げた。こういうのと言葉を交わすものじゃあない、とユウコは必死だったが、頑ななはずの意識と鼓膜をすりぬけて、するりと聞こえてきてしまう不思議な声なのだ。幼い子供が咎めてくるみたいにも、つやっぽく誘う女みたいにも、なにか、恐ろしい生き物が舌なめずりしているみたいにも聞こえる。 「最初は見間違いかと思って」 「よくあることだね」 「でも、その、異形の何かだからって拒絶するのは悪いかと」 「うん?」 「あー……えっと、顔見てすぐ『回れ右』されたら人間同士でも結構嫌なので、ましてや、他種族……種族? わかんないけど、その、逃げたら失礼かなと思ったし、それでかえって襲われたりしても嫌だし」 「ああ! 人間に拒否されたのを逆恨みして食い殺すとかそういうやつだね? あっはは、そんなことしないよ」  何を合点がいったのか、ソレは手を叩いて喜ぶような仕草をし、口をにかっと開いて腹を――首から下はまったく人間の子どもと同じに見えるのだ――抱えて笑い出した。笑い声は、これまた腕白な子供が床を転げまわるときのようでもあったし、かしましい年頃の娘が流行のカフェでけたたましく上げるときのそれでもあった。  ユウコは拍子抜けしたような、しかし自分は身の安全と相手への慮りを瞬時に最低限考えたはずなのにこうまで笑わなくともよいのではないか、という妙に不貞腐れたような、なんとも、ぶつけどころのない気持ちでしばしソレの笑い転げるさまを眺めた。  ひとしきり笑ったところで落ち着いたのか、目元に(いくつかの目元のうちの一つに)浮かんだ涙をそっと拭いながら、第一ぼくは肉食じゃないし、と付け加えられたときにユウコはあらためてぞっとした。ソレがどうも人間でないのは決まりのようだし、食さないからといって殺さないとは約束されていないのだと気が付いたのだ。 「や、ずうっと遠くの親類みたいな奴らがどうかは知らないけどね。少なくとも僕は人を食べた試しはないや」  ああおかしい、とソレは半笑いの口元で続けた。 「食べたられたことにしておきたい人間が勝手を言うんだろ。反論もできないから、別に構わないけれど」  ユウコは黙ってじとり、とソレの挙動を窺う。 「ねえ、そろそろその半端な警戒はおやめよ。取って食ったりしないったら。僕は四十三年ぶりに人と話せて嬉しいだけなんだ」 「……」 「あれ、二十二年ぶりだったかしら」 「……三十いくつって言ってませんでしたか」 「ああ! そうだそうだ、よく覚えてるねえ」  応対しまいと思うのに口を付いて返事が出てしまう。よく、魅力的な人となりを指して魔性だなんて言い方をするけれど、こういうことだろうか。純真な子どもみたいな素振りで滑り込んでくる。意識から追い出そうにも難しく、追いかけてしまう、まるで、ユウコの嫌いな十分咲きの花のような居住まい。 「取って食う人は『取って食います』なんて言わないと思いますけど」 「ここに通う子どもたちは『いただきます』をやってるよ。きみも卒業生だね? 昼時になると放送室から音が流れてね、そいつを聞きながら給食の準備をするのさ。最近は流行の曲なんか週替わりで使ってるんだよ。十年ちょっと前は西洋の小奇麗なピアノの音ばっかりだったのに」 「あ、それで」  ユウコは二日前のことを思い出した。毎週火曜は午前の講義を入れていないからのんびりと正午過ぎに自宅を出たのだけれど、その折、小学校のスピーカーから音質の悪いヒットチャートが聞こえてきていたのだ。運動会でダンスでもするのかしらと思っていたが、あれはそういうことだったのか。  はた、と気付いてソレの表情を窺うと、ユウコが返事をしたのに気をよくした様子だった。ちょうどひゅう、と風が吹いてきたのに合わせてくるりとターンをして、それから両手を胸のあたりで開く。ユウコは首を傾げて――すぐ、武器を持っていないことのアピールらしいと汲み取った。人間じゃあないものを相手に、それを表明されたところでどれほど意味があるものか。 「明日もおいでよ。少し話そう」 「お断りします」 「少しでいいんだよ、こんばんはって言ったらこんばんはって返してくれるとか」 「それも嫌」 「じゃあ名前は? 名前を呼ぶから返事をして」 「それが一番いやです、神様とかに名前を教えちゃダメって知らないの」 「わ、わあ! 神様ときたか、うううん、人間て好き勝手だなあ」  まるでユウコのほうがわがままみたいな言い草である。反論しそうになるけれど、ぐっとこらえる。どこまで作為でどこまで本音だか知らないが、言葉を返したら思うつぼである。  ソレはそこから、五分か十分かずっと唸っていた。ユウコは寒さに耐えかねて、徐々に日も落ちて職員室の明かりが煌々としているのを見て、いい加減帰らなくてはと思い出してソレをそのままにその場は離れた。  開花宣言から八日かそこら経った日のことであった。  ひどいじゃないか勝手にいなくなって、と非難轟々だった。  