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「これは命令よ、シリル」  カナリヤが歌うようだと称される美しい声は、今日は一段と低い音で、まるで剣で胸を抉られるように響いてきた。 「嫌だよ。もう子供じゃないんだ。姉さんの命令になんて従わないよ」 「生意気になったわね。それなら、剣の稽古を体調不良と嘘をついて図書室でサボっているのをお父様に言いつけましょうか。きっと鍵を掛けられてもう使えなくなるわよ」 「そっ…そんな!ひどい!」  長い金色の髪を波打つようになびかせながら、姉のクロエは悪魔のような残酷な微笑みを浮かべた。これが今、社交界に咲く大輪の薔薇と言われている令嬢の真の姿であることは誰も知らない。  弟の俺以外は。 「なにも難しいことを頼んでいるわけではないのよ。仲良くなるだけでしょう、簡単なことよ」 「なっ…無理を言わないでよ!俺は兄さんと違って暗くて、喋りもヘタだし…友人なんて今までできたこともないのに…。それに相手は、公爵閣下だなんて……俺みたいなのが近づいただけで、無礼だって言われるよ」  つらつらと言い訳をして逃れようとする俺の話など姉は聞いていない。スッと椅子から立ち上がって、窓の方に向かってゆっくり歩き出した。  今日は一段と気合いが入った格好だ。金色の髪に合わせた金糸を使ったゴールドのドレスは、首もとが詰まったデザインで大きな胸を禁欲的に隠しているのに対して、背中は腰の辺りまで、ばっくりと開いていて丸出しだ。  長い髪は横でユルく結んで前にながしていた。背中を限界まで見せるセクシーな格好に誰もが目を奪われるだろう。 「アイロス様を落とすためだけに、今日まで完璧に仕上げたのよ。唯一の情報が背中がお好きらしいということだけ。私という最高の素材を使って、完璧に着飾ったはずだったのに…。あの男、この私の誘いに一瞥もくれなかった」 「好みの問題じゃない?姉さんみたいに派手な女じゃなくて、もっと素朴なタイプが好きとか?」  俺がやけくそに言った感想は、なぜかしっかり聞いていて、ぎりっと睨まれてしまい俺は寒気がして震え上がった。 「いいこと?それを探るのがシリルの役目なのよ!アイロス様の好みを徹底的に調べあげなさい。ついでに弱みになるようなことも見つけてくれたら最高ね。命令が聞けないなら、サボりの件とお父様のグラスを割った件も話すわ」 「あっ…!あれは姉さんがぶつかってきたから……」 「割ったのはシリルでしょう!お父様は私を信じてくれるわ」 「ひどいー……」 「これには社交界に舞い降りた女神と呼ばれている私のプライドがかかっているのよ!私が落とせない男はいない!それを証明するのよ。これまで称賛されてきたのに、あのアイロス様を落とさなければ私は笑い者になってしまう」  姉は窓枠を握りしめながら燃えていた。その強さにガタガタと音がするほどだった。 「……分かったよ。聞いても素直に教えてもらえるか分からないけど、やってみるよ」  姉の勢いと迫力に負けた俺はため息をついて、命令に従うと伝えた。  振り返った姉は満足そうな笑顔になった。では次のパーティーに必ず動きなさいと言って、やっと部屋から出ていってくれて俺は緊張から解放されたのだった。  俺の名前は、シリル・シャノン。  アルフリーダ王国に住む貴族、シャノン伯爵家の次男だ。他国との争いも昔に終わり、この国の貴族達は平和な世を謳歌していた。連日のように開かれるパーティーは政治や事業の目的もあるが、出会いを求めて夜な夜な様々な恋の戦いが繰り広げられていた。  今社交界で注目される女性は姉のクロエだ。かつて、王都で一番の歌姫として人気があった母の美貌を受け継いで、眩しいくらいに輝く金色の髪で、肌は陶器のように白く透き通っていた。こぼれ落ちそうな大きな青い瞳と薔薇色の唇は誰もが心を奪われると言われるほどだった。  どこのパーティーに出ても、たくさんの男性の心を奪ってしまい、毎日のようにたくさんのプレゼントが屋敷に届いて置場所に困るほどだ。  女神とか天使とか言われてもてはやされている姉だが、弟の俺には昔から絶対的な権力を持つ暴君だった。  怖がりでうじうじした性格の俺は、幼い頃から姉の下僕同然だった。  弱みを握るのが上手い姉は俺みたいな小者など簡単に操り、散々おもちゃのように扱われて遊ばれてきた。  