1/1

310人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

 嫌だ、嫌だ  見つかったらまたいじめられる  こんな格好させられて、みんなの前でバカにされる  もうたくさんだ  パーティーなんて大嫌いだ  みんな、みんな大嫌いだ  ¨どうしたの?  ここへは入ってはいけないんだよ  どうして、泣いているの?¨  嫌いだ  みんな、みんな……  ¨……恐いの?大丈夫、僕が守ってあげる。だから、僕の手を取って¨  嫌だよ  嫌いだ  嫌いなんだ  みんな、みんな、傷つけてくるから  ¨僕は君を傷つけないよ。僕も痛いのを知っているから。だから、絶対に傷つけない¨  ……本当に?  ¨ああ、約束するよ。僕の名前は………¨ 「シリル……」 「んっ……」  肩を揺らされて俺は目を開けた。目の前に紫色の瞳が飛び込んできたので、幻でも見ているのかとパチパチとまばたきをした。 「よく寝ていたからそのままにしたけど、途中からひどくうなされていたから…、大丈夫?」 「は…はい。ちょっと嫌な夢を……。あっ俺!寝ちゃったんですか!すみません!」  アイロスの執務室には、新しく机が一つ置かれた。それはアイロスが俺のために用意してくれたものだったが、こともあろうに俺はその机に突っ伏して寝てしまったらしい。 「ふふっ……、大丈夫だよ。もうほとんど終わっていたから。シリルの可愛い寝顔が見られたからなかなか楽しい時間だった」 「かっ可愛いなんて……、本当、すみません……」  真っ赤になった俺の頭をアイロスは子猫でも可愛がるみたいに撫でてきた。それがくすぐったくて嬉しいと思ってしまい、俺はいよいよヤバイと感じ始めた。  初めてアイロスの屋敷に呼ばれた日から、俺はほとんど毎日通うことになってしまった。  アイロスの仕事は今一番忙しい時期で、書類仕事が溜まっているらしく、細々としたものを整理できる人間が欲しかったそうだ。ぜひやって欲しいと頼まれて、俺はやりますと即答で飛び付いた。  プライベートなことを探るには絶好のチャンスだと考えたのだ。  父の仕事も最近は落ち着いていて、家にいると剣の稽古をしろとうるさく言われるので俺としてはちょうど良かったというのもあった。 「へぇ…、それじゃあ、シャノン伯爵はシリルを騎士団に入れたいのか……」 「そうなんです。兄のコネがあるから入りやすいのは確かなんですけど、こんな骨と皮しかない俺に騎士なんて、無茶を言いますよね」 「心配しているのだろう。……いい父親じゃないか」 「そっ…それはそうですけど」  アイロスの家に通いだしてもう二週間は経った。毎日顔を合わせて同じ空気を吸っていれば慣れていくもので、最近は仕事の合間に雑談をするまでになっていた。  人形のように固い印象があったアイロスだが、だんだん表情も幾分か柔らかくなり、笑顔を見せてくれるようになった。 「ふ…っ…ふふっ…」  急に口元を手で押さえて、笑いを噛み殺しているようなアイロスにびっくりして俺はペンを持つ手を止めた。 「……すまない。シリルが甲冑を着て剣を振り回しているところを想像したら……ふっ……くくくっ…」  どうやら、バカにされているらしいのだが、アイロスの見せる意外すぎる姿に、俺は驚きすぎてなにも言えなくなってしまった。 「あぁ、おかしい。君といると退屈しないよ」 「そ…それは、どうも……」  真っ赤になった俺は、顔を隠すように下を向いて書類に集中することにした。  姉の命令を受けて、アイロスの屋敷に入り込んでアイロスの好みを調べて、ついでに弱味を握るために俺はここにいる。  しかし最近は、アイロスといる時間が楽しくて命令を忘れつつある。  アイロスはふいに頭を撫でてきたり、肩に触れてきたりする。そんな一瞬の触れ合いで俺の心臓は跳び跳ねてどんどんと揺れだす。触れられたところは熱くなり、もっと触れて欲しいとさえ思ってしまう。  この、訳のわからない思いをもて余して、どうしたらいいのか、さっぱり分からないのだ。友情とはこんな風に思うものなのか。  