午後一時のカフェ

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 イメチェン……?  観葉植物の向こうに見えた彼の姿に、俺は口へ運びかけていたミニトマトを落としてしまった。  会社と同じビルの一階にあるカフェ。時刻は午後一時。  水曜は毎週ここで彼を見かける。  きっかけは俺がテーブルにIDカードを置き忘れたのを、彼が気づいて追いかけてきてくれたことだった。  会社のIDカードはなくすととても大変だ。オートロックのドアが開けられなくなるし、再発行には面倒な手続きがいる。当然、上司にも怒られる。三〇過ぎた男がしかられるのは惨めだ。  彼のお陰でその憂き目に遭わずに済み、あれから二か月。彼とはこの店で目が合ったら会釈するようになった。同じテーブルを囲う仲じゃない。  けれども俺は彼に好感を持っていた。  IDカードを拾ってもらったこともあるけれど、なんだろう、彼の柔らかな物腰や、ちょっとさえない好青年ぶりが好きだ。  食事のあとテーブルで本を読んでいて、ついひとりで笑ってしまったり、のめり込むと本と顔の距離が近くなるところなんかもいい。  そのくせ連れがいる時は、ぴんとした背筋とにこやかな顔を崩さなくて。  きっと会社ではそれなりにできるヤツなんだろう。  俺は離れた席にノートPCを広げ、彼をそんなふうに観察していた。  その彼が今日はどういうわけか、イメチェンしてきている。  無造作ヘアだった黒髪が、ワックスでまとめられている。着るものだっていかにも量販店のスーツだったのが、小洒落たチェックのジャケットと茶のパンツに変わっていた。  一体どうしたんだろう?  俺はサラダのミニトマトをフォークに刺し直し、口に運ぶ。  今日は何か特別な日なんだろうか。大事なプレゼンとか?  それにしてはやや服装がカジュアルだ。プレゼンというよりデート?  デート……ってことは恋人がいたのか? それとも恋人ができた?  あの服は彼女が見立てたものなのかもしれない。  口の中でミニトマトが弾け、突き抜けるような酸味が広がった。  もう一度彼を見る。目が合ってしまった。  彼がテーブルの間をこちらへ歩いてくるところだった。座るのはいつもの席じゃないのか。  それだけのことに俺は動揺する。  絡み合ってしまった視線はほどけない。  どうして? 俺が観察していたことに気づいてしまったんだろうか。 「あれ、今日はデートか何かですか?」  そばまで来た彼に何か言おうとして、思ったことをそのまま口にしてしまった。 「えっ? デート?」  彼が足を止めた。 「だってその……いつもと違うから」  ああ。これじゃあ「いつも見てます」って言っているようなものだ。飲み込んだはずのミニトマトが歯茎に染みる。冷めたコーヒーで洗い流した。  彼はなんとも言えない渋い顔をしている。やっぱり俺はしくじったみたいだ。  彼が向かいの席を目で示した。 「あの、少しいいですか?」 「んっ? え、はい、誰も来ないので」  俺は返事をしながらも、彼の予想外の言葉に混乱しながら身構えた。  初めてテーブルを挟んで向き合う。  困った。前から話したかったのに、心の準備ができてない。彼が向かいに座った理由もよく分からないし。  気まずい沈黙。ウェイターを目で探そうとした時だった。 「実は、今日こそあなたに声をかけたいと思って」 「……?」 「……だからちょっとくらい、ちゃんとした格好を……」  彼の視線が分かりやすく泳ぐ。 「……え? ええっ?」  思わず変な声が出た。  このイメチェンが俺のためだって? やめてくれ、そんなの……。  一瞬で恋に落ちる。  -了-
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