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「ねぇ、約束、覚えてる?」
目の前の女は無邪気な笑顔で聞いてきた。
正確な時間はわからないが、辺りは真っ暗で、潮の香りと波の音からここが海であることくらいはわかる。
だが、ここがどこの海かはわからない。
--覚えてる。忘れるわけがない。
たまたま立ち寄ったバーで、やけ酒をしていた時だ。
『くそ、あいつ…』
その時俺は、仕事の成果も恋人もを奪った上司に、腹を立ててた。
こちらが必死になって成し遂げた成功を、冷笑しながら横からかっさらわれたのだ。
しかも、「あなたと違って頼りがいがある」とか言って、長年付き合った恋人はあっさりとその男に乗り換えた。
悔しさとそれをどうにもできなかった不甲斐なさで、俺は自暴自棄になっていた。
その時だ。この女に会ったのは。
『お兄さん、ちょっと話聞かせてくれない?』
俯いていた顔を上げると、今まで見たことのないような美しい女がいた。
長いまつ毛と大きな瞳、ぷっくりとした柔らかそうな唇、形の良い鼻がバランス良く顔に収まっている。
年齢は大人びた高校生にも見えたし、ものすごい童顔の年上の女性にも見えた。
そんな美女があまりにも無垢な笑顔で話しかけるのだから、俺はその女が天使のように見えた。
だから、話したのだと思う。
俺がどんな目にあったのかを。
『そっか、大変だったね。本当に嫌な奴だね』
女は一度も俺を否定することなく、俺を慰めた。
『ああ、本当に嫌な奴だ』
相槌を打つ俺に、女はある提案をした。
『じゃあ、そいつ、私が殺そうか?』
女の提案に、俺は酒を吹き出しそうになった。
『何言ってんだ。できるわけないだろ』
なんとか落ち着いて言う俺に、女は口を尖らせた。
『えー、でも、そいつが生きている限り、また同じことされるよ?』
俺は言葉が詰まった。
実は手柄を横取りされたのは初めてではなかったからだ。
女は俺の耳元で囁いた。
『お兄さんだったら怪しまれるかも知れないけど、私だったら、そいつとは何にも関係ないから、怪しまれないよ?
なら、私がした方がいいと思わない?』
耳にかかる吐息にどぎまぎしながら、俺は頷いた。
そんな俺を見て、女は嬉しそうに笑った。
『じゃあ、決まりね!
その代わり、して欲しいことがあるんだけど…』
女の交換条件に、俺は了承した。
そんなことできるわけがないと思っていたからだ。
その数日後、その上司が殺されたと聞いたとき、俺は悪魔が契約を持ちかけるときも、純粋な笑顔を浮かべることを知った。
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