第9章 濃いコーヒー、薄いコーヒー

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だけど普段食べるものや飲むものの味も感じていないのかも、との疑いが出てきたら少し怖くなった。 本人も自分自身の状態に無頓着で気に留めてる様子がないだけで。本当は目に見えないストレスがこのひとの心身をいつの間にかじわじわと蝕んでる、って可能性はない…、のかな? 言葉を切って何とか顔を上げると彼の目許がふ、と僅かに緩んだのがわかった。片手を軽く上げてそっと動かす。ぼけっとその動きを目で追ってしばらくして、手招きしてるんだ、とようやく理解して慌ててテーブルの方へと近寄った。 「…どうぞ。そこに」 向かいの席を指し示す。座りなさい、と言われてるんだ。と解釈して素直に椅子を引き、すとんと子どものように腰を下ろした。 柘彦さんは広げてあった本をはたりと閉じ、テーブルの上で軽く両手を組んで正面のわたしに視線を向けた。何というか。…担任の先生と個別面談するときの雰囲気を思い出す。 「この家は。僕が自分の力で手に入れたものではありません」 「…はい」 それは知ってる。だって、昭和初期だったか大正時代だったか忘れたけど。とにかく大戦より前に能條家のご先祖が建てたものなんでしょう。 彼はわたしがどこまでその辺の事情を知らされてるかわからないのかもしれない。ゆっくりと、自分に言い聞かせるように独り言のような口振りで説明を始めた。 「僕がここに住めて特に社会的に何の役目も果たすこともなく、それでいて毎日安楽に暮らせているのは。単に祖先から受け継いだもののおかげです。これを手に入れるのに何の努力もしていない。…それどころか。この全てを維持するためにも、一欠片の貢献もしていません」 「そんな。…こと」 淡々として、ただ事実を述べるだけと言わんばかりの口調。そこには何の感情もなくて、特に同情を買おうという意識もないのはわかる。 だけどやっぱり、余計なことと思いつつも黙って聞き過ごしてはいられない。 テーブルにじり、と身を乗り出して熱を込めて言い募ってしまう。 「だって。…そもそも柘彦さんがいなければここはとっくに、会社の持ち物になってしまってるんじゃないですか。あなたがここにこうしてちゃんと住んでいるから、お屋敷が能條家のものとして保存されてるわけでしょ。古くて広すぎて手入れが面倒だからここから出て別のところに住むって選択肢だって。…あったかも。しれないのに」 彼はほんの少し、見てとれるかどうか程度に肩をすぼめて短く返してきた。 「単にそこまでするのももの憂いだけです。どうしてもここでなければってほどのことでもない。…ですが、他の場所を探すのも面倒ですし。特に何のこだわりもないですからね」 「それでも。…この館のためには、ご先祖から引き継いだ由緒ある当主の方が必要なんですよ。ここにいてくれることが多分、一番。何よりの貢献なんだと思います、お屋敷にとって」 ただここにいてくれるだけでいい。と思ったらつい台詞に熱意を込め過ぎてしまった。 彼は特にそれを怪しむ風でもなくふ、と軽く微笑んで熱の入り過ぎたわたしをいなす。 「あの人…、茅乃さんも同じように言いますね。当主がこの館を受け継いで現在も居住し続けている、現役の洋館なんだって実態が何より重要なんだって。…彼女は僕なんかよりずっと真剣に、真面目にこの家を大切にしていますから。いつもここをどうやったらより良い状態で維持し続けられるか、ってことを最優先で考えてくれているようです。僕より若いのに。本当にしっかりした子です」 「え。…歳下なんですか。茅乃さんの方が」 思わず心の声がもろに出た。…柘彦さんの前でまだよかったが。 茅乃さんの前で同じこと正直にぽろっと零してたら。すかさず容赦なくスマブラみたいに遠くまで吹っ飛ばされてるとこだった。…かも。 彼は全く意に介する風もなく平然と肯定した。 「僕が三十になったところで、彼女は確か二十八だったかな。二つほど下、と認識してますが」 「ふえ。…そうなんですか」 わたしはため息をついた。どう見ても柘彦さんの方が控えめで、茅乃さんの方が断然態度がでかいから。いとこ同士でも彼女の方が歳上だから威張ってるんだとばっかり思ってた…。 断じて彼女の方が老けてるからっていうような理由ではない。だけど、そう明かされても彼の方が特別歳上に見えるようになるわけでもないが。相変わらずの年齢不詳。 彼はわたしの感慨をどう受け取ったのか、特に気に留めた様子もなく話の接ぎ穂を継いだ。 「この洋館が歴史的建築物としてそれなりに貴重なものだということは承知しています。だけどそんな資産を何の労力も費やさず受け継いだのにも関わらず。本腰を入れてその保持に努めてもいない自分が、あんなに頑張ってあれこれと試行錯誤までして工夫を凝らしている彼女に何か不満があるわけないです。その尽力に感謝こそすれ、我慢してることやストレスなんか。…考えただけでもばちが当たります」 「でも。いくら何でも自分の家なのに。わけのわからない他人がずかずか立ち入り過ぎじゃないですか?」 わたしとか。
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