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扉の前にはもう一枚扉がある。
防音の為だ。俺はノックをしてドアを開けた。
すると殺風景な部屋の真ん中にパイプ椅子に座ったいつもの【イケニエくん】がいた。
短髪の中年の男だ。くすんだ色のスーツを着ている。がっしりとした体格に太い眉。目を閉じて両腕を胸の前で組んでいた。
林檎はといえば、ドアの近くに備え付けられた小さなキッチン、ガス台上に背中を丸めて腰掛けていた。
林さん、と呼びかけると、林檎は黙って手を差し出し、俺は黙って寿司のパックを差し出した。
「山本、烏龍茶」
「はい。…一つですか」
「普通三つだろうが。ん?」
「すみません、もってきます」
慌てて自分と【イケニエくん】の寿司のパックをキッチンの横に置かれたミニ冷蔵庫に入れると、俺はさっ、とドリンクバーで烏龍茶をコップに注いで帰ってきた。
すると、林檎は【イケニエくん】の前に立っていた。
【イケニエくん】は動じていない。林檎はむしゃむしゃと右手に持ったパックに入った寿司を手掴みで食いながら、アノヨォ、と【イケニエくん】に言った。
「たまには愛想の一つでも言えば、俺だって優しくするぜ」
「…」
「誰だってそうだろう?好きな奴にはそれなり、嫌いな奴にもそれなりだ」
「…」
「なんか、言えよ。なあ」
「…」
【イケニエくん】は、黙っていた。険しい顔のまま目を閉じていた。
それが気に食わないのか林檎はむしゃむしゃと自分の分の寿司を全部食べてしまって、俺が差し出した烏龍茶も飲んでしまって、空になった寿司のパックと、烏龍茶の紙コップを放り投げて、それを俺が片付けていると、パン、と【イケニエくん】の頬を張り飛ばした。
【イケニエくん】の態度は変わらない。いや、少しだけ目を、開けた。
「奥本、お前、俺の事をもっとちゃんとしないと、ずっとこのままなんだからな」
林檎がヒヒヒ、と上ずった笑いをする。
興奮したように、笑う。
すると【イケニエくん】がようやく口を開いた。
「サトル、お前は変わらんな」
「んん?」
「ガキのままだ」
「そうだ、俺はガキだ」
「いいや、お前はいい年をした男だ。…昔のように暴れたら全てが手に入ると思っている、愚かな男だ」
「なんだと」
「俺は、変わらんよ」
「おくもと」
「体は確かに此処に在る、が。俺は自由だぞ、サトル」
男はゆっくりと目を開けた。
せんせい。
俺はつい、叫びそうになった。
奥本先生。現国の時間、あんたは教室に入ってきてまず教室を見回すんだ。誰がいないか、誰がいるか。
名簿を読まなくてもあんたはすぐに解ってくれる。あんたのあだ名はフランケンシュタイン、むっつりスケベ。
悪い高校だったけど、あんたは丁寧に俺達に教えてくれた。二年の時、あんたは担任だった。やさぐれていた俺にこう言ったこともあった。
「山本、いいか。きっとよくなるんだ。今は自分の環境や、自分が成熟していない為にうまくいかない事もあるだろう。だが、きっとよくなるんだ。自分が努力を続けていればなんにだってなれるんだぞ」
大きな手で俺の頭を撫でた、せんせい!
だが俺は叫びをぐっ、と堪えた。いまのあの人は【イケニエくん】なのだ。林檎のおもちゃだ。数年前に林檎に見つかってから、俺は彼を救えた試しがない。
林檎は恍惚とした表情を浮かべながら米粒のついた右手の指を舐めた。
「自由?じゃあお前はどこにいるんだよ。先に天国にでも召されたか」
「俺は、」
「お前は俺のもんだ。それで、今のお前はただのいかれたオカマだよ。街中に放り出してやろうか、胸をひんむいて」
そういうなり林檎は【イケニエくん】の腕組みしていた腕を掴んだ。【イケニエくん】は、はっ、と身を強ばらせて抵抗する。だが、林檎に勝てる訳がない。
この二年間まともに歩いたこともないこの人に、林檎が負けるわけなどないのだ。
あっというまに腕は解かれて、不自然に膨らんだ胸元があらわれた。
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