妄執

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「おはよう長瀬くん。よく眠れたかい?」  足枷をガチャガチャと弄っていた孝司の耳に、男の低い声が囁かれた。孝司はビクッと肩を揺らし、背後を振り返る。そこには白衣をまとい、眼鏡をかけた、医者のような男が立っていた。 「……あんた誰?」  孝司の問いに答えることなく、男は孝司の正面に立った。顔を見ても、まったく面識のない男だ。 「誰だって聞いてんだよ! 俺に近寄るな!」 「私は仁科(にしな)だ」  仁科と名乗った男の声は穏やかであったが、不気味な笑みが怖くて仕方がない。孝司はベッドの上を後ずさろうとしたが、すぐに背後の壁に阻まれてしまい、逃げ場はなかった。  仁科がベッドに上がってくる。孝司の前でうやうやしく正座をしたが、威圧的な態度は隠せなかった。 「初めまして長瀬くん。私のことは先生と呼ぶように」  この男は何を言っているのだろうか。 「わかったね、長瀬くん」  訳がわからない。 「あ、あんた、何がしたいんだ。俺にこんなことして良いと思ってんのかよ」 「……なぜ私を先生と呼ばないのだ。生徒は先生に従うものだろう?」  仁科は悲しそうな顔をしたが、孝司にしてみれば何ひとつ道理が通らない。  この訳のわからない男の前から一刻も早く逃げ出したい。 「意味わかんねえよ! 早くこれを外せ!」  孝司は足枷を指し、仁科に強く訴えた。しかし仁科は何やらひとりでブツブツと呟き始めた。 「まずは言葉遣いを正すべきか……それとも生活指導が先か……」 「おい、聞いてんのか!」  その瞬間、仁科の長い腕がにゅっと伸ばされた。おぞましさから孝司は仁科の手を叩き落そうとしたが、前髪を掴まれ、背後の壁に思いきり後頭部を叩きつけられる。 「痛っ!」  目覚めたときの頭痛と相まって、目の前に星が散った。仁科の痩躯から想像できないほどの強靭な力に、孝司の全身がすくむ。  孝司の前髪を掴んだまま、仁科は顔を近づけ、くつくつと笑った。 「まずは髪だ。今のままでは長すぎるから、私が切ってあげよう」 「……え」 「今日は長さを整えて、明日は黒く染め直そう。それが最善だ。わかるかい?」 「い、嫌だ!」  孝司は仁科を退かそうと手足を振り回して抵抗するが、まるでびくともしない。  それどころか仁科は空いた手を白衣のポケットに入れ、中から小型の折り畳みナイフを取り出した。  首筋に押しつけられると、恐怖のあまり身動きが取れなくなった。 「こんなことして……」 「ここでは私がルールだ。先生が決めたルールを生徒が守るのは当然のことだろう、長瀬くん」  孝司は何も返せなかった。 「じゃあ早速始めようか。場所を移動するから着いて来なさい」  仁科はナイフをしまってベッドから降り、部屋の中央にある椅子の横に立った。  この男に逆らうことは賢明ではない。  孝司は恐る恐るベッドから降り、仁科の顔色をうかがいながら足を運ぶ。どうやら鎖は届くようだ。着席すると、背後から仁科が声をかけた。 「いい子だ、長瀬くん。そのまま両手を後ろに回しなさい。暴れると危ないから」  言われた通りにすると、両手首に冷たい物が触れた。じゃらりとした音から手錠がかけられたのだと知った。足枷にナイフに手錠。これらを用意して、さも当たり前のように使う男に、恐怖を覚える。  ここに来て孝司は、もしかしたら自分は生きてこの部屋から出られないかもしれないと本気で考えた。 「……あんたは俺をどうしたいんだ?」 「先生だ。私のことは先生と呼ぶように、と言っているだろう」 「せ、先生は、俺をどうするつもり……ですか?」  仁科は孝司の髪を撫でながら答える。 「長瀬くん。君は私の生徒だ。私はこれから君を教育し、素晴らしい生徒になるように指導する。なぜなら、私は君の先生だからね」  背後から聞こえる仁科の嬉々とした声に、孝司は身を震わせた。 「鋏を取ってくるよ。少しの間待っていてくれ」  仁科はそう言い残し、入ってきた扉から出て、外から鍵をかけた。  部屋に残された孝司は大きく息を吐き、緊張で強張っていた身体をできる限りほぐそうとする。  仁科が戻ってくるまでに、少しでも全身を休めたかった。  仁科の目的がわからない。先生と呼ぶように強要し、逆らえば容赦なく暴力を振るう。  実際に受けたのは一度だけだが、孝司をおとなしくさせるには充分だった。 「……痛い」  張りつめていた気が抜けたせいか、頭の痛みがぶり返した。孝司は椅子に縛りつけられたまま、じっと痛みを耐えた。  数分後、切れ味の良さそうな大振りの鋏を手に、仁科が戻ってきた。 「本当に切るんですか?」 「当たり前だろう。さあ、長瀬くん。危ないから不用意に動かないように」  わざと大きな音を立てて孝司の襟足を切ると、仁科はサクサクと鋏を進める。はらりと切れた髪が孝司の周りに落ちる。短くするのは約一年ぶりだった。 「――終わったよ。実によく似合うね」  明るくなった視界とは裏腹に、孝司は目の前が暗くなるような絶望感を覚えた。
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