第9章 濃いコーヒー、薄いコーヒー

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そりゃ、わたしを最初にここに引き入れたのは柘彦さんその人かもしれないけど。それは雨に濡れて野宿してたわたしを、温かいお風呂に入れてご飯を食べさせてさっぱりさせてやってくれって意味だったんじゃないか。まさか勝手にここに住み着かれて。またさらに得体の知れない同居人が増えるってことまで予測してたとは到底思えない、んだけど。 釈然としないでいるわたしを安心させようとしてか、彼はほんの僅か口の端を上げる程度にだけ笑みを浮かべてみせた。 「大丈夫ですよ。あなたは心配する必要ない。僕は彼女を信頼して全て任せてます。自分でやりやすいように何でも勝手に決めていいよ、と伝えてありますし。それでもあの人はいちいち律儀に僕に了承を求めてくるんですけどね。別に、気にしなくていいのに。これまで断った件なんて一つもないって、あの人もわかってるはずなんだけどね。…でも」 わたしを励ますようだった笑みがそこでふと緩んで、彼の内側から湧き上がってきた『何か』を浮かべた目にとって代わった。…ように思えた。 「特にどうなるか考えて了承してきたわけでもなかったんですが。…今の状況は思ったより全く、悪くないです。館や庭のどこかでいつも人の気配がしていて。君や他の誰かの元気な弾んだ呼び声や受け応えが、どこからともなく伝わってくる」 それって。…結局うるさい、ってことでは? 恐るおそる尋ねかけたのを封じるように手で軽く押しとどめ、柔らかな声で言葉を重ねた。 「図書室で本を読んでいるとき、部屋で寛いでいるとき。ふと聴こえてくる声や気配に生命の力を感じるみたいで何だかほっとします。これまでこの館は死に絶えたみたいに静か過ぎました」 その凪いだ水面のような薄茶色の瞳がわたしを正面から見据えたのがわかって、台詞の内容が頭に入らなくなりそうなくらいどぎまぎする。 「…だけど、今年は。思い返せば本当にいろいろありましたが、その結果ここはむしろ生き返ったように思えます。そういう意味では。僕は、今のこの状態の館の方が。以前よりずっと、好きですよ」 もうすぐ着く、ってLINEを受け取ってたから時間を見計らって門のところで到着を待つ。程なくしてお父さん所有の白のハイブリッド車で坂を登ってくる姿が視界に入ってきた。 すっ、とほとんどブレーキ音のしない車を奴が停めたタイミングでさっさと門から出てがしゃんと閉じる。ロックが外されたのを見計らってドアを外から開けると、運転席の哉多にいきなり勢いよく尋ねられた。 「どうよ、眞珂、今んとこ。昨夜からあんな白いおっさんと二人っきりでまじで大丈夫?何か変なことされてない?」 「何言ってんの。あんた、正気?」 わたしはぶっきらぼうに肩をすくめて助手席に乗り込んだ。わざわざ初詣に行こうって迎えに来てくれたのにあんまりな態度か、と思い直して語調を改めて明けましておめでとう、と告げる。 「あけおめ。いや、冗談言ってるんじゃないから。一応あれだって男だろ。あんな広いお屋敷とはいえ一晩丸々二人っきりなんて初じゃん。…でも、そっかあ。やっぱ眞珂じゃ無理か、あれは。まあねぇ、そりゃ。そうだよなぁ…」 む。どういう意味? と問い返そうと口を開きかけて止めた。まあ、何言いたいかわからない振りをしたいけど不本意ながら何となくわかる。意外に本気で凹むかも。 そりゃ、そうだけどさ。当然だよ。…とは思う。わたしも同意だが、無論。 ばたん、と乱暴になり過ぎないよう気をつけてドアを閉め、シートベルトを締める。バックミラーに目を配りつつ慣れた様子で車を発進させる哉多につい噛みついた。 「わたしが女に見えない、って意味?わざわざ口に出して当てつけてんの、あえて?」 奴は取り繕うでもなく落ち着き払ってハンドルを操りながらのんびりと返してきた。 「お前がどうこうって言ってないよ。普通に考えて女に見えないことないじゃん全然。だけど、あの男は普通じゃなさそうだからなぁ。少なくともロリじゃないってことだよな。十代のJKなら何でもいい、って典型的な日本のオヤジではないってことだから。まあ、せめてある程度は大人の女じゃないとぴくりとも来ないってことだろうね」 がーん。 いやわかってるけど。…十八の女の子ならへのへのもへじでもいい、なんて輩よりは断然、自分の同年代以上じゃないと対象外って大人の男の方が絶対いい。だけどなぁ。 そうはっきり言われちゃうと。…うーん、でも事実。自分が彼から異性として見られてる、って手応えは。正直ここまで一つも、全く実感できない。のは確か、…かも。 わたしは憮然となって、ゆったりと発車した車内で座席に深々と背中を埋めた。 昨日の大晦日から今日、元日のお昼まで。二人で一緒に支度をして差し向かいで食事をし、後片付けも協力して済ませた。それできっかりそれぞれ自室に戻るでもなく、何となく揃って図書室に移動して遠く除夜の鐘を聴くまで徒然に会話をしつつ時間を潰した。 それで年が明けたのを確認して明けましておめでとう。今年もよろしく、と挨拶を交わして各部屋に戻って眠りにつき、翌朝は一緒にキッチンでお節の支度をして二人きりでお正月の朝を迎えて…。 例によって微かに驚いたようにお餅ってお米の味なんですね。こんなに甘味が強いんだ、と感想を述べる彼はごく自然な態度でリラックスしているように見えた。
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