第9章 濃いコーヒー、薄いコーヒー

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それを箱根だなんて、もろ観光地じゃん。いきなりふらりと計画もなしに行くにはハードルが高い。何時に帰って来られるかわかんないよ。 奴は前方を見据えて軽快にハンドルを操りつつ平然と言い放った。 「別に、帰れなきゃ帰れないでもいいんじゃないの。ちょっと遅くなるので適当に済ませてくださいってあとで連絡だけ入れれば。ていうか、あいつ大人なんだからさ。夕飯の支度くらい自力でどうにでもできるだろ。常識で考えれば…。つきっきりで手取り足取り何でもしてやらないと。すっごい機嫌悪くなんの、あいつ?」 「いやもちろんそんなわけないよ。何でも普通にきちんとできる人だよ。手先も器用みたいだし、何するにも優雅で洗練されてて」 台詞の前半にまず異議を唱えるべきだが、後半のいちゃもんがあまりにもあまりなのでまずそっちにむきになって反論してしまった。 が、喋ってる途中から彼が包丁を扱うスマートな手捌きが瞼の裏に浮かんで思わずその記憶に気を取られてしまう。わたしが熱を込めて彼を褒めそやすのなんか聞いててもしょうがない、とばかりに奴は無情にも長台詞をきっぱりと遮った。 「じゃあつまりさ。眞珂がいてもいなくてもあいつは自分で飯くらい何とかできるってことだろ。だったらいっそ、今夜くらいはぱーっとどっか泊まるか。今から宿取れるかな。駄目元で当たってみよっか?」 「いやいや何言ってんの。勝手に決めないでよそんなこと」 急に思いついたらテンション上がった、みたいに露骨に浮き浮きしていきなりハンドルを反対方向に切ろうとする。手出しはできないが行き先を変えようとする奴の目論見を押しとどめようとわたしは慌てて強い調子で横から口を挟んだ。 「思いつきで破茶滅茶な行動に出ないでよ。何の許可もなくいきなりそんなことしたら、柘彦さんだけじゃなく茅乃さんや澤野さんにも。みんなに要らない心配かけるじゃない。頭おかしくなったのかと思われるよ、わたし」 おかしい行動に出たのが哉多の方だってことは状況を知れば当然推察してくれるとは思うが。詳細を知る前にまず仕事をぶっちぎって外泊したと伝わればあの子どうしちゃったの?とみんな怪訝に思うはず。 哉多は微妙な表情で横目にちら、と一瞬こっちを伺ってから再び前方に意識を集中し、ぼそりと不服そうに独り言めいた呟きを洩らす。 「心配なのはまずそっちかぁ。危機感ないな、眞珂は」 「ききかん?」 何に対してよ。と首を捻るわたしを奴はあっさりとあしらった。 「それはまあいいよ別に。でもかやちゃんも澤野さんも、お前もさ。そもそもあの男の面倒何かといちいち細々みてやり過ぎなんじゃないの。お屋敷のご当主様だか何だかしらないけど。飯の支度くらいいい大人なんだから自分で適当に済ませて食え、でいいんじゃん?」 なんか変ないちゃもんつけてきた。何が気に入らないのか、そこはかとなく口振りも態度もぶっきらぼうだ。 わざわざ弁明しなきゃならないのかこんなわかりきった戯れ言に。と億劫に思いつつ渋々言葉を選んで絞り出した。 「あの人が自分でできるかどうかじゃないの。澤野さんもわたしも、あの家の家事をやるって役割で雇用されてるんだし。ボランティアじゃないんだから、単にそういう仕事なんだよ。報酬を頂いてあそこにいるんだから。その分のことはきちんとやらないと」 「ふん」 何となく面白くない、素直に頷く気になれない。といった曖昧な声を漏らし、それでも不承不承納得したのか。それとももともと無理筋を言ったって自覚があるのか、奴は結局スマホのナビに従って元のルートに戻るべく脇道へとハンドルを切った。 むくれてるのかと思いきや、次に口を開いて出てきた声は意外に明るかった。 「眞珂はくそ真面目だなぁ。理屈としてはそりゃそうだけど。そんなの適当でいいんだよ。給料もらってるからベストを尽くさなきゃ、なんて気負ってるとすぐ潰れちゃう。上の人が見てないとこで時々手を抜かないとさ…。しょうがないなぁ、でもそういうとこが眞珂らしさだもんな」 付き合ってやるか、と呟いて運転席から見えやすいようセッティングされたスマホの画面に視線を流してアクセルを軽く踏んだ。 「じゃあ、今日はちゃんと夕食の支度に間に合う時間までに送ってくよ。その代わり俺の分も用意してよ。澤野さんが腕振るった豪勢なお節、ばっちりあるんだろ?」 「ええ、夕飯食べてくの?うちで」 ぎょっとなってつい声を上げてしまった。 「いや、今日元日だよ?夜はちゃんとお家で家族揃って食べるのが普通なんでしょ。ご両親が待ってるよ。家出るとき今夜は外で食べるって断ってきてないんじゃない?いきなりだとあとで文句言われるよ、絶対」 懸命に言い張る。澤野さんが用意していってくれたお節は柘彦さんとわたしの食べる分てことだからそもそも二人前だし…、と頑と主張しようとしたけど。脳内に、今まで見たこともないほどぎっしり詰め込まれた華やかで見映えのする三重のお節が甦ってごにょごにょと濁す。
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