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調理器具は全部ここに揃えたままだけど、食材は全てキッチンから運んで来るしかない。小麦粉とかバゲットとか、冷蔵品じゃないものはさっきここに来て点検するとき一応持参してきたけど。牛乳や卵、ローストビーフや野菜なんかはあまり早く出すと温まっちゃうからぎりぎりにしよう、とまだ冷蔵庫の中に置いてきてた。
柘彦さんと一緒にキッチンまで移動して、生クリームやバナナ、チョコスプレーまで抱えて並んでサンルームまで戻ってきた頃には自然と気持ちも落ち着いて、さっきまでのぎこちない緊張感はいつの間にかすっかり解れて消えてなくなっていた。
頭が先走ってるときはどう振る舞っていいかわからなくてばたばたしちゃうけど。何度か図書室で一緒になったときから薄々感じてはいたが、彼はどちらかというとわたしを落ち着かせてくれるというか。雰囲気に馴染みやすくてそばにいるとリラックスできる、というのが事実なんだよなと改めて認識する。
物静かなゆったりした人だから。それはわたしに限らず誰でもこの人のそばにいると和める、って言った方がより本当なのかもしれないが…。
手順を彼に説明して、自分もボウルに材料を入れて泡立て器を手に生地作りに取りかかる。さく、と気持ちのいい音を立てて彼がバゲットにナイフを入れるのを聴きながらしゃかしゃか、とボウルの中の卵と牛乳をかき回した。
「…こんな感じ、ですか」
確認を求めて呟くように口にする柘彦さんの手許に目をやって、わたしは大きく頷いた。
「お上手です。綺麗に切れてますね、さすがです」
斜めにスライスされたバゲットの断面が実に滑らかだ。パンナイフがしっかり手入れされてたってことはあるにしろ。やっぱりこの人結構小器用な気がする。
閉じこもり気味で自分から動いたりしないから、不器用で受け身なイメージを持ちそうになるけど。こうしてると意外と何でもそつなくこなす人みたいに思える。話し方も流暢で洗練されててぎこちなさが全くない。これは育ちというか、知性の賜物でもって社会経験の少なさを補ってるのかなと思わないでもないが。
「ほんとに普段包丁とか持つことないんですよね?台所に立ってるの見たことないし…。それでこんなにスマートにカットできるんだ。さすがですよね」
「褒めて育てるタイプ。…ですね」
つい熱心に褒め称えたら無表情にあっさり受け流されてしまった。
パンナイフから包丁に持ち替えて今度はローストビーフの塊を薄くスライスする柘彦さん。あの包丁、あんなに切れ味よかったっけ。それとも高貴な方の手だからわたしが使うときより大人しくいい子に従ってるとか?そんな人格、調理用具に備わってるはずないのに。おかしいよなぁ。
パンケーキの生地ができたので、グルテンを休ませる時間をとってその間にちょっと、と言い置いてわたしは庭に続く扉から外へと出てみる。
季節柄それほど期待はしてなかった。でも、例の食用の薔薇がまだぽつり、ぽつりと僅かに花をつけている。観賞用じゃないから花の見映えより新鮮でありさえすればいい。わたしはごめんね、と呟いて一つ花を摘んでサンルームへと引き返した。いや、花摘み自体はほんとは別にいいんだけど。ていうかむしろしなきゃならない。だけどやっぱり時々無意識に、花の付け根から首をちょきんと切るときはつい、ごめん。と呟いてしまったりする。
「薔薇を。料理に使うんですか?」
サラダ菜を丁寧に千切っていた柘彦さんが顔を上げて尋ねる。わたしは頷いて答えた。
「そんなに大量にではなくて、アクセントだけど。もともと食用だし農薬を使ってないから安全ですよ。できるだけ、お店で出したのと同じように再現したくて」
花びらを洗って、ホイップクリームを泡立てる。それから休ませた生地を熱して一旦冷ましたフライパンに流し、パンケーキを一枚ずつ焼き上げた。
それにクリームとバナナのスライス、薔薇の花びらとチョコスプレーを飾って出来上がり。柘彦さんに協力してもらって完成したローストビーフサンドイッチに揚げたてのポテトを添えてる片手間にマシンでコーヒーも落としておく。
さすがにローズティーに充分なほど食用バラは咲いていなかったので、それはまたの機会にとっておくことにした。
どう考えても柘彦さんは少食の部類に入るので、それぞれを一人前作って二分の一ずつ分ける方式に。それでも多くないかな、とちょっと心配だったけど、目の前に取り分けられた分を見ても彼は食べ切れそうもないと断ったりはしなかった。
「…すみません。ここの備品のフライパン、最近使ってなかったから。油が充分に馴染まなくて…。少し、焼き面に凸凹ができちゃいました」
わたしは恐縮して言い訳する。
「毎日使ってるときはフライパンが馴れてたから。ホットケーキの見本みたいにきれいに焼けてたのになぁ…。ちょっと悔しい」
「充分ですよ。ふっくらして、表面が香ばしく焼けて美味しそうです。…ていうか」
穏やかにわたしを宥めて、いただきますと小さく呟いてパンケーキにナイフを入れる。まだ熱かったかな、と様子を伺うわたしの視線に注意を払いもせず彼はじっと何かを確かめるようにそれをしばし味わっていた。
「…味が。しますね」
「は?」
今年いち、間抜けな声がわたしの口からぽろっと溢れた。図らずも。
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