あちさん

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ

あちさん

あちさん  ―他所の人を指す幼児語。他所様。 高3の夏休みの話だ。 その日、俺は実家に帰省していた姉貴んとこの子供―当時1歳ちょいだった甥っ子を連れて散歩に出てたんだ。 小さい子どもってのはとにかくエネルギッシュなもんで、まだ言葉を覚えたての甥っ子もそうだった。 8月中旬。クソ暑いってのに、涼しい部屋で何か食ったり、アニメを見たりするよりも外へ出て遊びたがるんだよ。 勿論父さんや母さんは、 「こんな暑いってのに。」 ってノーサインを出したし、2人目を妊娠中だった姉貴も、姉貴の旦那さんも 「お部屋で遊ぼうか?」 と言うけど甥っ子は引き下がらない。 外に行くって、終いには癇癪を起こして大暴れしだすもんだから、俺が付き添うことになったんだ。 夕方の6時くらいだったかな? 若干日が陰りはじめたころだったけど、蝉の鳴き声は煩いし、まだ明るいしって感じで暑いのには変わらなかった。 受験勉強疲れもあって俺はげんなりしてたけど、甥っ子は元気だったなぁ。 お気に入りの赤いミニカーまで持っていくとかって言ってさ。 まぁ、結局ミニカーは持っていかなかったんだけど、水筒だとか帽子だとか、あとは、ほんの少しの小銭を持って俺達は散歩を始めたんだ。 家の裏の土手を抜けて、2件並んだ和菓子屋の前を通り過ぎて、踏切を渡った。 甥っ子に合わせてだから、速歩きになったり、のんびり歩いたりと、かなりちぐはぐなペースだったけど、時間が過ぎていくのは速かったように思う。 甥っ子にとっては視界に入るもの全てが好奇心をそそるらしく、終始はしゃぎっぱなしだった。 特に、あれだ。 赤いものに対する反応は凄まじかった。 停車してた赤の軽自動車、家庭菜園が趣味ですって感じの家のミニトマト、いちご狩り案内の看板。 赤いものには全て触りたがった。 まぁ、例のミニカーも赤だったし、赤がすきだったんだよな。 ただ俺はめちゃめちゃ大変だった。 「これあちさんのぶーぶだからねーさわれないんだよー」 「とまとさんまだたべられないからねー」 「いちごさんないないー」 とかっていちいちエネルギーの有り余る1歳児を止めないとだったから。 甥っ子はいちいち駄々をこねたけど、別の物を見つければたちまちそちらへ注意をそらした。 その路地へ入ったのも、何か見つけたからだったんだと思う。 古い家がぽつぽつと並んで、あとは草むらみたいになった空き地と、木ばかりの道だった。 ()の葉が丁度良く日陰を作っていたおかげか、随分と涼しかったな。 「にぃに」 そんとき、甥っ子が急に立ち止まったんだよ。で、目の前の空き家を指指してたんだ。 またかー。と思って今にも玄関の引き戸に手をかけようとする甥っ子を止めた。 「ここ、あちさんのうちだからねー。 入れないんだよー」 そしたらさ、急にふっと辺りが暗くなったんだ。 何か嫌な予感がした。 甥っ子は静かに黙って、ただ玄関を指差したままじーっと見つめていた。 その家の玄関は一部がいわゆるすりガラスってやつで、うっすらとだけど中が見える感じの引き戸だったんだ。 でも、それははっきり見えた。 すりガラスの奥に揺れるワンピース。 真っ赤な裾に被さるように伸びた黒い髪の毛。 背の高い女のシルエットが、ガラス1枚挟んだ目の前に映っていて、それの口が、裂けんばかりに大きく、大きく開かれている。 明らかに人間じゃなかった。 やばい。そう思った。 このままここにいたら、確実に大変なことになる。 逃げないと、そう思ったけど動けなかった。 そしたら、甥っ子が一言言ったんだ。 「あちさん?」 気づいた時には甥っ子脇に抱えて全力ダッシュしてたよ。 もう何が何だか分かんなかったけどさ。 多分あん時、人生最高速度で走ったんじゃないかな、俺。 とまぁ、こんなことがあったわけだ。 10年経った今でも忘れられない体験。 そうだ、ついでに後日談を聞いてほしい。 あのあとすぐ、姉貴の家に行く用事があって甥っ子にも会ってきたんだ。相変わらずはしゃぎまわってて、お義兄さんが部屋へ連れてったけど。 で、リビングで姉貴と2人喋ってたんだ。そしたらふと甥っ子のお絵かき帳を見せられた。 「ちょっとこれみてほしいんだけどさ…」 開かれたそこには、ページいっぱいに赤いワンピースを着た髪の長い女が描かれてた。 べったりとしたクレヨンの発色が思い起こさせる、忘れもしない、あの日の化物。 一瞬呼吸が止まって、何も言えなかった。 「なーんか、気味悪いよね。子供は影響受けやすいって言うけど、心霊番組見せたわけでもないし?」 絵の中の女の口は裂けんばかりに大きく、大きく笑みを浮かべていた。 口の中から黒く、絡み付くような闇がこちらを見つめている。 俺がでかいと思っていた口は、 笑ってたんだ。 甥っ子には、そう見えていたんだ。 結局その絵は俺が持って帰って、燃やした。 存在させておくには恐ろしすぎたんだよな。 あれから10年経って、甥っ子は小学生になったけどこの話は一度もしていない。 勿論、覚えてなんかいないと思う。 だからこちらからあの話を振るつもりはなもい。 俺も地元で結婚して、今では父親になった。 だけど、妻にもこの話はしていない。 息子は丁度あん時の甥っ子と同じくらいの年で、いろんな物に興味を示す。 勿論、よその人の物にも。 そしたら妻はこう言って子供を止める。 「こーらー、これあちさんのでしょー!」 地元が同じだから仕方ないんだけど、これを聞くと今でもたまらなく怖いんだよね。 【完】
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!