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第80話 終章 鳩は死神刑事を解毒する(前)
「よかった、じゃあしばらくの間、親子で暮らせることになったんですね」
沙衣がほっとしたように表情を崩すと、長戸は「お蔭様で」と頭を下げた。
「もう蛇もいなくなりましたし、あのマンションにいる理由はありません。これから娘と今まで勝手に描いていた互いのイメージを修正しながら、家族としての時間を取り戻していきたいと思います」
長戸はキッチンでお茶を入れている理花の方を見遣ると、満足げに目を細めた。以前のマンションより一回り小さなリビングは、気のせいかとても居心地がいいように思われた。
「今回の事件では、あまりに多くの人たちが犠牲になりました。私たち親子だけがこうして無事でいることは正直、心苦しくもあります」
長戸が言うと、沙衣が急に厳しい表情になり「それは違うと思います」と言った。
「連続殺人鬼『ヒュドラ』は、もういなくなりました。大垣と紅蘭一味が逮捕されたことで、事件は終了したんです。長戸さんは理花さんが無事だったことを喜んでいいんです」
「そう言ってもらえると気が楽です……」
長戸がため息をついて首を垂れると、紅茶とケーキの乗ったトレイを手に理花が姿を現した。
「刑事さん、私、こう思うんです。この事件は結局、『ヒュドラ』と『エキドナ』という親子の怪物が互いを疎んじたために起きた悲劇じゃないかって」
「親子?」
「はい。神話では『エキドナ』は『ヒュドラ』の母親なんです。今回の事件ではまず、『エキドナ』が紅蘭に取り憑いて人々を支配しようとしました。『ヒュドラ』は現世の人間にまで手を伸ばそうとする母親に罰を与えようと、朔美さんの憎しみを利用してこっちに来たんじゃないか――そんな気がするんです」
「つまり、母親の企みを知った『ヒュドラ』があなたを利用して『エキドナ』を殺させようとした……そういうことですか?」
「ええ。そして『ヒュドラ』に脅威を覚えた母親の『エキドナ』も、刑事さんたちを利用して娘を抹殺しようとした……その結果、『エキドナ』も『ヒュドラ』も闇に還ることになったんだと思います」
「なるほど、冥界に棲む母子の怪物が、現世の人々を闇色の企みに巻き込んだってことか」
「だから怪物たちがいなくなった今、私たちは全ての憎悪をを忘れるべきだと思うんです」
俺は晴れやかな理花の表情を見て、うなずいた。過去の事件も、殺し屋や毒のはびこる世界も蛇たちがどこかへ運び去ってしまった。そういうことなのだろう。
「あ、どうぞ冷めないうちに飲んでください。私、家事も料理も何もしない人だったんですけど、父と暮らすようになってからは多少、おもてなしもできるようになったんですよ」
そう言って理花が笑うと、「とてもそんな風には見えないわ。私より全然、家庭的よ」と沙衣が言った。
「いいんだよ、刑事は家庭的じゃなくたって。しょっちゅう死ぬような仕事なんだから」
「それはあなただけでしょ、カロン」
沙衣が冷たく返すと、部屋に小さな笑い声が響いた。俺は浮かばれない魂を成仏させるのもいいが、こうして生きている人間の幸せを見るのも悪くないな、と柄にもなく思った。
(終章 鳩は死神刑事を解毒する(後)に続く)
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