それとも、これはもっと別の気持ちなのか、アイロスに聞くことなどできないし、姉なんてもっと無理だ。  相談するような人もなく、俺はずっと悶々と悩んでいた。  だから、久しく忘れていたあんな夢を見たのだと頭に手を当てた。  ずっと昔の思い出だ。もう、忘れたはずなのにと唇を噛んだ。  書類のチェックが終わり、後はアイロスが最終的な確認をすれば、俺の今日の仕事は終わりだった。  アイロスは訪ねてきた会社の部下達と別室で会議を始めてしまいまだ帰ってこない。執務室で一人残されて俺はため息をついた。 「はぁ…なにしてんだろう……」  この二週間で姉に報告したことは、アイロスの好きな色だけだった。しかもその時の台詞を思い出して、俺はまた真っ赤になった。  ¨色?¨  ¨そうです。アイロス様はどんな色がお好きかなって……。ちょっと気になって……¨  ¨緑¨  ¨緑ですか…¨  ¨ああ、シリルの瞳みたいな、美しい緑色が好きだ¨  そう言って、アイロスは俺の目の辺りを優しく指で撫でてきた。その愛しいものを触るみたいな優しい手つきに、くらくらとして倒れそうになった。  最初に会った時に関わってはいけない人だと感じたが、その直感が間違いではなかったと会うたびに思う。彼のような華やかな毒を持つ人間の前で、俺みたいなのは簡単に毒されてしまう。これ以上は関わってはいけないという気持ちと、もっと触れて欲しいという気持ちが俺の中でぐちゃぐちゃになっていた。  カタンと扉が開いた音がして、誰かが部屋に入ってきたのが分かった。  アイロスかと思って顔を上げると、入り口にはドレスを着た女性が立っていた。  俺と目が合うとキッと眉を寄せて強い表情になって、つかつかと部屋の中へ入ってきた。 「あなたが最近のアイロス様の玩具ね」 「は?」  女性の歳はよく分からないが、姉と同じくらいだろうか。アッシュブロンドの長い髪に青い瞳で色白で綺麗な女性だった。 「男は面倒だと仰っていたのに……。よほど似ているのかしら」 「……は?あの……あなたは?」 「私はマリーヌ・ロレアル。幼い頃、親同士が交わした約束だけど、アイロス様と私は結婚することになっているの。つまり、婚約者ね」 「え!?そっ…そんな話!?」  姉からアイロスに婚約者がいるとは聞いていなかった。そもそもそんな相手がいるなら、姉は初めから勝負にならない戦いをしているようなものだ。 「……まぁ、正式なものではないわ。アイロス様には心に決めたお方がいて、その方以外と結婚はしないと断られているから……。でもいくら探してもいないみたいで、それなら家を存続させるためには相手が必要でしょう。うちは同じ公爵家だし、アイロス様のお母様にはよろしくと頼まれているの」 「心に決めた方が………」 「そうよ。あなたと同じ金髪で緑の瞳の女の子よ。名前は……ルディ?リリー?忘れたけど、本人が見つからないから、アイロス様は似たような容姿の人間を側に置くわ。でも所詮代わりなのよ。飽きたら子供が遊んだ玩具みたいに捨てられるわ。もう何人も見てきたもの。あなたも同じ……。ましてや男だし、完全な偽者だわ」  マリーヌの言葉に俺の体は痺れたように動けなくなった。姉にとっては終了とも言える事実だ。しかし姉のことよりも、俺は自分が偽者と呼ばれて胸が張り裂けそうに痛むのを感じた。アイロスが俺に向けてくれていた笑顔も優しい眼差しも、別の誰かの代わりであって偽物であった。手足の先が震えだして、心が凍りつきそうになった。 「ふん、男のくせに可愛い顔して、よほどアッチの具合がいいのかしら。男娼になりたかったら、こんなところで股を広げないで、町にでも立ったらいかが?」 「だっ…男娼!?なっ…何を言うんですか!?」  口に手を当てて驚いている俺を見て、バカにしていたようだったマリーヌが今度は驚いたような顔になった。 「は?あなた……もしかして……アイロス様と何も………」 「マリーヌ」  鋭くて低い声が部屋の中に響いた。俺もマリーヌもピタッと動きを止めて入り口に目をやると、いつの間にかアイロスが立っていた。  不機嫌そうなその雰囲気は、初めてパーティーで会ったときに似ていた。 