姉が16になって社交界デビューしてからは、俺になんて構う暇もなく、連日男達とデートに忙しそうだったが、19歳を迎える前にそろそろ本格的に結婚相手を探し始めた。  そんな姉の目に留まったのは、同じく社交界で男の方で絶大な人気を誇るアイロス・クリムゾンだ。25歳で家督を継いで、公爵となり、その家柄もさることながら、群を抜いて際立った容姿は令嬢達の憧れの存在になっているらしい。  私みたいな完璧な女に相応しいのは、彼のように完璧な男だと姉はアイロスに標的を定めた。  様々なところから情報を集めた姉は、満を持してアイロスが出るパーティーに出席して、彼に接近した。しかし、いつもの微笑みを使ったのか知らないが、アイロスの方は姉を全く相手にせず、百戦錬磨だったはずの姉はパーティーで惨敗してしまった。  プライドがズタズタになった姉は頭がおかしくなったのか、弟の俺を巻き込むことした。  弟の俺をスパイとして送り込んで、アイロスの情報を集めることにしたのだ。  情報不足が失敗の原因だとみたのだろう。弱みまで握れと言い出したので、俺は倒れそうになった。  突然部屋に乗り込んできて、命令するだけ命令して去っていった姉に俺は呆然となってベッドに転がった。  せめて、男らしく快活で明るい兄のような人間であれば、身分違いと言えど、さりげなく接近して友人になることもできるかもしれない。兄は王国の騎士団に入っていて交遊関係も広い。  鍛えぬかれていて体も大きく筋肉も付いていて逞しい。同じ年だし、警護を申し出て話のきっかけを掴むとか色々できそうだ。  それに対して俺は今年18になったというのに、男らしいとは程遠い。  逞しい兄に憧れているのに、顔は母や姉に似た女顔で、筋肉がつくことなどない細い手足に、姉より白いんじゃないかと思うくらいの青白い肌だ。  背も小さく、幼い頃から姉はもちろん、従兄弟達にも女男と散々バカにされていじめられた。  黒々とした兄の髪のようになりたかった。俺は自分の金髪と緑の目が大嫌いだ。人の視線が苦手で、貴族が通う学校にも行かなかった。  幸い家に教師が来てくれる環境なので、勉学に困ることはなかったが、人付き合いは全くと言っていいほどなく今まできてしまった。  家督を継ぐ予定もないので、家で父の書類仕事を手伝いながら一日のほとんどを過ごしている。パーティーなんて、子供の頃行ったきりだ  できることなら、このまま一人でひっそりと暮らしていきたいと願っていた。  年下でなんの接点もない、ただの伯爵家の次男が、何をどうしたら公爵閣下とお友達になって、好みを探ることができるのか教えてほしいくらいただった。 「次のパーティー……」  姉が申し込んだのは、王族の方が主催する教会の寄付金を集めるためのパーティーらしい。名目はそうだが、これもまた出会いの場になっているらしく、たくさんの若い貴族が出席する。クリムゾン公爵は寄付金集めの主要なメンバーに名前が入っているのでもちろん出席するだろうということだった。  参加費用が必要だったが、引きこもりの俺が出たいと言ったので、両親は喜んでその費用を払ってくれた。ちなみに姉のような知名度も人気もある令嬢は客寄せとしてタダで出席できる。だが、今回姉はいないので、弟の俺は一人での参加となる。  知らない人に囲まれて、一人で何ができるのか、無謀すぎる計画に俺は呆然とやっぱりだめでしたという時の言い訳をずっと考えていたのだった。  □□ 「よう、シリル。まー、大きくなっても可愛くなっちゃって」 「げっ!ロメイン!」  何年かぶりに見た嫌な顔に、俺は早速気分が悪くなった。昔見たときと変わらず、茶色の髪と茶色の瞳をしていたが、背だけは俺が見上げるほど高くなっていた。 「なっなっ、なんでロメインが……」 「バカね、誰も知り合いがいないのに、一人で上手くいくと思ったの?あんたみたいなのがオドオドしてたら、ただの不審者だって、パーティーからつまみ出されるわよ」  ついにきてしまった、例のパーティー当日。兄のお古のタキシードに着替えて外に出たところで、姉はロメインを連れてきた。姉と同じ歳のロメインは従兄弟で、昔は近くに住んでいたのでよくうちに遊びに来た。その度に姉と一緒になって追い回してきていじめられた嫌な思い出しかない。  引っ越してから疎遠になったが、姉はパーティーなどでよく顔を合わせていたらしい。 「ロメインが行くなら、公爵に近づく友人役はロメインに頼めばいいじゃないか!」 「悪いが俺は無理なんだよ。