【2】最果ての絶望

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 大丈夫、と自分に言い聞かせていたミアは、全く大丈夫ではない状況と精神状態に陥っていた。 「……ッ」  銃を構えた瞬間、赤い目をした狼がミアに飛びかかって来る。恐怖に負けた精神で銃口を狂いなく相手に向けることなど、無理だ。瞬時にのけ反ったミアは、空へ向かって両手で握りしめた小型銃の引き金を引いた。  パンと静寂をつんざく乾いた音が、森に響く。木々を寝床にしていた夜目の利かない鳥たちが一斉に飛び立ち、四方八方へ散りぢりとなっていく。 (怖い……)  ミアを取り囲んでいた狼は群れだ。最初の一匹が仕留め損ねたのを皮切りに、無数の狼がミアに襲い掛かろうとしていた。 ――ギャ……ッ。  大きな黒い影が動いた。今度こそ、おしまいだと思ったミアの手から小型銃が滑り落ちる。と、同時に、その黒い影がミアへ飛び掛かってきた一匹の狼の喉元に食らいついた。  ミアの真っ白なアバヤに赤い染みが滲んでいる。何が起こったのか分からず、顔を恐るおそる上げると、見たこともない巨獣がいた。  小さい頃から写真で見ていたホッキョクギツネ、だと思う。  しかし、その大きさはミアが対面を熱望していたホッキョクギツネではない。月明りの元、銀色に輝く夏毛に覆われた全身は、尻尾まで合わせれば、ゆうに五メートルはあるのではなかろうか。 「ヒ……ッ」  すぐそばにある前足は、ミアの頭を簡単に潰してしまうことができそうなほど大きい。  頭上で息絶えた狼がぶらんぶらんと揺れている。それを地面へ投げ捨てると、ミアの頬に血飛沫が飛んだ。  狼の群れは恐れをなしたのか、闇に消えて行く。  ギロリとミアを見下ろした琥珀色(こはくいろ)とも黄金色(こがねいろ)とも見える目が、ランランと輝いている。  足元へ転がる息絶えた狼の姿が、後の自分の姿かと思うと震えが止まらなくなった。 ――喰われる。  狼に対するものとは違う、何かもっと別のものを感じる。身体からガクッと力が抜けたミアは腰が痺れ、その場から一歩も動けなくなってしまった。 「な……」  ジクッとアヌスが濡れる感覚。恐怖のあまり小便をもらしたのでは、とミアの顔色は蒼白を通り越し、死人のようになっていた。 「ヒッ」  ホッキョクギツネが大きな舌でミアの頬へ飛んだ狼の血を舐める。触れたところがなんだかピリッと感電したように感じたのは、舌がまるでヤスリのようにざらついていたから、かもしれない。  呆然とするミアをホッキョクギツネが至近距離でじっと見つめている。最初の恐怖は幾分やわらいできてはいたものの、今度は心臓がドクドクして体温が急激に上昇しているようだった。 (……身体が、コワレタ)  と、ミアの身体がふわっと浮いた。 「……ッ」  次の瞬間、ミアを口へ咥えたホッキョクギツネが森の奥へ向かって走り出したのだ。  舌を噛みそうになったミアは、必死に奥歯を噛み締める。 (何がどうなっている……!)  体温があがる感覚が初めてのミアは戸惑った。地下では風邪を含む伝染病の蔓延が恐れられている。いつも食事代わりに摂取するジェリーには免疫効果を高める成分も含まれているため、病気などしたことがなかった。  大きな足が地面を蹴り続ける。地面に生える草木がものすごい速さで過ぎていく。 「下ろせ、下ろしてください……!」  目から涙が溢れていることに気づいたミアの声に張りはなかった。  人前で泣いたことなどない。  地上派遣はエリートへの第一歩。それを経て、皆、地下を統括する重要ポストについている。だから、地上派遣研修のメンバーはギラギラしていた。が、そんな事にさらさら興味のないミアは、常に彼らを馬鹿にしていた。  ミアに近い年齢でも二十五歳。  そんな歳まで何をやっていたのかと、腹の中で笑っていた自分に、こんな情けない部分があることを知らなかったミアは両手で顔を覆った。
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