第9章 濃いコーヒー、薄いコーヒー

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「はい、充分です。海老とかささ身も揚げてたんぱく質も摂れるようにしましたし。野菜もきちんと…。あの、無理にとは言いませんが。柘彦さんも出来るだけお腹いっぱい、召し上がってくださいね」 彼はこっちが微笑ましくなってしまうくらい生真面目な顔つきで神妙に頷く。 「大丈夫です。お気遣いなく。これでも普段より今日はだいぶ多めに食べていますから。…天麩羅もさっくり揚がっていて、お上手ですね。それと蕎麦ですが」 いえそんなこと。とこっちが照れて謙遜する間もなく、彼がしげしげと手許の箸を眺めるのを見て既に次の台詞の予想がついてしまった。 「…お蕎麦の味。します?」 彼はてらいもなく実直に答えた。 「はい。蕎麦って、こんなに香りが強いんですね。これまで食感だけのものだと思い込んでいました。蕎麦つゆの味で食べるものなんだな、と」 蕎麦つゆの味はわかるんだ、さすがに。と考えたけどそれは黙っておいた。彼は大真面目な様子だしきっと本人的には重要な発見なんだろう。茶化してると思われたくない。 「…眞珂さんは。本当に料理の才能があるんですね」 心底から感嘆した、みたいな声を出されてさすがに弱る。いやその。 「天麩羅を褒めていただいたのは一応ありがたく受け取っておきますけど。…お蕎麦はわたしが打ったんじゃなくて、普通に売ってる乾麺です…」 ちなみにこれは翌朝のお節とお雑煮の餅でも全く同じ。おなじみのパターンの会話が繰り返されることとなった。 二人で深い意味もなく何となく食後の片付けのあと、キッチンから図書室に移動してそれぞれ思い思いに過ごして年が明けるまでを一緒に待ちながら漠然と懸念する。…やっぱりこの方、無意識にすごいストレスの重圧を受けて暮らしているのでは? 普段ほとんど食べてるものの味を感じていないのかも、とちょっと怖い想像が頭をよぎる。でも、そうか。 それはそれとしてもだとしたら、今日に限って味覚を取り戻してる理由がわからない。わたしの料理の腕のおかげね、ってのは却下。検討する余地もない。 だって、コーヒーといい蕎麦といい。マシンにセットしてスイッチいれただけ、茹でただけで特にわたしならではの手のかけ方はしてないわけだから。特別な味付けをしたもの限定で褒められたならともかく。どう考えても調理を誰が手がけたかって問題じゃない気がする。いつもと全く同じ出来の澤野さん特製ローストビーフも褒めてたし。 だとすると考えられる原因はひとつ。食べ物の方じゃなくて柘彦さんの状態がいつもと変化した、と想定するべきだ。…今日大晦日に限って。昨日までと違ってることって、なんだろう? 「…柘彦さん」 気がつくとふと小さな声で、テーブルについて俯き静かに何か読み耽っている彼に話しかけてしまっていた。 あ、しまった。どちらともなく一緒に図書室に赴いたけど、本を眺めたり読んだりするのはお互い自分のペースで。彼の静かな時間の過ごし方を邪魔をしたりしないように、とさっきから自分に言い聞かせていたのにな。衝動的に声が喉から出ていた。 彼はでも、特に気を悪くした風でもなく顔を上げてわたしの方に穏やかな目線を向けてくれた。 「はい。どうしました?」 「いえあの。…もしかして答えにくい話かもなんですけど。以前からちょっと、心配してたことでもあって…」 書棚の間に立っていたわたしは彼の方に身体を向けて、手を揉み絞りながら必死に切り出し方を考えた。 「…このお屋敷。最近、うるさ過ぎてないですか?柘彦さんみたいな方には」 彼は多分、そんなことないですよ。と深く考えず機械的にその問いをいなそうとしたんだろう。彼の台詞を邪魔するのはやや気が引けたが社交辞令や無難な受け流しを聞きたくて思いきったわけじゃない。わたしは下を向いて言いにくいことを口にするように一気に言葉の先を継いだ。 「あの。これまでと較べると、ここ一年弱で急にいろいろと変化があったと思うし。バラ園の一般公開もあって、柵の向こうだけじゃなく母屋にも…、カフェ開店で、お客さんが来るようになったし。バイトの店員が住み込んだり、わたしとか。…これまでいなかった人間も増えたし」 自分のことを引き合いに出すときさすがに心臓がばくばくした。でも、結構大きな変化だよね。以前は茅乃さんと澤野さん、常世田さんしかいなかったところにわたしや哉多みたいな騒がしいのが一気にやってくるようになった。 「…今まで静かな大人しかいなかったところに急に人が押し寄せたから。わたしや茅乃さんたちには別に平気な騒音や気配でも、柘彦さんにはもしかしたらつらいのかなって。…しかも、ゆくゆくはもっと公開部分が広くなっていくかも。お屋敷の中も見学できるようになるとか。お客さんを泊める部屋を用意するかも、って話になってるみたいですけど。柘彦さん、ほんとに大丈夫なんでしょうか。そんなの」 彼の静謐な、プライベートな空間がどんどん侵食されていく。 他人の存在なんかもともと視界に入らない。関心がないから一切すぱっと切り捨ててないものとして振る舞える、ってことなのかなと何となく勝手に解釈してた。
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