夏の記憶

3/3
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ
 六回表、一死三塁のチャンスを北潮高校は生かせなかった。九番矢川が三振。先頭に戻って一番の川口がライトフライに倒れて、六回の北潮のスコアボードにゼロが入る。  北潮高校の応援団と生徒が着座し、ピンチを乗り越えた陽大苫小牧の応援席が入れ替わりに活気づく。円山球場のマウンドに、かつて隆志がつけていたのと同じ北潮高校の背番号一番をつけたエースが上がって、投球練習を行っている。 「六回で三点差か。隆志、これ、マジ勝てるかなあ。俺、夏休みは北潮の応援に甲子園に行こうかと思って、予定空けてるんだけど」 「……いや、まだわからんだろ。三点くらい、ランナー出たら余裕で取られるって」  実際、これまで陽苫打線を一点に抑えていた北潮のエースが、七回になって掴まった。一死から三連打を浴びて一失点。その後押し出しでさらに一点を失い、得点差は四対三、あっという間に点差が一点に縮まり、一塁側陽大苫小牧応援席のチアリーディングがさらにキレキレになっている。  隆志と瑞樹が卒業した年も、まだ新型コロナウィルスは流行していた。しかも変異ウィルスとやらの影響でさらに状況は深刻だった気がするのだが、この年は高野連が意地と根性を見せたらしい。春の選抜も夏の選手権も開催されたので、結果的に、隆志達の代が最も割を食った世代となった。そしてワクチンが行き渡り、治療薬も一般化した今年、全校応援もブラスバンド応援も復活した球場で、二年ぶりに有観客での南北海道大会が開催されている。  ――悔しいよな。俺たちはてっぺん取ったんだ。何で俺たちが甲子園に行けないんだ。  不意に、夏の大会が終わった後、学校に戻った後のグラウンドで監督が吐き捨てた言葉を思い出した。  優勝して学校に帰るバスの中はほぼ通夜状態だったし、学校に戻って三年生達が部室の私物を片付け始めた時も、一、二年生達は三年生にかける言葉が見つからなかったらしい。通夜状態が告別式の出棺前状態になったあたりで、監督がグラウンドに全員集合をかけた。全部員一八四名が勢ぞろいした野球部専用グラウンドで、北海道の名門・北潮高校野球部監督は、手放しで泣いていた。 「俺は悔しい。お前らだって悔しいだろう?俺たちはてっぺん取ったんだ。なのに何で俺たちが甲子園に行けないんだよ!」  当時、既に周囲の大人に対して結構冷めた目の持ち主だった隆志は、監督のこの振る舞いをパフォーマンスだと思った。いや、丸二年たった今でもあれは確実にパフォーマンスだと思っているのだが、この時、監督の頬を伝って落ちた涙だけは、もしかしたら正真正銘の本物だったのではないかと密かに疑っている。  一八四名全員が声もなく立ちすくんでいる中で、突然、隆志の斜め前にいた選手が悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。背番号十番、外野の控え選手であり、北潮高校野球部主将の三沢浩介だ。北潮以外ならば即レギュラーだったろうが、結局、三沢は三年間一度も一桁代の背番号を付けられなかった。それでも時に真面目に時にユーモアも交え、気配りのきく性格が監督やチームメイトからの信頼厚く、キャプテンに指名されてからは主に伝令役として、部員百五十名を超える名門野球部をしっかりとまとめ上げていた。 「――浩介、お前の気持ちはみんなわかってる。わかってるから」  サードのレギュラーで、三沢と仲の良い橋下がキャプテンの肩を抱いて慰めている。そういえば、こいつらも小学校からのチームメイトだった。北潮高校野球部主将は独自大会前、北海道新聞やら北海道テレビやらあちこちのメディアから取材を受けて、代替大会の開催に感謝する、開催してくれたすべての人に感謝して全力を尽くすと言っていた。他にもうどうしようもないからそう言っていたのだと、本当に心の底から感謝していたのではないのだと、隆志は号泣する三沢の姿を見て初めて悟った。 「隆志……」  すぐ隣にいた瑞樹が、隆志の名を呼ぶ。