第9章 濃いコーヒー、薄いコーヒー

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「すごい、濃い香りがしますよね。部屋のドアを開けてもらったときから…。これで味薄いとか。あるのかな…」 「ああ、そういえば。…香りが強くなりましたね」 思わず独りごちると。まさかの彼本人がふと気づいた、みたいに同意を示した。 いやあなた、わたしが来るより前からこの部屋にいたのに。これまで感じてなかったのか、この深い芳しい香りを? かち、と音を立てて彼が自分のカップを持ち上げて顔を近づけた。思わず見守るわたしの視線を意識していない様子で、自分自身に向けてかぽつりと呟く。 「いい香りです。…昨日と、同じです」 それからそっとその縁に口を添える。 しばらくの間彼はじっと固まって反応を見せなかった。 「…どうですか?やっぱり味、しないですか」 一体どういう状態なのか全く見て取れない。痺れを切らして結局こちらから尋ねてしまった。 柘彦さんはゆっくりとカップをソーサーに置いて、ほんの少し頭を揺らした。何かの考えを黙って振り払うように。 「…味は。します」 「そうですか」 わたしはちょっとほっとした。やっぱりこの人、ストレスから来る重度の味覚障害なんじゃないかって疑いを捨てきれずにいたので。 自分の席に戻りまだ口をつけていないカップを手に取る。試しに引き寄せてその湯気を吸い込むといつもの慣れたカフェで淹れてるあのコーヒーの香り。…うん、これこれ。 ふう、と吹いてから一口飲んでみた。…いや、どうなんだろ。わたしがカフェで淹れたのよりだいぶ美味しいよ? 「粉は同じでも、マシンがいいからですかね。いつもより断然いい豆使ってるみたいに感じます。香りも濃いし…。やっぱり、あれくらい思いきって多めに粉、入れた方がいいんですね。わたしにはすごく美味しいけど…。薄いですか?柘彦さんには」 彼はいつもの凪いだ瞳でこちらを見た。光源が少ないので、昼間より目の色が濃く、暗く見える。 「いえ。…しっかり深い味がして。このコーヒーは、美味しいですね」 「そうですか。じゃあ、体調によるのかもしれないですね。味を感じたり感じなかったりとかは」 多分そう。それか、ストレスの強弱の影響による精神状態。 「あんまり味を感じないことが続くようなら思いきってお医者さんに診てもらうとかも考えた方がいいかもですが。時々は外の空気を吸ったり散歩してみるとかもいいのかも。迷惑じゃなければわたし、お付き合いしますよ。庭園だって今のわたしなら、薔薇の種類の説明とかもできるし。…あ、でも。冬は全然咲いてないかぁ…」 春になるとここに咲く予定なのがフロリバンダのエーデルワイス。それでこっちに植えてあるのがハイブリッド・ティーローズのミスターリンカーン、の苗木。とか解説されても。面白くも何ともないだろうなぁ…。 肩を落とすわたしを見下ろす彼の眼差しがふ、と和らいだような気がした。 「…うん、いいですね。そうしたら明日は。一緒に庭園を散歩しましょうか。僕も少しは外の空気を吸った方が。気分転換になっていいのかもしれません」 「…はい!」 やった。柘彦さんと明日は庭園を散策できる。 彼の穏やかな態度はそのあと一緒にお節とお餅を頂くときも変わらなかった。それでって言われても言い訳にもならないが。 彼の言葉の数がそのあとしばらくずっと少なくなってたこと。結局わたしはその時点で引っかかることもなく、その意味に気づくこともなくその場は終わってしまったのだった。
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