婚約者がいるのに、他の男と親しくできないだろう」 「こっ婚約……!」 「そっ、先月ね。相手は同性だから、お友達と言えど問題になるとまずいんだわ」  同性と聞いて俺は少し驚いた。確かにこの国では同性での結婚も認められている。教会の祝福を受ければ、子供を授かることも可能だ。  女性を好む人の方が一般的で、ロメインは女の子にモテた記憶があったが、好きになった人が同性だったということだろうか。 「俺はアイロス様の取り巻きのヤツと仲が良いから、さりげなく渡りをつけてやるよ。誰とでもお話しされる方じゃないから、チャンスは少ないと思ってくれ」 「シリルのことだから、出来なかったことの言い訳でも考えていたんでしょう。言っておくけど、失敗したらただじゃすまさないからね。せめて、最低でもどんな女が好みなのかくらい聞いてきてちょうだい!」  恐ろしい顔になったクロエに、お尻を蹴られるようにして馬車の中に押し込まれた。  全くやる気もなく、ひたすら逃げたいだけの恐ろしいパーティーへ向かって馬車はゆっくりと走り出した。 「いまだにクロエの言いなりって、シリル終わってんなぁ」 「…………うるさい」  相変わらず嫌なことを平気で言ってくるロメインに俺はムッとした顔で返した。 「いやぁ、悪い悪い。シリルってさ、ついいじわるしたくなっちゃう顔してるんだよ。子供の頃は悪かったな」  俺にとって悪かったの一言ですまさせるような簡単な気持ちではなかった。あの時の思いをそのまま引きずって人と関わることが怖くなってしまったのだ。  ロメインの軽い謝罪など無視して俺は馬車の外に目をやった。 「……アイロス公爵様は、どういうお方なんだ?」 「そりゃ、高貴な家柄に洗練された容姿で、どこに行っても目立つ人だよ。まぁ、モテ男らしくいつも違う女性を連れているし、噂では一度ベッドを共にしたら二度と誘われないそうだ。気まぐれな人なんだろう。あのクロエがベッドにすら誘われなかったのは謎だな。よほど好みじゃなかったのか……。まぁ、その辺のことを探ってみろよ」  誰もが簡単に言ってくれるが、人付き合いなど皆無だった俺がどうやって、その手の質問を気軽にできるくらい仲良くなれるのか分からなかった。  もちろん、色々と作戦は考えてきてはいるが、果たして上手くいくものなのか、そればかり考えていた。 「んで?どうやってお知り合いからの壁を越えるつもりなんだ?」 「色々考えたけど、思い付いたのは水が入ったグラスを持ってアイロス様に近づいて、転びそうになって足元に軽くかけてしまう。公衆の面前で激昂するタイプじゃなさそうだし、申し訳ないと謝って会話のきっかけにするとかかな」 「あー、いかにも、令嬢が出会いのきっかけに思い付きそうなネタだな」 「なんだよ!じゃあ他にいいもの教えてくれよ!」  ロメインに早速笑われて、俺はまたムッとして睨み付けた。それを見たロメインはまたおかしそうに笑うので、イライラを通り越して疲れてしまった。 「まー、その作戦でいってみろよ。俺も謝るときに一緒に加勢してやるから。それなら、そこまで不快にされないだろう」  どうやら援護射撃してくれるらしいが、そんなものではごまかされないぞ思った。しかし、確かに加勢してくれた方が助かるので一応よろしくとだけ言っておいた。 「そういえば子供の頃のお前ってさ……」  まだ子供の頃の話をするのかと、俺はロメインを睨んだ。子供の頃、さんざん姉とロメインに玩具にされたので、嫌な思いでばかりであの頃のことはほとんど記憶にない。  俺がムッとしたからか、ロメインはやっぱりいいやと言ってやっと黙ってくれた。  会場に着いて馬車から降りると、すぐに色とりどりのドレスの令嬢達が目に入った。みんな期待に胸を膨らませている様子で頬が赤く染まっている姿は可愛らしく見えた。  俺もこんなことをやっている場合ではなく、あの令嬢達に声をかけて仲良くなるべきなのではと思ったが、それも友人と同じく何を話していいのが分からなすぎて壁は高かった。  俺は会場の雰囲気にのまれて、令嬢達をぼんやり見ていたら、歩いてきた人とぶつかってしまった。 「失礼」 「あっ…いえ。こちらこそ」  ぶつかったのは、兄と同じくらいの年代の男だった。長髪でシャツの胸元ががばっと開いていて、いかにも遊んでいそうなタイプの人だった。 「……君、ちょっと待って」 「え?」  こんなところで因縁をつけられるのかとビクッとしたが、その男はやけに馴れ馴れしく、俺の肩を掴んできた。 「君、可愛いね?