3人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
忘却のティモシー
『なあ、覚えてるか?』
「……はい?」
何とはなしに取った電話。突然受話器の向こうからそんなことを言われて、俺は戸惑った。
『なあ、覚えてるか?』
それは低い男の声だった。どことなく疲れていような印象である。覚えてるって何をだよ、あんたは誰だ。俺がそう問い返すよりも前に、その電話はぷつりと切れる。
「何だよ、一体」
せっかく家で息子と一緒に楽しくテレビを見ていたのに、台無しにされた気分だ。俺はイライラとスマホの画面を見て、眉をひそめることになる。着信履歴に表示されていた名前は、“阿部幹人”。まごうことなく俺の名前であり、俺のスマホの番号であったのだから。
そういえば、さっきの声もくぐもっていたが、よくよく聞けば俺の声と似ていたかもしれない。自分の声というのは案外自分で聞いても分からないものだ。自分で喋っている声と、レコーダーで録音された声は違うというのはよく聞く話である。
「あなた、どうしたの?」
「あ、いや」
なんか気持ち悪いな、と俺が携帯をしまった時。息子をだっこしたままの妻が近づいてきた。俺みたいなボンクラには勿体ないくらい、美人で優しい妻である。まともな職にもつけずにフラフラしていた俺を拾ってくれた、工務店の従業員だったのが彼女。ベテラン社員として信頼が厚かった彼女が推薦してくれたおかげで、俺はその店で働くことができるようになり、まともな職と食い扶持を得ることができるようになったのだった。
やがて彼女は仕事で俺を支えてくれるのみならず、プライベートの方でも酒浸りがちだった自分をサポートしてくれた。禁酒禁煙に成功し、こうして子供を育てるまともな父親に生まれ変われたのも、全ては彼女の存在あってこそである。
「何でもない。なんか、変な電話あっただけ」
心配させたくない。どうせ、ただの悪戯だろう。
気味は悪いが、確か迷惑メールでもあったはずだ。発信元を、送信元と同一人物に偽装する手法。電話でも同じことができるかどうかは知らないが、きっと似たようなものだろう。声だって、あくまで“言われてみれば俺の声に似ていたような気がする”程度である。生憎、誰が聴いてもわかるほど特徴的な声の持ち主というわけでもないのだ。別人がなりすましてたとてわかるはずもない。
最初のコメントを投稿しよう!