「勝手に入らないでといつも言っているよ。どうせ、母に会いに来たと言って、ここまで入り込んで来たんだろうけど…」 「アイロス様……。私、アイロス様に会いたくて……」  マリーヌは大きな瞳を潤ませて上目遣いでアイロスを見つめた。人からどう見えるか分かっているのだろう。庇護欲を誘うような目で見つめられたら、男なら心がぐらりと揺れてしまいそうだと思った。 「出ていってくれないか、ここは君が入っていい場所じゃない」 「アイロス…さま」  感情のない低い声と底冷えのするような冷たい目をしたアイロスに、マリーヌは驚いたように後退りした。 「なによ……、なんでよ……!この男は偽者でしょう!どうしてこの男がよくて私は……」 「マリーヌ、同じ事を二度言わせないで」  感情的に大きな声を出したマリーヌに対して、アイロスは恐ろしいくらい冷静で冷たかった。その凍えるような温度が恐ろしくなったのか、マリーヌは下を向いて走ってドアから飛び出して行ってしまった。  静かになった部屋に気まずい沈黙が下りてきた。マリーヌが出ていったドアを閉めたアイロスは、まだ不機嫌そうだった。 「すまないね、シリル。嫌な思いをさせた」 「いえ、俺は……別に……」  疲れが溜まっていたのか、今日のアイロスは白い肌がいっそう青白く見えた。  俺にゆっくり近づいてきたかと思ったら、ガバッと包み込むように抱きしめられた。  突然の抱擁に驚いて固まってしまった俺を、アイロスは離さないというように力を強く込めてきた。 「君を傷つける者は許さない、大丈夫だよ。俺が守ってあげるから……」  その言葉を聞いて、なぜだか妙に懐かしくて泣きそうな気持ちになった。遠い昔、誰かが同じ温かさで自分を包んでくれたことを思い出した。あの頃は大切なことだったはずなのに、忘れたい記憶と一緒に海に流してしまった。  ぼんやりとして、まだはっきり思い出せないけれど、アイロスのくれる温もりに癒されて、俺は強ばっていた体の力を抜いた。  目を閉じてアイロスの胸に顔を埋めた。やはり、懐かしくて優しい匂いがしたのだった。  □□ 「マリーヌのことは知っているわ。とっくにアイロス様にフラれているのに、諦めきれなくて付きまとっている女よ」 「そうなんだ…。でも話した通り、アイロス様には心に決めた方がいるみたいだし……。姉さんはもう別の人にした方が……」  しばらく忙しくしているふりをしながら、なんとか姉に会わないように避けていたが、今日は帰宅したら玄関に姉が待ち構えていて、ついに捕まってしまった。  色々と遅かったわねと言われて、姉の部屋に押し込まれた。 「収穫はそれだけなの?のんきに一緒に働いてるんじゃないわよ!本当、使えない男ね!」 「だっ…だから!アイロス様のタイプはつまりその、心の中にいる思い出の方で……」 「どうでもいいのよそんなの!どうせ初恋とかを引きずっているんでしょう。一緒にいて、どんな女がベッドに入っていくところを見たの?」 「ええ!?そんなことは……一度も……、お仕事はお忙しそうだし……」 「ふーん。じゃあ、夜通し遊ばれる方には見えないから、きっと溜まってるわね」 「え?溜まる?」 「性欲よ。既成事実さえ作ってしまえば何とでもなるわ。私は社交界の花なのよ、私を傷物にして弄んだなんて話になったら、いくらアイロス様でも大問題。責任を取るしかないわね」  姉の捨て身の作戦はどう考えても無謀にしか思えなかった。しかし、出会った日にいきなり口でしたければしろと言ってきたアイロスを思い出したら、俺はなにも言えなくなってしまった。  普通の人と違うところを漂っているみたいな、全く掴めない性格で、何を考えているかもほとんど分からない。アイロスについて分かったのは昔出会った女性を探していること。  そして、俺に優しくてくれるのも、その女性に似ているから。  いくら自分が特別かもしれないと願っても、それは偽物でしかない、ということだ。 「勝負は週末よ。王宮で開かれるパーティーがあるでしょう。第三王子レイズ様が留学から戻ったことを祝うパーティーだから、ご学友だったアイロス様は必ず出席されるわ」 「ああ、それだったら、俺も一緒に来て欲しいって……」 「話が早いわね。