見たことない顔だけど、名前は?」 「え?は?」  急に何を言い出すのかと混乱していたら後ろから腕を引っ張られた。 「すみませーん!この人俺のツレなので、じゃそういうことで!」 「ロメイン!」  ロメインに引っ張られて会場の端まで連れてこられた。どうやら探してくれたらしく、ぜぇぜえと息をはいていた。 「アホ!なにボケッとしてんだ。あれはマクシミル侯爵家の息子、ブルーノだよ。男女構わず食いまくる遊び人だ。なにいきなり食われそうになってんだよ」 「ええ!?ちょっとぶつかっただけで…」 「あー、だから俺はやばいってクロエにも言ったんだよ。シリルはさ今まで外に出なかったから何も知らないだろうけど、お前ってソッチの連中からすると……」 「すると?」 「………美味そうなんだよ」  ロメインの言ったことがよく分からなくて、俺はパチパチとまばたきした。 「ソッチって?え?こんな骨と皮だけの俺が?」 「説明してる暇はない。とりあえずアイロス様にその手の噂は聞かないし、早く目的を達成しろ!こっちだ!うろうろするな!」  ロメインに怒鳴られながら、会場を引っ張られてどんどん奥へ進んでいった。和やかに話している者達や、ダンスを踊る者達、壁際でいい雰囲気になっている男女の姿も見えた。  パーティーに出るのは久しぶりだった。それは子供の頃であまりいい思い出はない。一度だけ、楽しかったような記憶があるがなんであったかはもうすっかり忘れてしまっていた。  大人になってから見るパーティーは当たり前だがあの頃見たものとは違った。ある意味ショックを受けながら、楽しそうに笑う人達を眺めながら歩いていた。 「ほら、あそこにいらっしゃるのが、アイロス様だ」  ずいぶん奥まで連れてこられた。特別な方々のスペースなのか、一段上がったもっと奥をロメインが指差さした。 「あの方が……」  そこには、確かに一度見たら忘れられないような美丈夫が立っていた。背が高くすらりと伸びた手足は細いが姿勢が良く、鍛え抜かれたような逞しさを感じた。黒々として艶のある髪は首元まで伸びているが後ろに流して整えられていた。肌は白くて、髪と同じく黒色の眉はキリッと上がっていて男らしい。高い鼻梁に形よく閉じられた唇、少し垂れ気味の目は独特の色香が漂ってくる。特に印象的なのは紫の瞳だ。まるでアメジストの宝石のような瞳は誰もが吸い込まれそうな美しさだった。  思わず同じ人間とは思えない美しさに見惚れてしまった。身近に女神と言われる姉がいるが、比べ物にならない存在感だった。初めて見た男のはずなのに、ふとあの紫の瞳に見覚えがある気がして俺は頭を傾けて考えたがすぐに出てきそうになかった。  アイロスの両端には当然のように美女が立っている。磨き抜かれた美貌とスタイルは会場のどの令嬢より抜きん出ている。二人とも絶対にその場を譲らないという気迫を感じた。しかし、どちらかと言うと姉の容姿に近いような気がする。あの二人が好みのタイプならなぜ姉の誘いに乗らなかったのか、ますます疑問だった。  アイロスと美女二人、その三人を囲むように取り巻きと呼ばれる男達が立っていた。その中の一人の男がこちらに視線を向けると、気がついたようにその輪を離れてこちらに歩いてきた。 「ロメインじゃないか。珍しいな、ここに顔を出すなんて、ロイはどうし…」  親しげに近づいて来た男は、ロメインの隣に立っている俺を見て目を見開いて驚いたような顔をした。 「おいおい…、こんなところで堂々と浮気か?ロイに殺されるぞ…」 「違うって、こいつは従兄弟のシリルだよ」 「あぁ、例のアイロス様と繋がりが欲しいって人だっけ」  どうやら話は通っているらしかったが、男はあまりいい顔はしていなかった。 「アイロス様の権力を求めて近づきたいって男はたくさんいるんだよ。まぁ、俺もその一人だけどさ。君伯爵家の次男でしょ、あまり期待しない方が……いや、待て……」  その男は俺のことをまじまじと見てきた。穴が空くように見られてあまりいい気分はしなかったが、男はこれはイケるかもと言い出した。 「君、金髪に緑の瞳だね。アイロス様のお気に入りのタイプだよ。まぁ、女の子じゃないけど、見た目が気に入れば側にいることを許可してもらえるかもしれない」 「きっ…金髪に…緑の……」  早速、アイロスの好みについて情報を得ることができたが、金髪は良いとしても、まさかの緑の瞳という、どうにもできないものだったので、とても姉に話せるものではなかった。  