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しろさぎ
宿の前には暗い沼地が広がっている。
一つだけ灯る常夜灯が、薄暗く照らしていた。
窓を開け、空気を吸い込んだ。
小雨が降る匂いが、土のある土地であることを知らせる。
暑い一日だった。曇り空の下、レンタサイクルで観光地を回った。古い自転車はチェーンが少し錆びつき、ペダルも重くスピードが出ない。虫の触覚のような形をしたハンドルは持ちづらく、気疲れした。
山に囲まれた田園風景の中を走った。田んぼに、遠目からぽつぽつと白い点のようなものが見えた。少し近づくと鳥だとわかる。シロサギか、と思ったが、実はその名前の鳥はいないようで、単にサギの仲間らしい。あとから知った。
彼らが遠くからこちらを見ているような気がした。飛ぶ姿は一度も見なかった。あの鳥の本当の名前はわからなかった。
時々一人旅に出る。
都会の生活に疲れたから、羽を伸ばしに、と言えばそれらしいが、旅に出てもあまりのびのびとした気分には、ならなかった。
都会に置いて来たものが、私の影にずっと繋がっているような気がした。
まあ、温泉は気持ちよく、久しぶりに飲んだ瓶ビールは美味しかった。それはよかった。
そう、旅に出た成果のようなものをつぶやいて、満足を引き寄せようとした。
夜が充満した冷気が押し寄せる。昼間の暑さが嘘のように寒かった。湿度のある匂い。底が見えない暗闇が迫る。たしか向かいは山だったが、それよりももっと深くに入って行けるような畏さがある。
沼地に白い影が弧を描き、舞い降りた。
昼間の鳥だろうか。
すっと延びる足は、まるで水面に立っているようだ。
こんな夜になぜ鳥が来たのだろう。
鳥って夜、目が効かないのじゃないか。
そう思った時に、何かが私の胸を引っぱる気配があった。
誰もいない。
音もなくドンと、目の前で太鼓を打ち鳴らされたような衝撃を皮膚で感じ、私は目を瞠った。
視界いっぱいに夜の闇が広がった。
山の向こうの奥の、さらに奥に引き込まれるような感覚におそわれた。
素足は部屋の畳を踏んでいる。
それなのに、窓枠を越えて闇に引きずりこまれそうだった。
頭の中で激しく警報が鳴り響いているようだ。音も感触もない。感覚だけだった。
いやだ。
漆黒が迫った。
いやだ。
「私はそっちへは行かない」
耳を塞ぎ、大声で言い放った。
目の前をあざやかな白い影が横切った。
シロサギだ。
ひとつ大きくはばたく。
白い影は空を悠々と旋回し、やがて遠くに見えなくなった。
私は急いで窓をしめた。
大声を出したので、誰かが部屋へ確認をしに来るかと身構えていたが、ついに来なかった。
敷かれた布団の上に、私は茫然と座り込んだ。
枕元には、昼間買ったお守りがあった。
私は深く首を垂れ、床についた。
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