第9章 濃いコーヒー、薄いコーヒー

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そりゃまあ。味は、するよね?食べ物だし。…と相手がもし哉多だったらわたしも遠慮なく声に出してその場で畳みかけるようにずけずけと突っ込んだだろう。そう考えるとやっぱり相手によるというか。接し方に差がある、と奴に文句を言われても実はひと言も言い返せない気が。 「なるほど。…こういう味なんですね。パンケーキって」 「…パンケーキ。初めて、ですか?」 恐るおそる尋ねてみる。彼は無表情のまま静かに首を横に振った。 「何度か軽食に作って頂いたことはあります。これと全く同じではないですが。ホットケーキなら子どもの頃に母が作ってくれた記憶も、…ああ。あれも、味はしてたような。…気が」 スマートな手つきでナイフとフォークを駆使して小さく一切れを再び口に運ぶ。一瞬置いて、にこりともせずに彼は重々しく頷いた。 「…やっぱり。味がします」 「…甘み。濃すぎ、です?」 そんなにお砂糖入れてないつもりだけど。ホイップクリームもあまり甘くすると重くなるので砂糖は控えた。バナナの方が甘いくらいに仕上げたつもりなんだけどなぁ。 彼はことり、とカトラリーを置いて薄茶色の瞳でわたしの方を見返した。 「甘さって意味ではないです。小麦粉とか、…卵とか。こんなに複雑な味がするものなんですね。…失礼」 行儀が悪いけど、と呟いて自分の前のサンドイッチに手を伸ばす。一口齧ってしばしあってから納得したように頷いた。 「…これもです。ふぅん、肉の味って。こんなに濃いものなんですね」 「それ。…いつもの味です。澤野さんが作ったやつだから」 彼が何を発見したのかはわからない。だけど一人合点したように味を次々と確かめてるのを見てもこっちとしては釈然としない。 ローストビーフは澤野さんの得意料理だし。柘彦さんだって何度も口にしたことがあるはずだ。パンケーキは間違いなくわたしの料理だから何か違和感があってもおかしくないけど。あのローストビーフのどこが、彼にとって新鮮だったんだろ? 柘彦さんは我に返った様子で自分の手許のサンドイッチに目をやった。 「そういえばそうですね。…不思議です」 それを一旦皿に置き、わたしの方に穏やかな眼差しを向けた。 「どちらも、とても美味しいですよ」 「柘彦さんが手伝ってくださったおかげです。あの、もしよかったら。こっちも召し上がりませんか」 何だか嬉しくなって舞い上がり、まだ手をつけてない自分の分を差し出そうとすると彼は軽く手のひらでそれを押し留める仕草を見せた。 「残念ながら僕はそれほど食が太くはないので。一度にたくさんは食べられないから、お構いなく。それより、あなたこそそれで足りますか。まだ食べ盛りの年代でしょう。僕に合わせて同じ量にする必要はありませんから、多めに摂ってください」 「大丈夫です。足りなければおやつ食べますから」 意気揚々と答えてしまってから自分の言ったことに気がついて耳を赤らめた。小学生じゃあるまいし。おやつはないでしょ。まあ実際、あまりに物足りないときは間食することもあるから。単に事実を述べたに過ぎないけど。 こんな高貴なひとの前で、食い意地を発揮したみたいで恥ずかしい。小さくなるわたしに彼はふんわりと柔らかな笑みを向けて、親切にフォローしてくれた。 「健康的でいいですね。エネルギーを使うお仕事ですから、栄養をしっかり摂るのは大切なことです。…あ。すみません、頂きます」 彼が食事をあらかた終えたのを察して席を立ち、コーヒーをカップに注いで戻ってきた。彼の前にすっと差し出すと柘彦さんは丁寧にわたしにお礼を告げてそれを手に取り、軽く背を屈めて表面を吹いた。 いい歳して子どもみたいにたくさん食べることまで肯定してくれる。深い意味はなくて表面的に調子を合わせてくれてるだけかもしれないけど、それでも否定されずに受け入れてもらえると次第に心が解けていくようだ。 何でわたし、この人の前に出るといちいち上がったり緊張したりしてたのかな。と静かな落ち着いた空気の中でゆったりと向かい合ってると何だか遠い昔のことみたいに不思議に思えてくる。彼がふと水面のような凪いだ瞳を上げてこちらに向けたとき、再びどきんと心臓が痛いほど鳴ってそのときようやく理解した。 そうか。わたしはこの人が怖かったり怯えてたりしたわけじゃない。 彼に少しでもよく思われたくて、一目置かれたくて。その目に留まりたいけどどうしていいかわからなくて、それで緊張してたんだ。精一杯頑張って評価されたかった。発表会のときにステージであがっちゃうような、そんな感覚。 だけど。そんな風に肩肘張るのも多分、意味がないことなんだなってこうして静かに向かい合ってコーヒー飲んでるとじわじわとわかってくる。 この人はそれほど深く誰かに動かされたり影響されたりとかはきっとしない。ただ表面を流れていくように、そよ風に触れたみたいに他人とすれ違ったのをふと感じてるだけなのかもしれない。 誰かに特別関心を持つこともないけど、反面こだわりも持たないからすごく嫌ったり否定的な感情を持つこともないように思う。
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