心象スケッチ

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「つまらん」  清衡(きよひら)の一言に、写経をしていた僧侶らはもちろん、つまらんと言われた当の絵師は一瞬で胆が冷えた。この北の王者にして彼らの雇い主の不興を買ってしまったのだろうか。  江刺の益沢院。ここでは清衡の発願による紺地金銀交書一切経の写経事業の一部が行われていた。  奥羽(東北地方)の新しい支配者となった藤原清衡は、長く戦乱と都の圧迫の下にあったこの地を安寧に満ちた仏の国、仏国土にしたいとさまざまな事業を行っていた。そのうち一つが、金と銀の泥を墨替わりにして写経する紺地金銀交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)の制作である。  清衡は数年前に奥羽統治の拠点を平泉に移していたが、その前に拠点としていた江刺地域を今も大事にしており、写経事業の一部もこの地で行っていた。  写経には経文を書く僧侶たちだけでなく、経典の巻物の表紙に描く絵、見返し部分に描くため見返絵を描く者も必要だ。清衡はその下絵を描かせるために都から絵師を呼んでいた。 「絵の腕に覚えがある者ならば、どのような者でも良い。自由に仏の慈悲を功徳を描いてほしい」  呼びかけに応じて奥州に下向してきたのは、比較的若手で技術はあるが、都の上流貴族お抱えの著明で権勢もある古参絵師たちの下に押さえつけられ泣かず飛ばずとなっている者が主だった。蝦夷の地と言われる奥羽は都人にとってまだまだ恐ろしげな地であったが、これらの若手絵師たちは清衡が示した条件の良さと、自由にやって良いという言葉に惹かれてはるばるやってきた。ここなら都のしがらみもなく、己の才を発揮できると思ったのだろう。  清衡に「つまらん」と言われた若い絵師もまさしくその一人であった。都では高名な絵師の数ある弟子の一人であったが、上流貴族たちとツテのある者ばかりに仕事が来る。もしその慣習を破って自分を売り込みに行けば、たちまち仲間たちから潰されるという身動きの取れない都からこの平泉という新しい地に活路を求めてやってきた。 「……あ、あの御館(みたち)様(清衡)。なにかお気に召しませんでしたでしょうか。では、どのような絵をご所望でありますか?」  絵師が都にいた頃、師としていた老いた絵師は名だたる大寺院の写経事業において見返絵を描いた男であった。絵師はそれらの見返絵の模写を手本に必死に学んできた。  経典の見返絵はだいたいの型が決まっている。極楽浄土の様子や仏の功徳を伝える場面を描き、後はそこに絵師の技を如何に生かし完璧な出来にするかが問われる。  この絵師もちょうど釈迦が衆生に説法をする絵を描いているところであった。  都で培った技術をこの北の辺境の地で行われる写経にぶつけようと思った。蛮族蝦夷の地と言われるこの地に都の優れた美を移植して名をあげたいと思った。苦言を呈された時の恐れが去ると、やはり蝦夷の地の者には都の絵の素晴らしさがわからないのかという考えさえ浮かんでくる。 「そうだな、例えば……」  清衡は下書き用の筆と紙を取るとなにやらサラサラと描きはじめる。絵師は完成した絵を見てしばらく考えこんでから言った。 「なるほど。衆生が仏にひれ伏している場面ですか」 「いや、猟師が鹿狩りをしている場面だ」 「………………」 「………………」 「………………申しわけありません」 「いや、良い。私に絵の才が全く無いことはわかったであろう」 「………はあ………」  絵師はなんとか頭を捻って清衡が描いたものを考えたが、教えてもらわねばそれが狩猟の場面だとはわからない。いや、教えてもらってもあちこちに線が飛び交うこの絵が狩猟の場面だと納得するのは困難であったが。 「し、しかし、経典の見返絵に狩猟の絵を用いるなど……」  仏の教えは殺生を禁じている。それは獣に対しても同様。そうだというのにまさしく獣を殺している場面を経典の見返絵に用いるとは。 「都人よ。私も開墾事業を進めているが、この奥羽の地は寒く作物が育ちにくい。民は生きていくために獣を狩りその肉を食せねばならぬ、その毛皮を剥いで冬を生き延びねばならぬ。私たちもまたこの奥羽のさらに北、蝦夷ヶ島(北海道)に住む民から海豹の皮や鷲の尾羽を買うことで、かの地での獣の殺生に加担している。しかしその北の富が無ければこの地は豊かにはならぬし、それを都に送らねば朝廷の不興を買いこの地の安寧はなくなる」  絵師は黙って清衡の言葉を聞いていた。この北の主が自分のような絵師に諭すように語りかけてくれている。 「奥羽の民は仏が禁じる殺生の罪障を負っている。では、それゆえに彼らは仏から救済されぬであろうか。いや、私は仏の慈悲は限り無いと信じる。仏は殺生の罪を犯して生きる者をも救済するであろう。その仏の慈悲深さを表すために、あえて経典の絵に狩猟の場面を描くことも私は良いと考えている」 「で、では御館様は私にそのような絵をお望みで」 「いや、そうではない。今描いて見せたのはあくまで一例だ。私であればこれを描くだろう。狩猟は奥羽の民の大切な生業だ。そしてそれが赦されることを。あるいは他の奥羽の風俗の絵も描くかもしれない。なんにしろこの写経は戦乱に苦しんだこの奥羽の民の救済のためのもの。奥羽の地にふさわしい経典にしたいと思う。だが……」  清衡はいったん言葉を切って続けた。 「私がこういうふうに、こういうものを描けと言えば、絵師たちは今度はそれに合わせようとするだろう。……そなた、私が最初に何と言って呼びかけた覚えておるか」 「……はい、“自由に仏を描け”と……」  そこまで言って絵師は黙り込んだ。やっと気がついた、それが清衡の望むすべてであった。
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