とにかく紹介してもらえることになったので、瞳の色のことは忘れて、男に付いていくことになった。  男に付いて一段高いところに上り、俺はアイロスを囲む輪に近付いていった。  美女を侍らせてご機嫌なのかと思いきや、近くに寄ってみると、アイロスの口は固く結ばれて、目線はどこか遠くにあった。  周りの取り巻き達が必死に話題を作って話しかけているような状態だった。 「アイロス様、今日はどちらをお望みですか?」 「二人同時でもよろしいかと。それとも会場に気に入った令嬢がいたら声をかけてきますよ」  必死にご機嫌を取ろうとする取り巻き達には目線を送ることもなく、アイロスはつまらなそうにグラスを取って中のワインを口に運んだ。  そしてそのグラスが傾けられてから元に戻る時に、ちょうどその輪に俺が近づいていき、アイロスの紫の瞳とバチっと目があった。  パリンと音を立ててグラスが床に落ちて割れた。一瞬何が起きたのか分からずに、俺は口を開けたまま床に飛び散った赤色の液体を眺めていた。 「君……名前は?」  すぐ近くで低音のよく響く声が聞こえて顔を上げると、目の前に紫の瞳があった。 「シ……リル」  まるで魅入られたみたいにその瞳に捕らわれて、俺の言葉はつまりながらやっと出てきた。  恐いくらい整った相貌の男が俺を見下ろしていた。感情のないような顔だが、わずかに息が上がっていてまるで緊張しているような様子に、まさかと信じられない思いになった。 「シリル……、君は男の子……なのか。他に兄弟は?」 「……姉がいます。先日お会いしたと思うのですが……クロエ・シャノンです」  いつの間にか自然に伸びてきた手に顎を取られてしまった。くいっと持ち上げられて、何かを確かめるみたいにじっと見られた。  なんだか今日はよく見られる日で、その中でもこの男、アイロスに食い入るように見られるのは、ドキドキと心臓の音がうるさく騒ぎだして落ち着かなかった。 「クロエ……ああ、彼女か……。違う、クロエじゃない……」  ぶつぶつと何か考えるように、アイロスは喋りながら一人の世界に入ってしまったようだった。 「あ…あの……」  顎を掴まれたままだったので、どうしていいか分からずに小さい声で訴えると、それに気づいたアイロスは、すまないと言って手を離してくれた。 「少し疲れたよ。俺は部屋で休むから……」  頭を押さえて疲れた様子のアイロスがそう言うと、美女と周りの取り巻き達がわっと集まってきた。 「でっでは!私がお世話を!」 「いや、私が!!」 「アイロス様、ベッドでしたらどうか私を!」  血走った目で集まってきた人達に押されて、はじき出されて俺は尻餅をついて転がった。  おしりの痛みに手を当てて耐えていると、目の前に手が差しのべられた。 「乱暴な連中ですまない。大丈夫かい?」  床に転がった俺の前にまたもやアイロスが立っていた。しかも手を伸ばしてきてどうやら立たせてくれるようだ。 「ありがとうございます…。あの、大丈夫です。少し打っただけですから」  俺の手を掴んだアイロスは、簡単に引き上げてくれた。その力強さに驚いていたが、すぐに離されると思っていた手をなかなか離してくれなかった。 「今日はシリルと一緒に行きたい。だめかな?」 「え?」  なんの事かと思ったが、アイロスの言葉に周囲がざわざわとして女性達は悲鳴を上げそうな勢いだった。  集まった人の中にロメインもいて、ロメインは必死に頷くように伝えてきた。 「……はい。あの、俺でよければ」 「おいで、シリル」  俺の言葉にアイロスは目を細めて微笑んだ。同性でもくらりとするくらい色気のある微笑みに、俺の顔は熱くなり心臓はますます早鐘を打っていた。  手を繋がれたまま、会場に用意されていた控え室のようなところへ入っていった。中には長椅子と休憩に使えそうなティーセットとお菓子が置かれていて、会場の係りの者がすぐに熱いお湯を持ってきてくれた。 「急に誘ってしまってごめんね。俺が休憩をするときは、周りの連中が世話をしたがるから、一人と決めていつも付いてきてもらうんだ」 「そ…そうなんですね。それじゃ、俺が準備しますよ」  アイロスの日常は俺には想像もつかないことだが、きっと色々な連中が繋がりを持ちたいと近づいて来るのだろう。そんな中でもこうやって二人きりになる機会が持てたことは俺にとって幸運でしかない。まさに、求めていた瞬間なのだ。  ここで仲良くなって、もっと突っ込んだ話ができたら色々と情報が聞き出せると気合いを入れた。  