私はどうにかして、もぐり込むから、当日アイロス様を別室に一人にさせてちょうだい。今回はお尻まで見える緑のドレスを用意したわ。今度こそ、落として見せる」  姉はニヤニヤと笑いながら、長い髪を遊ぶように指ですいていた。姉と抱き合うアイロスの姿を想像して、俺の胸はきゅっと痛んだ。 「姉さん、やっぱり……俺には……」 「……なによ。怖じ気づいたの?それともなに?アイロス様に優しくされて、もしかして好きになってしまった、とか?」 「なっ!!」  姉の言葉に何を言うのかと俺は驚いた。しかし、否定しようとしたのに口から何も出てこなかった。俺が一番驚いたのは好きという言葉がすんなり胸に落ちてきたことだった。  下を見つめたまま固まってしまった俺を見て、姉はケラケラと笑った。 「やだぁー、図星だったの?シリルの初恋じゃない?可哀想に、異性愛者が相手なんて報われないわよ。あっ、またあの時みたいに着飾ってあげましょうか?可愛かったわ、あの時のシリル、あれを見たらアイロス様も少しは……」 「もうやめてくれ!」  思い出したくない過去を持ち出されて、ぞわぞわと寒気がした俺は、聞いていられなくなって姉の部屋から逃げるように飛び出した。  もうあの頃の幼くて言いなりになっていた自分ではないと思うのに、成長した今でも何一つ変わっていないように思えて、悔しくて泣きたくなった。  自分の部屋に入って頭から布団をかぶった。姉の笑い声が頭に残って離れない。アイロスの優しい匂いが恋しかったが冷たいシーツはそれに応えてくれなかった。  □□  待ち遠しいことはなかなか来てくれないのに、来てほしくないことは、あっという間にやってくる。  ついに姉が戦いを宣言していた週末のパーティーがやって来てしまった。 「ねぇ?このメイクどう?派手じゃないかしら?初恋を引きずる男だから、純粋そうなのがタイプなんでしょう?」 「さぁ……、いいんじゃない」 「アイロス様が背中がお好きだって話は有名よ。ベッドを共にした令嬢は、裸になったらすぐ背中を見せるように言われるって……。()()()の背中が好きなのね」 「………………」  馬車の中、姉と二人の空間は息がつまりそうだ。ペチャクチャと喋る姉に嫌気がさして無言になった俺を、ニヤニヤと笑いながら姉が見てきた。 「あら、シリルはタキシードで良かったの?ルーシーちゃんにしてあげたのに」 「まっ…!またそれを!」  いい加減その話題ばかり出す姉に腹が立って、俺は思い切り睨み付けた。 「おーこわ!あの頃は可愛かったのにねー。そうだ!いいことを教えてあげる。第三王子のレイズ様は男の方を好まれるらしいわよ。一晩限りのお相手でも志願してみたら?」  俺は腹が立ちすぎて、もう姉の相手はしないことにした。顔をそむけて窓の外の流れる景色を見た。今夜何が起こるのか、空の色と同じで俺の心もどんよりと曇っていた。  王宮のパーティー会場に着くと、姉は早速男性グループに囲まれた。  綺麗だ綺麗だと言われて、上機嫌で微笑んでいる。こんな場所にいたくなくて、俺はさっさと中へ入っていった。  アイロスには来て欲しいと言われていて、自分の名前を言ったらすぐに中へ入れてもらえた。誘ってもらったので、軽く挨拶だけはして帰ろうと思っていた。もともとこういった華やかな場は苦手だし、姉の戦いなんて見たくもない。協力しろとうるさかったが、無理だと言ってごまかしながら、外へ出たのだ。  会場でアイロスの姿を探すと。やはりあちらも女性に囲まれていた。両隣を争うように女性同士の戦いに火花が散っていた。とても軽く挨拶なんてできる雰囲気ではなかった。アイロスはというと、またいつもの無表情でどこか遠くを見ていた。どんなに女性が周りで争っていてもマイペースを崩さないところがアイロスらしいと、俺は離れたところでクスリと笑ってしまった。  暫くかかるかもしれないが、女性の数が少なくなったら話しかけようかと近くに置いてあったグラスを手に取った。  透き通った琥珀色の液体でたくさんの小さな泡が浮かんでいた。