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※
何度見ても神秘的な光景だった。
一人の男が塹壕の中で東の地平線を睨んでいた。その男は大層、不細工だった。重そうな一重瞼に岩みたいな厳つい輪郭、鼻は大きくて潰れ気味。頬ぼねが平均よりも張り出していて、唇が厚い。
真剣な顔をしていると怒っていると勘違いされ、楽しくて笑っていると悪巧みをしているマフィアのボスみたいだと恐れられた。
彼は腕時計で時間を確認する。時刻は午前七時二十分。
すでに光の弱い星々は消えていて、最後まで残っていた金星が徐々に姿を隠し始めていた。
そろそろだ。
彼は塹壕の中からライフル銃を構えるのをやめて少しだけ頭を出す。彼は照準機越しに見る景色は真っ当な世界じゃないと思っていたからだ。
遠く東の果てにある地平線が白んでくるのが見えた。
地平線に沿って一直線に伸びた白い光の筋が夜の端を決めていた。
光の筋は夜の帷を押し上げて行って、こっそりと空の色を暗黒から瑠璃色、瑠璃色から東雲色へと変えていく。
そのまま地平線から視線を動かさないでいると、彼の目に赤光が飛び込んでくる。光の速度は秒速三十万キロメートルだから、ものすごいスピードとパワーだ。この一瞬だけ、世界は宝石のようにぴかぴかと美しく輝くことができる。たとえ、地獄よりもひどいありさまでもだ。
彼は赤光に目を焼かれないように、目を細めたまま酷いありさまに変わってしまったアラスの平野を見る。
森は焼き払われ、張り巡らされた鋭い有刺鉄線は血で錆びつき、塹壕は刺青のように大地を削り取っていた。目を瞑れば砲弾の爆発音が聴こえてくるし、硝煙の匂いが鼻をつく。兵士たちの絶叫は彼の頭の中でがんがんと響いていた。でも、朝の光が、目を焼くほどの赤光が、おかしくなってしまった世界を浄化してくれていた。
日の出の時だけ見ることができる奇跡みたいに綺麗な光景だった。
赤色に染まった光景の中に黒い点がぽつぽつと現れた。その黒い点は地平線に沿うようにして一列になって現れた。点ひとつひとつは波のようにゆらゆらと揺れながらこちらとの距離を詰めてくる。音が風に乗って彼の耳に届く。地面に顔をつけると振動が伝わってくる。
彼は銃挺をぎゅっと握る。すでに手のひらは汗でべとべとだ。何度も汗を吸った銃挺はそのせいで黄色く変色している。
彼は塹壕にライフル銃を置いた。照準機を見ながらもう一度荒れ果てた平原を見る。さっきまで奇跡のようにきらめいていた世界はもう何処にもなくて、東から現れた敵が世界を汚していた。
ドン
太鼓を叩いたような大きな音がした。
数秒とたたないうちに塹壕の中で絶叫が響いた。
「砲撃注意! 全員防御姿勢をとれ!」
その声がしたすぐあと、耳だけを残してあとは全て吹き飛ばされてしまいそうなくらいの爆音が彼を襲った。敵戦車が放った砲弾が近くに落ちたのだ。ぱらぱらと土が舞って彼の顔の上に落ちてきた。うめきごえが聞こえた。叫び声も聞こえた。誰かがいたいいたいと言っていた。
彼は塹壕から頭を出して東を見る。黒い点がこちらに向かって津波のように迫って来ていた。
「侵攻を確認! 各員戦闘準備!」
また絶叫が塹壕の中に響いた。
そこかしこで、雄叫びが上がった。
彼も、うおおおと雄叫びをあげる。その姿は醜い顔も相まって御伽噺に出てくる怪物にそっくりだった。
銃弾が風のように通り過ぎていって、砲弾が雷のように彼らの目の前に落ちた。剣で敵を貫けば雨のように血が舞って、命の炎は誰に看取られることなくひっそりと消えていった。
彼はまだ生きていた。
やることをやっていた。
塹壕に身を隠し、照準機で狙いを定めて、引き金を引く。それだけを丹念にやった。面白いように敵は彼の前で倒れた。
彼は生き残ってしまったので、いまだに戦場にいる。
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