普段家にいるので、お茶の用意は完璧というくらいマスターしてしまった。いつも母のお茶の時間には必ず用意させられるのだ。  ポットに茶葉を入れて熱いお湯を注ぎ、暫くおいてから、温めたカップにお茶をそそぐ。簡単に見えて意外と難しくて、なんど母にダメ出しされたか分からなかった。 「どうぞ」  アイロスの前にカップを置くと、アイロスはすぐに手にとって口に運んだ。  確かに顔色が悪く少し疲れているようにも見えた。 「……美味しい。こんなに美味しいお茶は久しぶりだ」  口を閉じていたときは人形のような顔の男だったが、目を開いて驚いている姿は妙に人間らしく見えて、俺は嬉しくなった。 「お口に合ったみたいで、良かったです」  アイロスの横に突っ立っていたら、アイロスは自分の横を叩いて座るように促してきたので、俺は仕方なく横に座らせてもらった。 「俺はパーティーにはよく出ているけど、シリルは見かけたことがない。俺と会うのは初めてかな?」 「あ……それは……」  この質問にはどう答えたらいいのか、俺は一瞬戸惑った。引きこもりで外に出たことがほとんどない男が、いきなりなんの意味もなくアイロスに会いにいくのもおかしな話だった。 「おっ…俺が一方的に知っているだけですけど、以前パーティーでお見かけして、ぜひお話ししてみたくて、今日は紹介してもらおうと……お近くへ……」 「そうか、会っていたのか。気がつかなくてすまなかったね」  話してみたかったということなら自然だろうと、緊張をごまかすように俺は深く息を吸い込んでゆっくりはいた。 「シリルの期待を裏切るわけではないけど、俺はつまらない男だよ。ただ大きな権力のある家に生まれたというだけで、俺自身は何もない空っぽみたいなものだ」 「ええ!?そっ…そんな、俺みたいな人間も気遣ってくれますし…」 「まぁ……シリルが何を望むかだけど」  そう言ってアイロスの目は細められた。口許には微笑が浮かんでいるが、まるで感情が込められていないような冷たさがあった。 「君の髪と瞳の色は好きだ。今日は気分じゃなかったけど、特別に許してあげるよ」 「えっ……?」  全く感情が読み取れないが、アメジストの瞳は間近で見ると本当に吸い込まれそうなくらい美しかった。俺の頭はくらくらしてしまい、アイロスが何を言っているのかよく分からなかった。 「男は面倒だから下は使わなくていい。口だけにしてくれ」 「は…はい?」 「………ちゃんと、勃たせてから歯は立てないで。終わったら全部綺麗にして」  優雅に椅子に座ったまま、今日の予定を話すみたいに平然ととんでもない事を言っているアイロスが信じられなかった。  俺はもちろん経験はないが、クロエが面白がってそういう話をするので、少しだけ知識だけはあった。つまり口淫をする、ということだろう。強要している雰囲気はない。むしろ、面倒くさいから早く適当にやってくれという意思が感じられた。  お近づきになりたいというところを完全に誤解されていて、俺は青くなって首を振った。 「あっ…なにか、誤解させてしまったら申し訳ありませんが……俺は……その、そういうつもりではなく……」  慌てて否定する俺を、アイロスはまた感情の込められていない目で見ながら、じゃあ、どういうつもりなのかという顔をしていた。 「……話がしたかったんです。アイロス様の好きなものとか……好きなこととか……知りたいんです」 「なぜ?」  アイロスは今度は当たり前の反応を返してきた。ここで姉の命令でとそのままの事を言っても、素直に答えてくれるとは思えなかった。 「そ…その、俺……」  どう言えば一番自然なのか普段使わない頭を必死に働かせた。変な誤解などされずに自然な関係を思い浮かべて俺はやっと口を開いた。 「アイロス様とは…、初めて会った気がしなくて……、とっ……とも、友達に……お友達になりたかったんです!!」  俺は人生で初めての台詞を口にした。多少脱線してしまったがこれが当初の目的でもあるのだ。しかし、お友達になるには、こんな風に熱を入れて告白みたいに言わないといけないのか、初めての経験でよく分からなかった。 「俺と……友達に………」  ずっと感情のない人形みたいな顔をしていたアイロスが、困ったような、不思議な生き物を見るみたいな目で俺のことを見てきた。 「……そうだな。俺も君には初めて会った気がしなかったんだ。