グラスを持ち上げてその綺麗な飲み物を見ていたら、横から視線を感じた。 「それは王宮のブドウ畑で取れたものを使ったシャンパンだよ。泡が細かくて綺麗だろう」  話しかけてきたのは背の高い男だった。ダークブロンドの髪にシャンパンみたいな琥珀色の瞳をしている。がっしりとして精悍な顔つきには自信と品の良さが滲み出ていた。  金細工が施された立派なコートを着ていて、明らかにまわりの人間とは風格が違った。 「は……はい。綺麗だと思います」  高位の貴族に失礼があったら大変なので、俺は緊張しながら言葉を選んだ。 「久々にこっちに戻ったら、こんなに可愛らしい人に出会えるなんてラッキーだな。君、名前は?」 「シリル・シャノンです」 「ああ、あのクロエの……。どうりで、目立つはずだ」 「そ……そんな、姉は華やかで美しいですが……。俺は男だし、暗くて地味ですから……」  チラリと見ると会場の真ん中で男性達を侍らせて、微笑んでいる姉の姿が見えた。ばっくりと開いた背中が見えるドレスに誰もの目が釘付けになっている。  名前を言えばすぐ姉のことが思いつくだろうというのは、もう分かっていた。 「俺は自分の価値が分からない人間は嫌いなんだ。シリルの恋人は甘い言葉もかけてくれないのか?」 「こっ…恋人なんて、そんなっ……いたこともないので」  俺がブンブンと首を振ると、男は驚いたように目を開いた。 「本当に?男も女も?」  やけにしつこいなと思いながら、はいと言うと、男はおーと言って大袈裟に頭を抱えた。 「これだからこの国の人間は奥手だとか、堅物だとか遊びがないと言われてバカにされるんだ。こんなに美味しそうなのに誰も手を出していないなんて!」 「お……美味しそう……なんですか?」  どこかの誰かが似たようなことを言っていたが、またもこんなところで言われるとは思わなかった。 「遊び慣れた連中にも飽きたからなぁ。真っ白なシリルを開発するのも面白そうだ。手垢がついていないならなおさら……」  男の手が伸びてきて、俺の髪をさらりと撫でた。そのまま頬をつたって指が下りてきて唇に触れた。アイロスと違う感触に体はビクッと揺れて離れようと後ろに下がったが、男の反対側の手が俺の腕を掴んだ。やはりアイロスと違う男の乱暴な力を感じて、抗議の声を出そうとした瞬間、背中から低くて冷静な声がかけられた。 「レイズ殿下」  いつもの冷静な声に思えたが、その一言に強いものあった。まるで、なにか感情を堪えているかのようだった。 「アイロスか。久しぶりに見ても大勢の女性に囲まれてつまらなそうな顔をしているんだから、お前は変わりないな」 「殿下もお元気そうですね。南国ナイルの気候に染まって、すっかり開放的になられたように見えます」  俺はアイロスの口から出た言葉に耳を疑った。同時にこのパーティーが何のパーティーなのか、今さら思い出したのだった。  学友らしい二人は近況について親しそうに話し出した。まさか、殿下の手を振り払うわけにもいかず、腕を掴まれたまま二人を見比べながら俺は固まるしかなかった。 「ところで、シリルを返してもらえませんか。それは俺の友人なので……」 「友人……?珍しいな、お前が誰かを気にかけるなんて」 「シリル、おいで」  拒否することなどできない。その一言に俺は縄に縛られたように体が痺れた。レイズ殿下の手が離れたので、そのまま引き寄せられるようにアイロスの隣へ移動した。 「こんなところにいて、だめだろう。すぐにおいでと伝えておいたのに」 「すいません……」  あんな女性達の戦いの中に飛び込んでいくなんて無理な話だ。しゅんとして小さくなった俺に気づいたアイロスは、頭をふわりと撫でてきて自分の方に引き寄せた。 「なんだ、お前の飼い猫ならそう言え。というか、首輪をつけておけ。本人はよく分かってないぞ」  親密そうな雰囲気を勘違いしたのか、レイズ殿下は変なことを言い出したので、俺はぽかんとしながら、レイズ殿下の顔をまじまじと見てしまった。 「私達はこれで、お気遣いありがとうございます」  レイズ殿下の問いには答えず、はぐらかすようにアイロスは俺の手を引いてその場から歩き出した。 