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『部屋までわざわざ食事を運んでもらうことを申し訳ないと思うことはありますが。迷惑だなんて思うわけないです。…ここまで運ぶのは大変でしょう。僕が自分で降りていきますよ』
そう言うと思った。わたしは慌てて彼の申し出を遮る。
「いえ。こっちの都合で遅くなっちゃったから…。もうトレイに載せて準備してあります。あの、それで。お部屋は何階になりますか」
そう。実はわたし、まだ彼の個室のある場所を知らなかったのだった。
これまで食事を運んでたのはずっと澤野さんだったし、彼女が休みで不在のときは茅乃さんが持って行くか彼がひと気のない時間帯にキッチンに降りてきて自分で済ませていたようだ。
みんな別にわたしを彼の部屋から遠ざけようって意図ではなかったのは、今回こうしてわたしをお世話係として留守番に置いたことではっきりしたけど。おそらく部屋の位置を知らない相手にいちいち説明するのが面倒だったとかその程度の理由だと思う。
いやいい機会だからとかって、わたしも彼の個室の位置を知ってどうこうってわけじゃない。だけど、やっぱり全然知らないより。彼についてのこと、特に向こうの方で不都合がない範囲でなら少しでも多くのことを知りたい気持ちはある、かな。
『ああ、そうですね。…そうしたら、せっかくだから。ここまで上がってきてもらえますか。お手数かけて申し訳ないです』
一瞬考えて、彼は四階にある個室の位置を丁寧に説明してくれた。頭に叩き込もうと慎重に復唱しているわたしに彼は重ねて尋ねてくる。
『眞珂さんは。夕食はお済みですか、そのお客さんと一緒に』
「いえ、付き合いで軽く摘んだだけで。だから適当にお餅でも焼こうかなって。お醤油塗って、海苔を巻いて」
『ああ、いいですね。だとしたらそれもこっちへ持ってきて、一緒に召し上がりませんか。今コーヒーを淹れたので…。それとも僕がそっちへ降りていった方がいいのかな』
思いがけない申し出にわたしは受話器を握りしめたまま軽く身体を弾ませた。
「いえいえ、もう準備しちゃったから。…そしたら、今から参ります。もう少しお待ちください」
それからめちゃくちゃ手早く磯辺餅をいくつか作り、二人分の取り皿と箸も用意して四階の彼の部屋へと赴いた。
あまりに浮き浮きしてると看破されないよう表情を引き締めて、おもむろにずっしりした一枚板の扉を指の節で叩く。
「はい。…重そうですね、大丈夫ですか」
ドアを開いて大きなお盆を手にしたわたしを見た途端、彼は気遣ってそれを受け取り中へ入るよう促してくれた。ふわっと淹れたてのコーヒーのいい香りがわたしを包む。
「昨日の例の粉使ったんですか、これ。もしかして」
「そうなんですけどね。それが意外にも…。どうぞ、そこにかけて。お疲れさまでした、わざわざすみません」
がち、と重い音がして背後で扉が閉まる。わたしは感嘆しきって初めて目にする室内を思わずぐるりと見回した。
当たり前だけど、当主の居室はわたしや茅乃さんたちの部屋とは完全にコンセプトが違っていた。
まず較べものにならないくらい広いのはもちろん。重厚な、年代ものの家具がきっちりと手入れされて計算され尽くした配置で並べられている。やや光量を落としたほのかに赤みを帯びた照明は実に落ち着いた雰囲気。これぞ本物のクラシックな洋館のリビング、って感じ。
閉じられた続き扉の向こうはおそらく寝室だろう。そっちにバスルームも繋がってると推測される。
まるで歴史ある高級ホテルのスイートルームそのもの。いやそんなものわたしの人生でびた一文目にしたこともないけど。ただの想像だ。
勧められる通りしっかり重いソファに座り、きょときょとと不審人物みたいに部屋の中を物珍しげに見つめるわたしを特に不快に思うこともないようで、彼は朝と変わらない自然な態度で湯気の立つカップを持ってきてわたしの前のテーブルにことりと置いてくれた。
「楽しかったですか。初詣は」
「結局近所の◯◯神社だったんですけど。あんなちゃんとしたお社、山の向こうにあるって初めて知りました。駅からここまでの道しか知らなかったから。…このコーヒー、どうでしたか。やっぱり前に使ってた豆とは違います?」
彼はわかるかわからないか、くらいの微妙さで眉を曇らせた。ように見えた。
「それが、ですね。…あまり変わらない気がするんです。やっぱりほとんど味がしないですね。水の違いなのかな…」
「ああ、その可能性もあるか…。ちょっと失礼」
立ち上がってマシンを確かめに行く。よほど粉の量間違ってるとか、セッティングがおかしいとかなのかも。わたしが見てわかるくらいならそっと修正しておこうかな。
ぱか、とドリッパーの蓋を開く。まださっき落としたあとの粉がそこに残ってる、が。…結構たっぷり使ってるな。これ以上濃く淹れると胃にきつそう。
これで味感じないとか、一体どんな水使ってるんだ。全ての味をきれいに拭い去る魔法の水だな、とか脳内で余計な突っ込みが沸き出すのを力尽くで抑え込む。…でも。
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