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わたしは慌てて立ち上がり、カウンターの中に入ってポットを手にして戻ってきた。注ぎ足そうと差し出すと、彼はありがとうございますと呟いて遠慮せずにそれを受けた。
豆の好みの話はわからなくもない。高価だから美味しく感じるとは限らないし、値段に関係なく自分はこっちの方が好きとかはわたしたちど庶民に限らず、意外にお金持ちの中でもあるのかも。
でも味がある、とか水かお湯みたいに感じてたとかいう表現はちょっと引っかかる。高級で新鮮な挽きたての豆で、普通に計量して淹れたコーヒーがそこまで味が薄いって好き嫌いの問題じゃないように思うけど…。どっちかっていうと。味覚障害の症状の話みたい。
じっと考え込んでたところに不意に彼から声をかけられて、そこで思考の筋道がふつりと切れてしまった。
「…このコーヒーの粉。余ってるのなら、少し頂いていっていいですか。部屋で自分で飲むときにも試しに使ってみようと思うんですが」
若干申し訳なさそうに話しかけられて自分の考えに気を取られていたわたしは椅子の上で軽く跳ね上がる。
「え、もちろんです。どうぞどうぞ。どのみち飲みきれなくて余ってるものだし」
あたふたと立ち上がり再びカウンターの中に入って使いかけの袋を取ってきた。こうして改めて見ると結構まだ残量ある。こんなに大量に渡されても困るかな。
余りもの押しつけるみたいなことになっても何だし、とちょっと迷ってジップロックの箱も一緒に手に取り、それを両手に持って彼のいる席に急いで戻った。
「ちょっと残りの量が多いし、これでやっぱりあんまり美味しくなかったってなったら申し訳ないので。お試しくらいの量にしておきますね。それで気に入ったってことならそこで改めて同じのを購入すればいいと思うし」
「あ。…そっちの袋に分けてもらうのでいいですよ」
ジップロックにざあ、と気前よくあけて元の袋の残量をほんの数回分くらいに調整した。そののちポリの袋の方を手許に残して元のパッケージに残した方を差し出すわたしに、彼が珍しく少し恐縮した表情で押し留める。わたしは意固地に口を引き結んでぶんぶん、と首を横に振った。
「いえ。この袋だと香りが飛んじゃいそうだし。開封済みのパッケージでもそんなには保たないかもだけど…。いっそアルミパックのジップロックあるといいんですけどね」
わたしや哉多が暇なときに気楽に飲む分には全然これで構わないが。二人ともコーヒーの味や香りには全然うるさくない。
遠慮からくる押し問答が苦手なんだろう、彼は済まなそうな雰囲気を滲ませながらもそれを受け取った。
「ありがとうございます。すみません、お気遣いいただいて」
「いえいえ。もう一杯コーヒーいかがです?」
少しは彼の役に立てたかな、と気分をよくしてにっこにこで勧める。彼は恐縮の色を見せつつも素直にカップを差し出した。
「あ、はい。頂きます」
ポットいっぱいに入ってるコーヒーはまだ充分熱い。彼はわたしが継いだカップをゆっくりと口許に引き寄せ、軽く縁に触れて珍しく熱っ、と微かに眉をしかめた。
普通の人と較べたらそれでもほぼ平坦な波だけど。今まで滅多に見られなかったいろんな表情や反応が次々出てきて新鮮だな、今日はほんとに得した。と内心でにやけるわたし。
彼は子どもみたいに真剣にカップの表面を吹いてしばし集中し、やがて何とか飲めそうな熱さになったことを確かめてそっと口をつけた。
「…うん」
改めて何かを悟ったみたいに自分に向かって頷く彼。それからおもむろにわたしの方へと目を上げ、真面目なのか無表情なのかよくわからない顔つきで重々しく言い切った。
「コーヒーって。香ばしくて苦くて、微かに甘みもあるものだったんですね。…こういう味のものだとは。これまで、わかりませんでした」
「…そう。ですか」
それは。…よかった。
彼の劇的といってもいいかもしれない反応にやや戸惑いつつわたしも冷め気味になっていた自分のカップのコーヒーに口をつける。…よくわからん。
味はもちろんある。いつものちょっと焦げくさい、苦味と酸味のある普通のコーヒーだ。それなりに美味しいとは思う。だけどねぇ。
上流階級の方が生まれて初めて口にする感動ものの味とまでは思わない。コンビニのドリップコーヒーとそんなに変わらない気がするけど。
お情けで拾って頂いた居候の身としては、やっぱりあんまり差し出がましいことも言えないが。とこっそり胸の内で呟いた。
…彼の部屋のコーヒーメーカー。多分根本的にどっか使用方法間違われてるとかじゃないかなとか。正直な本心では、ほんの少し疑わないこともなかった。…かも。
その晩、大晦日の夕食は結局少々天麩羅を揚げてお蕎麦を食べる。って形になった。
「あなたはまだ成長期でしょうから。天麩羅を多めに食べてください。そんな量で足りますか?」
意外にそういうとこ心配をしてくれる。他人のことなんか全然視界の外で根本的に関心がないんだろうと思い込んでると調子狂うな、と戸惑いつつ気遣いしてもらえるのはやっぱり嬉しい。わたしは素直にありがたく受け応えた。
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