「……シリル、殿下の顔をあんなに見てはいけないよ」 「あっ……そうですね。失礼でしたよね。俺、全然考えてなくて……」 「シリルが見ていいのは俺だけだ……。他の者を見てはいけない。たとえ殿下であっても」 「は……はい」  会場の端まで連れてこられて、アイロスにサラリと、とんでもないことを言われたが、俺は拒否することなく受け入れてしまった。  すでに芽生えていた好意が、その独占欲みたいなものを嬉しいと感じてしまった。もっと求めてほしいという言葉が出そうになって必死で飲み込んだ。  もう自分をごまかすことなどできない。この気持ちの意味は分かっている。俺はとっくに、その目に捕らわれてしまった。  心はアイロスに落ちていた。ずっとずっと深くに、落ちてしまった。  なにも映ることなどないような、紫の瞳を見つめながら、俺はもう引き返せないのだとようやく気がついたのだった。  パーティーは和やかに進んで、誰もが楽しんでいるように見えた。  俺はアイロスの側を離れることを許されず、ずっと隣に突っ立っていた。  アイロスのところには様々な人が挨拶に来るので、もちろん誰だかさっぱり分からない俺は、大人しくそのやり取りを見ているだけだった。  しかし、アイロスの隣にいる男として、令嬢達には完全に目をつけられてしまい、あれは誰なのという声があちらこちらから聞こえ、鋭い視線が絶えず飛んで来た。  しばらくして、トイレに行くためにアイロスの側から離れて一人で歩いていると、お怒り顔のクロエが近づいてきた。 「ちょっと!シリル!あなた、全然アイロス様を一人にしてくれないじゃない!なんであんたがずっと引っ付いてんのよ!」 「今日は仕事関係の方が多く来ているから、アイロス様は忙しいんだよ。それに……俺はもう、協力できない……」 「シリル……あなた……」 「認めるよ。アイロス様に優しくしてもらって、俺……好きになってしまったんだ。だから、姉さんにはもう協力できない……ごめん」  俺は自分の気持ちを素直に姉に伝えた。命令されたとはいえ、引き受けたうえにある程度は協力していたのだから、姉にはちゃんと断る必要があった。 「……本当バカね。自分が好きになってどうするのよ。恋ってもんは相手を夢中にさせた方が勝ちなのよ」 「俺は姉さんみたいに器用じゃないし」 「言っておくけど、弟だからと言って手加減しないわよ!アイロス様にシリルは私の言いなりだったって話してやるわ。それに、きっと前は気分が乗らなかったのよ。今日こそは、きっと私の誘いに乗ってくれるはず」  自信たっぷりなクロエの微笑みに俺はなにも言い返すことができなかった。  姉の言うとおり、単純に前に会ったときは気持ちが乗らなかっただけだったとしたら。  無言で後退りした俺は会場に戻るとアイロスを探して走り出した。小さな不安が折り重なって、俺の心を重く押していた。早くアイロスの顔が見たかった。優しい微笑みが欲しかった。  しかし俺の目に飛び込んできたのは、令嬢とダンスを踊るアイロスの姿だった。  その姿を見たら、足はピタリと止まって動かなくなった。なぜなら、アイロスが一緒に踊っている令嬢は、サラサラとした長い金髪をなびかせた、新緑のような美しい緑色の瞳の女性だったのだ。 「……もしかして、あれは……」 「思い出の女……、かもしれないわね」  唖然として立ちすくんでいる俺の隣に来て、話しかけてきたのは先日屋敷で会ったマリーヌだった。 「可哀想に……、あなたも本気になってしまったのね。アイロス様は気まぐれなお方よ。あの子が思い出の女でなくとも、次のお気に入りね。これであなたの場所はなくなったわ。もう用済みってやつね」 「そ……そんな………」  足元ががらがらと音を立てて崩れていくようだった。あの自分に向けられた優しさも独占欲も全て次の令嬢へ向けられてしまう。  思わず手が伸びて、今すぐアイロスと令嬢を引き離してしまいたくなった。  伸ばしかけた手はガタガタと震えながらそれ以上伸ばすことはなく、虚しく力が抜けて床に向かって落ちていった。  足元にも力が入らなくて崩れ落ちてしまいそうなのを、俺は必死に堪えて立っていた。  