発言者は一人だったし、口も一つしか付いていないのだけれど、目ばかり二十も三十もあったら轟々は轟々なのだった。ユウコは回り道しなかった自分を呪った。前日のあれやこれやは悪い夢だと思いたかったのが半分、どうして得体の知れないモノのためにこっちが道を変えなくちゃいけないんだと思ったのが半分で、昨日と変わらない時間帯に変わらない道を通り掛かると、ソレは同じ樹の幹にもたれかかって口笛なんか吹いていた。  小学校の校庭はぐるりとフェンスで囲まれて、背の低い柵とはいっても、大人の胸元くらいまで高さがある。件の十分咲きの木々はどれもフェンスの内側に植えられ、敷地の真ん中から校舎、校庭、樹木の並び、フェンスの順で外側へといった具合だ。とっくに義務教育課程を終えたユウコが通るのは小学校の敷地のすぐ外だから、昨日と変わらないソレの姿を、ところどころ錆び付いたフェンスの向こうに見つけた。  背格好は背の高めの小学生、首から下だけは今の子どもたちの集合写真に混ぜてもすっかり溶け込むだろう。けれど頭らしき箇所、人間の頭蓋骨に皮膚を張り付けた形の上には、無数の目玉がついている。その一つ一つが個別の意識を持っているみたいにぎょろりぎょろりと、ユウコを見たり、上を見たり、下を見たり、蟻の行列を追いかけたり、あさっての方向を眺めたり。  一晩経ってもあまり見慣れるものではなく、ユウコは気味悪がる気持ちが口や目の端に表れ出ないようにと努めた。できるだけ直視しないようにもした。 「目を逸らすのはきみの言う『失礼』には当たらないの」  ソレはとん、とつま先で地面を踏むと二歩、三歩ほどフェンス越しのユウコへ近付いた。昨日は気付かなかったが、足先はスニーカーで覆われている。黒字に青とシルバーでラインの入った、履くと早く走れる、なんて文句で日曜の朝にテレビCMを流しているやつだ。 「あ。いいだろう、これ。流行してるんだって」 「買えるんですか?」 「どうやら二日前にはちゃあんと、五年三組の武藤くんの下駄箱に収まっていたのだけどね」  ソレはひょいと片足を上げた。自慢げに、つま先から靴の裏の装飾を見せてくる。 「裏庭のごみ捨て場に転がっていたから、ちょっと拝借してみたんだ。もちろん裏庭に転がしたのはぼくじゃないよ、これはぼくと井上くんの秘密」 「……はあ」 「井上くんも今日には涙目でこの靴を探してた。同じ場所に転がっているはずなんだけどね、ぼくが借りちゃってるから」  おかしいよねえ、とソレは笑っている。ユウコは色んな言葉が喉まで出掛かったのをぐうっと堪えた。スニーカーから視線を外すとどうしても目と目が合ってしまい、一つの目から逃げるとまた別の目がユウコを見ていて、かといって目をつむるのも怖いからなるべく、焦点を合わさないようにした。 「そんなに多いかしら」 「多いです」  何が、とも言われていないのに即答した。またやってしまった。得体の知れないものと話なんかしたくないのに。せめて目さえ、こうでなければ、これほど怖くはないんだろう。一か所を見続けるのだけでも止めようと思って、ユウコは瞬きの度に右を見たり、左を見たりを繰り返している。 「そうは言ってもねえ。昨日も話したかなあ、きみにはそう見えるんだねってコトなんだよ、これは」  見る人が見れば絶世の美女なのになあ、とソレは大仰にがっかりしてみせる。溜め息だけは悩まし気な妙齢の女さながらで、ユウコは肩甲骨のあたりにぞわぞわと走るものを感じた。 「だいたい、ぼくみたいなモノに姿かたちや言葉を必要だと思うのは、きみたちの都合だよ」  ソレは急に声のトーンを落とした。囁くようにも、諭すようにも聞こえる。 「見えなくても、聞こえなくてもコチラには支障ないのだからね。後ろ暗いところがあれば妖怪に、縋りたければ神に、なんの警戒心もなければちょっと変わった風貌の同胞に見えるのはきみたちの性質ってやつじゃない?」  無数のまぶたをすうっと伏せて言う、ソレの表情が急に、なにか見たことにあるものに思える。ユウコは両手をぎゅうと握ったり、開いたりした。けれど、似ているなんて感覚自体も『きみの都合』だと言われたらそのとおりで、じいと黙っておくことにする。  ユウコは相変わらずソレの姿を直視はできなかったけれど、気にしないのも限度があって、瞬きの合間にちら、ちらと様子を盗み見る(実際、必ずどれかの目と目が合うものでられているかは怪しい)。一つ一つの眼球は、少し充血した白目に黒目が小さく乗っている。いくつか眺めているうち、黒目といっても真っ黒なわけではなく、ただ周辺よりも多少色が濃いだけなのだと分かる。それをやや遠くから眺めるに、黒目としか呼びようのない具合だった。  そもそもソレの言うとおり、ユウコにしか、この大量の目は見えていないのだとしたら。本当に目の機能を有しているのは一つか、二つきりで、ほかは何も像を結んでいないのかもしれない。