これまで隆志に対してでさえ、あまり感情を露にしてこなかった瑞樹の目が赤く染まっているのを見て、隆志は自分もまた泣いていることに気がついた。  その後しばらく、北潮高校野球部三年全員で、肩を寄せ合い泣き合った。少し後ろから見ている一、二年生の中にも、もらい泣きしている者がいるらしい。すすり泣く声と泣き叫ぶ声が響くグラウンドを、夏の遅い夕暮れが茜色に染め上げて行く。  優勝の歓喜の涙ではなく。負けた後の悔しさの涙でもなく。ただ運命とやらに翻弄された隆志達の高校三年の夏は、こうして終わりを告げたのだった。  四対三、北潮高校一点リードで迎えた九回の裏、陽大苫小牧の攻撃。二死走者なしから六番打者が、センター前ヒットで塁に出た。同点の走者に陽大苫小牧の応援席は沸きに沸き、北潮のベンチからは伝令が走る。今年、北潮高校の背番号一番を付けているのは、隆志が三年生の時の一年生であり、夏の大会で控え投手としてベンチ入りしていた。いい投手ではあるのだが、制球難で自滅する癖のあった後輩は今ではすっかり貫禄ある北潮高校のエースとして、チームを決勝戦まで導いて来た。  九回裏二死一塁。カウントツーボールワンストライクからの四球目。陽大苫小牧のバッターの打球は北海道の真夏の空に高々と打ちあがった。  センターが落下点に入って手を上げる。ライトがその背後にカバーに入り、バットを投げ捨てた打者走者が激しく首を振りながら一塁ベースに向けて疾走している。  甲子園に魔物が住んでいるように、北海道高校球児の憧れの場所である円山球場にも時々、魔物が降臨することがあるという。しかし今この時、魔物は目を覚まさなかった。いきなり突拍子もない神風が吹くこともなく、打ち上げられた打球は野球の教科書に載せたくなるようなセンターフライの軌道を描いて、待ち構える背番号八番のグラブにきっちりと落下した。  ――羨ましいな。  歓喜に沸くグラウンドを見下ろしながら、今、心の底からそう思う。  羨ましいという感情は、他者を己と同じところに引きずり落としたいと願う嫉妬と直結するものではない。現実にあの年、冬にはバレー部とサッカー部の全国大会は通常通り開催されたし、隆志にはバレー部とサッカー部の友人が何人かいたが、自分たちが甲子園に出られなかったのに、何故お前たちには全国大会があるのだと妬む気はまったく起こらなかった。むしろ自分が行けなかった全国大会を目指すことのできる友人を心の底から応援できたので、俺はもしかして自分が思っている以上に性格の良いできた奴だったのかと口に出して言ってみて、瑞樹にお前の場合は単なる馬鹿だと頭を叩かれたのも、今となってはいい思い出だ。 「隆志、お前にはまだあるだろ、甲子園で投げる機会。今はパリーグだって交流戦で甲子園に行くんだし」  優勝の余韻に浸る後輩達を見る瑞樹の目に光るものがある。大学一年の昨年、隆志はリーグ戦で好成績を残し、大学日本代表のメンバーに選ばれた。まだこの先どうなるかはわからないが、可能であれば野球で行けるところまで行ってみたいという思いはある。 「お前だって可能性あるだろう。いつか監督になって甲子園に行けよ」  瑞樹は高校卒業後、大学で教職課程にいる。将来の目標は高校野球の監督だ。瑞樹だって北潮で背番号二番をつけていたのだから先を目指すことも可能だったろうが、本人はそれほど選手に執着を持たず、今は大学の準硬式野球部で楽しみ程度に野球を続けている。  未来はある。夢を失くしたわけではない。だけどそれでもどうしても考えてしまう。あの夏、あのチームで甲子園に行きたかった。コロナさえなければ、甲子園さえやってくれたなら、俺たちの夏はまだ続いていたはずだったのに――と。  だから、どうか……と北海道の澄んだ夏空に向かって祈ってみる。どうか俺たちと同じ思いをする高校球児が、もう二度と現れないように。歓喜と悔恨の以外の涙が、グラウウンドに染みわたることがないように。  祈りと共に、隆志は今、自分の夏の記憶が過去となって通り過ぎて行くのを感じていた。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!