とにかく冷静になろうと、ちょうど運ばれてきたグラスを一つもらって、中の水をいっきに飲み干した。 「んっっ!!げっほっ…!!なっ何これ!?」  ごくごくと喉の奥に落ちてから、その液体の熱さに気がついて俺はゴホゴホと咳き込んだ。 「何って……、白ワインじゃない。大して強くないやつよ。お酒弱いの?」 「おっ…お酒!?お酒って……、俺、飲んだことなくて……」 「えっ……、ちょっと、大丈夫?顔すごく赤いわよ……。え?今飲んだばかりよね?」  両親も姉もお酒を飲まないので家には一切そういうものが置いていなかった。そういえば父がうちの家系は体質的にだめだと言っていたのを思い出した。姉がお酒が入ったお菓子を食べて気分が悪くて倒れたという話も思い出したが、もう今さら遅かった。  咳き込んだ時に少しだけ戻ってきたものが口から出てしまい、着ていたシャツは前がびしょびしょになってしまった。  服から漂ってくるアルコールの匂いだけで、余計にくらくらとして倒れそうになった。  ふっと意識が遠くなって床に膝をついたところで、ぐっと腕を掴まれて誰かに支えられた。 「マリーヌ、あれだけ言っても懲りないね。シリルになにをしたの?」  ずきずきと痛みだした頭にアイロスの声が響いてきて、まるで幻聴のようだった。 「やっ…誤解です!私は今日は何も……この人が勝手に……」 「そ……そうで……。俺が、勝手に……水と間違えて……ワインを……。お酒……飲んだこと……なく…て……」  はぁはぁと息を吐きながら、ぼやけていく視界に浮かんできたアイロスの姿に俺は必死に話しかけた。 「シリル、とにかく横になれるところへ行こう。体に合わないなら少し吐いた方がいい」  令嬢と踊っていたはずのアイロスが自分を支えてくれていることが信じられなかった。マリーヌの言うとおり用済みであるなら、こんな風に優しくしてはくれないだろうと淡い期待が生まれてきたが、込み上げてくる吐き気がそんな意識を散らしてしまった。  俺はアイロスに支えられながらトイレに行って、とりあえず吐けるだけは吐き出した。少し楽になったが、足元は相変わらずフラついて力が入らなくて、またアイロスに支えながら歩いて、急遽、用意してもらった休憩室に連れてこられた。 「ほら横になって。タイを外すから、シャツも新しいものを用意させよう。これはもう着れないから」 「すみま……せ…ん。アイロスさ……まに、迷惑かけるなんて……」  シュルリと音を立ててタイが外された。続いてシャツのボタンが開かれていき、首もとが開いたので呼吸が楽になった。 「前も言ったよね。シリルには初めて会った気がしないって。シリルは、昔一度だけで会ったことがある少女に似ているんだ。つい面影を重ねてしまう……」  アイロスからはっきり聞いていなかったが、その内容から思い出の女性のことだと分かった。やはり、自分はよく似ているのだと、改めて言われると複雑な気持ちになった。 「その子は俺の最初のお友達だった。ずっと想ってきたのに……、最近は彼女の思い出がぼんやりとかすんでしまうんだ。その代わり、いつも思い出すのは君のことばかりなんだよ、シリル」 「俺……ですか?」 「ああ、君が近くにいてくれるととても心地いい。離れていると不安になる。ずっと手元に置いて君の笑顔を独り占めしたいと、そんな気持ちが生まれてきた……」 「アイロス…様……」 「……シリル、俺だけのものになって」  長椅子に寝ている俺の顔の前に、アイロスの顔があったら。しかし、いつもの無表情でなく、紫の瞳には欲情の火が灯り焦げてしまいそうな強いものになっていた。 「アイロス様……、俺の心はとっくにあなたのものです。あなただけの……」  続きの言葉は言えなかった。待つことなど出来ないという風に、アイロスの唇が降ってきて俺の口をふさいだ。  柔らかな感触を堪能するように重ね合わされた後、すぐに舌をねじ込まれて俺の口内にアイロスは侵入してきた。舌を絡ませたと思ったら歯肉の裏まで舐められて舌ごとじゅばじゅばと吸われた。初めてのキスでこんな翻弄されるような濃厚なものをされて、落ち着いていた酔いがまた一気に上がった。  