見られていると思うのも錯覚なのだろうか。 「でも、『何かがいる』って思うことのほうがきみたちには大事だろ、実際のところ。本当に何かがいるかどうか、じゃあなく」  校庭の砂埃を巻き上げて、足元を風が通り過ぎていく。春の空気も乾燥しているとか、何日か前に行った美容院で教わったな、とユウコは思う。冬が乾いているのは知っていたけど。  指摘されると途端に伸ばしっぱなしの毛先はばらばらと散らばって思え、不慣れなチークをのせた頬は粉をふいて見えた。勧められたトリートメントは家族に使われないよう、自室から浴室へ毎度運んでいる。 「冷えてきたね、そろそろ帰らなくていいのかい」 「べつに私の勝手ですけど」 「残業を回避できていたら、木下くんのパパがじきに通る頃だ。彼にはぼくが見えなくなって久しいから、それできみが気にしないなら、いつまでもおしゃべりをしていよう」 「……帰ります」  ソレは黙ってユウコを見送っている。やっぱり何かに似ているなと思って、人がいっぱいの講義室を思い出した。  見られている、と思う。  たとえば講義の始まる時刻のぎりぎりに教室へ駆け込むとき、あるいは同級生が談笑に花を咲かせるのを遠くに聞くとき、はたまた、街中で一人、ショーウィンドウに自分のくせ毛を確かめるとき。  うなじに何かの刺さる気がしてユウコはいつも振り返りそうになる。何も刺さっていないのを最初から、知っていて振り返るのを止める。あれと同じだった。  翳るところのまるでなく、空へ向かって白っぽい花弁を広げた一面の桜を見上げるとき、ざわざわと背の凍る感じがする。それが本当でも、錯覚でも、夢でも。枝葉を広げるでもない根無し草の自分を指差されている気がして、とらえようのない焦燥に眩暈がする。 「今日でおしまいだ」  三日目、ソレはあっけらかんとして言った。この日のユウコは小学校のフェンスに背を預けて、手元のスマートフォンを無為に触りながらソレの言葉を聞き流していた。 「へえ」 「うーん、きみ、もしかしてあまり興味ないだろ何にも。ふつうは『なんで』とか『さびしい』とか『行かないで』とか、言ってくれるところなんだぞ」 「……盛りを過ぎるから?」 「はあ。やっぱきみくらい拗れた年齢になっちゃうと交流がままならないな」  最初に話しかけてきたのはそっちじゃないか。ユウコは静かに眉間に皺を寄せた。  見上げれば小さな花弁がひらり、ちらり、はらり、枝の先に別れを告げて風に乗って飛んでいく、落ちていく。満開なんて呼べる時期は明日にも、過ぎるんだろうなと分かる。それを過ぎればソレとは会うこともないんだろう、ユウコはなんとなく、知っていた気がした。  花が美しく散り際を晒すとき、ソレはもう、ユウコの嫌ったなにかではなくなるのだ。眼球の少なくなった姿は、すこし、見てみたいとも思ったけれど。ユウコは首を振って思考を振り払って考え直す。今度はひとつも目がない、なんてことではそれも困るなと思って。 「聞いてもいいですか」 「問答はしないのではなかったかな」 「私が聞く分には平気かなと思うので。靴を隠した子には、あなたはどう見えるんですか」 「背が高くて目のきりりと吊り上がった大人かな」 「木下さん家の旦那さんは?」 「あの子は、ずいぶん昔だけれど初恋の少女のように思ってくれたよ、たったの三日でも。だけどどれもぼく自身には確かめようのないことだから、彼らの目に映ったものを、ぼくは推し量るばかりだ」  鏡を確かめようもないのに、他人の目の中の自分を想像で補うのだとしたら、それもまた何かに似ているような。  ユウコが逡巡するのをソレは黙って待っていた。ユウコは目を伏せてしばし、足の下に引かれた遊歩道の表面を眺めた。ひらり、またひとつ落ちてきた花びらが、アスファルトと出会う。  去年だってそこらじゅうに散らばっていたはずの花弁が、いつの間にかどこにも見えなくなって消える。当たり前のことだ。それって幻みたいだ。 「じゃあ」  フェンスに預けていた体重を自分のもとへ戻す。ユウコは振り返らない。ソレはうん、とだけ小さく返事をして、それが別れの言葉らしいと分かった。 「もうひとついいですか」 「どうぞ?」 「あなたの名前はあるの」 「自分はとうとう教えてくれないのにね、本当に勝手で良いことだよ。あったとして、やっぱり呼びたい人間の都合のものさ。特にきみは知らないほうがいいだろう」  そこだけ急にきっぱりとした声だった。少年みたいだ、と素直にそのときばかりはユウコも思った。けれど振り返らなかったから、ソレが結局どんな姿をしていたのだか知らない。まともな呼称もなければ、あったこともなかったことになって誰も、何も見ていないことだからだ。 (了)
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