俺の友達は一人だけだけど……、シリルなら友達になってあげてもいいよ」 「ほっ…本当ですか!?」 「ああ、よろしくね」  そう言って、アイロスはふわりと微笑んだ。どこか冷たさが混じっていた顔に、ほんの少しだけ人間らしい温かさが宿ったように見えた。俺の胸はトクンと大きく音を立てて揺れた。  とっさに出てきた初めて会った気がしないという言葉が頭の中を回っていた。  本当にどこかでこの微笑みに触れていたような気がして、捕らわれたようその瞳を見つめ続けたのだった。  □□ 「…………という感じ」 「…………という感じじゃないわよ!なんなのよ!その情報は!?」 「え!?」 「好きなお茶はミントが入ったもので、朝とお昼に一杯、夜はカモミール……って!!全然使えない情報じゃない!!」  パーティーがあった翌朝、姉の部屋に呼び出された俺は、昨夜の首尾を聞かれた。目的通りアイロスとお友達になれた俺は、まずは日常会話からと好きな食べ物や飲み物の話をして過ごしたのだ。 「甘いものはあまりお好きじゃなくて……香草を使った料理が……」 「だーかーらぁぁぁ!!使えねーんだよ!食い物と飲み物の話なんて知るか!」  ついに本格的に姉がぶちギレてしまい、鬼の形相に俺は恐ろしくてドアに張り付いて震えた。幼い頃から少しずつ練り込まれた恐怖で、あの顔を見ると条件反射的に震えてしまう。 「でっ…でも、お友達に…なっ…なれたから、次はもっと深い話を……」 「私さ、新しいドレスを作ろうと思っているのよ。あの男もビビるような、うんとセクシーなやつ。色とかさ、形とか、知りたいわけ。分かる?」 「は…はい」 「分かったなら行ってきて。私を失望させないでくれないかしら」  怒りすぎて、眉間に深いシワができてしまった姉に、また尻を蹴られるようにして部屋から追い出された。  まさに踏んだり蹴ったりでひどい扱いだ。  結局あのパーティーで俺は取り巻きの一人に加えてもらえることになったらしい。  早速アイロスの家に招待されたのだ。家で父の仕事の手伝いくらいしかやることがないと言ったら、じゃあウチにおいでと誘われたのだ。  いきなり屋敷に呼ばれるとは驚いたが、友人として親睦を深めるには願ってもない機会だし、プライベートな空間でアイロスの知られたくない秘密を探れるかもしれない。  なんとなくあの男に深く関わるのは危険なような気がした。俺は姉が求めるような情報を得たら、早く元の引きこもり生活に戻りたいと考えていたのだった。 「……すごい高さだ」  王都の町の中心にその屋敷はあった。国で一番歴史のある貴族と言われているだけあって、まず広大な敷地に驚き、門の前に立ってその高さに驚いた。そびえ立つ細長い槍が他者の侵入を阻むように連なっている。  俺のような邪な気持ちを持った者は、この槍に刺されてしまうような気がして冷たい汗が背中に流れた。 「……シリル様でしょうか」 「ひっぃ…!!」  大口を開けて門の上を眺めていたら、すぐ横から声がして俺は驚いて悲鳴のような声を上げてしまった。 「驚かせてしまい申し訳ございません。私、クリムゾン家の筆頭執事をしております。レナルドと申します」  長い黒髪に青白い顔をしたどこか影のある男が立っていた。ひょろりと背が高く、厚い前髪で口許しか見えない。執事を名乗っているが、幽霊ですと言われた方がハイそうですかと納得できそうな雰囲気だった。 「シリル・シャノンです。あの、他の皆さんは……」 「今日はお一人と伺っております。どうぞこちらからお入りください」  丁寧な言葉遣いで落ち着いているが、どうも変な暗さがあってビクビクとしてしまう。しかし、見た目は薄気味悪くても、こんな大きな屋敷の筆頭執事であるのだからきっと優秀な人に違いないと言い聞かせて、俺は薄暗い背中を追いかけて歩いた。 「やあ、よく来てくれたね。そこへ座ってくれ」  広大な敷地に建つこれまた、大きな屋敷の中、長い廊下を進んで連れてこられたのは、アイロスの執務室らしい。部屋に通されると、アイロスは机に座っていた。たくさんの書類を前にして仕事中のようだった。 「わっ…お仕事中ですか…、すみません!お忙しい時に……」 「何を言っているの?俺が呼んだんだから、謝る必要はないよ」  すぐ終わるからお茶でも飲んでいてと言われて、はいと頷いて緊張しながら座った。あまりじろじろ見るのは失礼だと思ったが、真剣な顔でお仕事中のアイロスは昨夜の華やかで色気のある姿とはまた違い、大人の男のカッコ良さがあった。 「んっ…、美味しい…!」 