アイロスの全て食らいつくすようなキスに俺は必死で応えた。時々、唇を離して見つめ合いながら息をすることも忘れて、長い口づけは続いた。 「はぁはぁ…はぁ…アイロスさ…ま……苦しい……息が……できなくて……」 「可愛いね、シリル。息は鼻でしていいんだよ。俺もキスはほとんどしない。他のやつは気持ちが悪いから。シリルは気持ちいいよ。興奮しすぎて痛いくらいだ」  そう言ってアイロスは俺の上にのし掛かってきて、欲望を押し付けるように俺の股間に当ててきた。 「す……すごい、硬くなって……」 「シリルも同じだよ。ほら先走りまで出てきている」  いつの間にか下着をくつろげられて、俺のものを取り出された。アイロスとのキスですっかり熱をもって硬くなり立ち上がっていた。 「あ……熱い……アイロスさ……ま……」  自分のものをアイロスに握られるなんて、信じられない光景で、手で擦られるだけでぐんぐんと熱が高まっていった。 「シリルは初めてだよね。ここだと準備がたりないから……、今日は入れないで気持ちよくなろう」 「んっ………」  アイロスも下着をくつろげて、自分の欲望を取り出した。上品な容姿からは想像も出来ない大きさと、反り返るくらい立ち上がったそれは卑猥な形に見えた。  大量に漏れてしまった俺の先走り指ですくって自分のものに塗り込むと、アイロスは俺の足を閉じてぐっと持ち上げてきた。  そして、その間に欲望をねじ込んできた。俺のものと一緒に擦れて、あまりの気持ち良さに俺は出てくる声を抑えることができなかった。 「あっ…くくっ…………」 「シリル……声我慢しないで……いいんだよ。シリルの可愛い声を聞かせて」 「はっ…ああっ……んんあんあ……、アイロ……さ…ぁ……、気持ち……いい……よぉ……」  頭の上から爪先まで、快感で支配されていく。気持ちよすぎて高ぶった感情に涙が流れ、口の端しから涎まで出てきてひどい状態だったが、それをアイロスに愛しそう全て舐められてしまった。驚きとか恥ずかしさとか感情がぐちゃぐちゃになって、頭も体もとろとろに溶けていった。 「アイロスさ……ま……、はぁはぁ…も……だめ……俺…だめ……ああっぁ……、も……きちゃう……」 「ああ……俺も……出そうだ……シリル、いいよ……たくさんイッてごらん」  アイロスは腰の動きを速めて、お互いのものはいっそう激しく擦り合った。  そのたまらない快感に俺のものは弾けるようにビクビクと揺れて白濁を大量に撒き散らして達した。 「あぅぁぁ……、んん………うぅぅ……」 「くっ………」  俺がイッた後に詰めた声出してアイロスも達した。大きな欲望はドクドクと揺れて、俺が放った白濁の上に、アイロスの放ったものが混じって広がった。濃厚な雄の匂いと気だるい余韻に浸って俺はぼんやりとアイロスの瞳を見つめた。  そんな俺を見てアイロスはクスリと笑って俺の目の上にキスを落とした。 「シリル……可愛かったよ。たくさん汚れてしまったね。シャツを脱いで、着替えよう」 「んっ…」  意識がとろとろになって力が入らなくなってしまった俺は、アイロスに綺麗に拭われながら、シャツを脱がされた。  気だるさが押し寄せてきて、なんとか保とうと思う気持ちと、手放してしまえという誘惑に視界はぼんやりとかすみ始めていた。  されるがままに上半身を持ち上げられて、背中を拭こうと後ろに回ったアイロスが驚きで息を強く吸い込んだような音がした。 「こっ……これは………」  アイロスの声は今まで聞いたことがないくらい、驚きの感情が詰まった声だった。もう半分暗くなってしまった視界ではアイロスの顔を見ることはできなかった。すぐに真っ暗になって意識を手放したとき、現実と夢の間でアイロスの声が聞こえた気がした。 「ルーシー………」  遠い昔に姉に名付けられたそれは、アイロスが知るはずもない。  かつてそう呼ばれたときの淡い記憶がバラの香りと共によみがえってきたのだった。  □□□
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

310人が本棚に入れています
本棚に追加