貴女へのシオン

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貴女へのシオン

「あれ?」  自分の喉からしわがれた声が出た。いつもカサカサしていて、2度と潤うことは無い声に歳を感じていたが、最近は物忘れが激しくなってきたことでも年齢を感じている。  読んでいた本を閉じ、木のテーブルに置く。手のひらサイズに狭くなっていた視界を部屋に向けると、これまでにないぽっかりとした寂しさが包み込む。意味もなく耳をたててもひっそり閑とした家の中では何の物音もしない。  「何か、忘れてるな」  しかし、何を忘れているんだろうか? 80も後半になってくると何を忘れたかも思い出せやしない。ただ、何かを忘れているという違和感に駆られて、わたしはあぐらをかいていた膝に手を当てて起き上がった。  が、どこを探せばいいかとんとわからない。時刻は夕方。畳が敷かれた部屋を出て、まずガスが消してあるかを確認し、洗濯機の中を見て、冷蔵庫で消費期限が何日かも確認したが、全部空振り。  テレビも消し、ラジオもついていない。玄関の鍵や自転車の鍵もいつもと同じ場所にある。  「あれ~?」  探せば探すほど違和感は強くなり、そのうちなんでこんなに静かなんだ、と当たり障りない事にまで違和感を覚えてしまう。  リビングでつるつるした頭に手を当てた瞬間、まさに豆電球が光る如くに思いだした。  「誕生日!」  そう、今日は妻の誕生日だった。毎年毎年欠かさずに花をプレゼントしていたのだ。毎年恒例だったからこそ何もしていないことに強い違和感があったんじゃないだろうか。  わたしは思いだした喜びと妻の笑顔を想像して足取り軽く外出の支度をした。妻は毎日散歩をする。時折近所の友人と話し込んで帰りが遅くなることもある。買いに行くなら今がチャンスだ。  財布にお金が入っていることを確認し、ポケットに突っ込んでいそいそと外に出た。日が暮れる前に戻って来なければ。  幸い花屋は歩いて10分ほどの所にある。年寄りにはいい運動だった。  「これを花束にお願いします」  わたしはしわしわのみっともない手で薄紫色の花弁の沢山ついた花を指さした。  「シオンですね。かしこまりました。どなたかへの送り物ですか?」  「ええ。妻がこの花を大変気に入ってましてねえ。毎年、誕生日にやってるんです」  「そ、そうなんですか」  店員にリボンを付けてもらい、代金と引き換えに私は花束を手に入れた。さして大きくもなく量も少ないが、妻はきっと喜んでくれるだろう。わたしは覚えているとも。「私の好きな花を覚えていて、それを贈ろうとしてくれる気持ちが何より嬉しい」と言ってくれた貴女の言葉。忘れることはない。  家に帰り、私は本を読んでいた畳の部屋に戻って妻を待った。毎年の事なのにそわそわし始める。  おかしいと気が付いたのは、日が暮れかかり、空が半分夜になった時だった。いくら何でも遅すぎる。何かあったんだろうか? もしやわたしが気づかないうちに帰ってきているとか?  不安になって花束を手に家の中を探し始めた。今日で家の中をあちこち歩くのは2度目。だが、妻はどこにもいない。そういえば今日、わたしは独りで食事をした。妻はどこに行ったのだろう? 何故わたしは妻が居ないにも関わらず1人で食事を済ませてしまったんだ?  動き回った挙句、わたしはやはりリビングで立ち止まった。夕日が半分ほど沈む中に、その朱色の光の筋がわたしの視線を導いた。そこにあるのは、
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