「こちらはクリムゾンリーフの人気の茶葉です」  クリムゾンリーフは紅茶を中心とした茶葉を取り扱っている会社で、アイロスが手掛けている事業の一つだ。貴族の間で人気があり、国外にも輸出していて、その名前を知らない者はいない。  アイロスが集中している間、レナルドが手際よくお茶を用意して話し相手になってくれた。やはり表情がなく、少し怖い感じはするが、話してみると優しそうな人だった。 「……レナルド、下がっていい」 「はい」  どうやら一仕事終わったアイロスは、書類をレナルドに渡して椅子から立ち上がった。 「おいで、シリル。庭を案内するよ」 「はい、分かりました」  アイロスが自然に手を差し伸べたので、俺は驚いて目を開いた。まるで令嬢をエスコートするような仕草に少しおかしくなって笑ってしまった。 「ああ、シリルは男の子だったね。可愛らしいからつい女性のように扱ってしまう。すまない」 「いえ、幼い頃は姉と歩いていると姉妹によく間違えられましたから、慣れてます」  せっかく出してくれた手を拒否するのは申し訳なかったので、俺はアイロスの手をつかんで立ち上がった。  アイロスの手はその冷たい表情とは違い、温かくて柔らかかった。その心地よい熱は、庭へ向かう前に離れてしまった。俺はなぜかそれが少し寂しく思えてしまい、自分の手を見つめたが、答えは浮かんでこなかった。 「ここが母のお気に入りのバラ園だ。お気に入りすぎて俺も立ち入り禁止なんだけど、子供の頃はよく忍び込んでね。その度に怒られたものだったよ」  クリムゾン家の庭は広大な敷地を利用した立派なものだった。色とりどりの草花が美しく見えるように考えられて配置されていて、小さな池には橋がかかり、ガラス張りの大きな温室もあった。  その中でも立派な囲いで区切られているバラ園は、外から見てもその素晴らしい景色が堪能できた。 「確かにすごい数のバラですね。中に入ったらもっと素晴らしいだろうな……。あっ、ここの木の柵は壊れてますね。子供なら簡単に入れそう。ちょっと尖ってて危ないけど……」  つい好奇心が湧いて、木柵の状態まで確認してしまった。これだけ手入れされた庭で珍しいと思っていると、返事がないことに気がついて俺はアイロスの方に視線を向けた。 「え……」  アイロスは俺の方を見て、少し驚いたような顔をして立ち尽くしていた。  これは触れてはいけないことだったのかもしれない。人との距離が掴めない俺は失敗してしまったと青くなって慌てた。 「あっ…すっ…すみません!勝手に指摘したりして、あの、これだけ大きければ、そういう箇所もありますよね!決してバカにしたわけでは……」 「シリル、来て」  なんとかごまかそうと言い訳を並べていた俺の手を取って、アイロスはずんずんと歩きだした。  どこに連れていかれるのかと思っていたら、着いた所は庭園が見渡せるように立てられたガゼボだった。  真っ白で八角形の造りになっていて、蔦が這っていて美しいところだった。  中は広く造られていて、入るとすぐに長椅子に座るように言われた。 「昨日からほとんど寝ていないんだ。シリル膝を貸してほしい」 「え?はっ…はい、どうぞ……」  どうやら急に疲れが出たらしいアイロスが、俺の膝に頭を乗せて仰向けに寝転んできた。  こんなこと想像もしていなかったので、まさかの展開に俺の心臓はどくどくと鳴り出したが、アイロスはすぐに寝息を立てて本当に眠りに入ってしまったらしい。 「嘘……、本当に……寝ちゃった……」  領地の管理にたくさんの事業も手掛けていると聞いている。父を亡くして若くして爵位を継いで、気苦労も多いだろう。俺には想像もできない生活だし、代われと言われたら絶対に無理だ。  実家でぬくぬくと引きこもりなんてやっている、どうしようもない俺ができることといえば、膝を貸すことくらいだろう。  感情のない人形みたいな人だと思っていたけれど、時折見せる人間らしい表情が目の奥に残って離れない。こんな風に自分の膝の上で寝られたら、信頼されている気がして嬉しいと思うと同時に落ち着かなかった。  アイロスが目を開けたら、また新しい表情を見せてくれるだろうか。  もしかして、自分だけに見せてくれたら、どんなに嬉しいだろう。  アイロスの寝顔を見ながら、俺はそんなことを考えていたのだった。  □□□
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