第9章 濃いコーヒー、薄いコーヒー

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第9章 濃いコーヒー、薄いコーヒー

いろいろ考えて、結局わたしはその日の昼食を使い慣れたカフェの調理場で作ることに決めた。 やっぱり昔取った杵柄って言うし。てほどまだそこで働いてたのは全然昔とは言えないけど、何よりこのカフェの空間をいい機会だから柘彦さんに味わってみてもらいたかった。元がサンルームだから真夏はクーラーがんがんにかけないと酷いことになるけど、この時季はちょうど陽の光をいっぱいに集めてぽかぽかと暖かくて気持ちがいい。 普段は使わない場所だから久々にガスの元栓を開けて、調理器具や食器をさっと洗って手入れする。残念ながら冷蔵庫は今から電源を入れてもすぐには冷えないので、食材をキッチンから使う分だけその都度持ち込むしかない。 頭が擦り切れるほどうんうん唸って悩んで、結局決死の思いで内線電話をこちらからかけることにした。ていうか昼食の場所をカフェにするのをまず彼に伝えなきゃならない、どのみち。さっきの通話でそのことについては全く提案してなかったから。 一人で頭を悩ますよりそのついでにオーダー取った方が話が早い。別に何でもいいよ、と言われるかもしれないけど。 『…はい。どうしましたか』 いきなりコールしても全く動じた風もなく、凪のような平静な声しか返ってこない。こんなときふと頭の端で、ほんとにこの人コミュ障なのかな。よく知らない他人と急に話さなきゃならなくなる場面ではついぎこちなくなったり不審な言動を取りがちなのはその手のタイプならみんなあるあるだと思うんだけど。と疑念がよぎる。 そんなのわたしくらいか。ていうか実際、柘彦さんがコミュ障仲間だっていうのはただのこっちの勝手な思い入れに過ぎない。他人に関心がなくて不特定多数と接するのが嫌だってことは必ずしもコミュ障とイコールではない。 コミュニケーションができない、とコミュニケーションが嫌いは似て非なるものだもんな。と改めて胸の内で認識する。 「…あの、何度もすみません。わたしです。奈月、…眞珂と申します」 いきなり前後脈絡もなく自己紹介してしまった。今さらながら、この人わたしのフルネーム知ってるっけ?わたしはきちんと正式に名乗ったことあったっけ、と自信がなくなったから。 何の感情の色もなかったその声に僅かに笑みの気配が滲んだような気がした。 『存じ上げてます。眞珂さん、ですよね。大丈夫ですよ』 少なくとも自分の下の名前が彼の口から出たのは初めてな気がする。舞い上がりそうになるのを何とか抑えて、努めて冷静に話そうと頑張って頭を整理した。 「あの、天気もいいし。他の人も今日は館に誰もいないから…。カフェのキッチンで作ってそこで食べるのは駄目でしょうか。あ、元はサンルームの場所なんですが、一階の。そこで調理できるように改装されてるんですよ」 『ああ、そうですね。それは聞いています。確かに、カフェに改装されてから一度も足を踏み入れてはいないから。…だったら、そちらに伺うようにしますよ』 快く受けてくれた。やっぱり、こっちががちがちに緊張して構えてるほど話の通じない気難しい人ではない。それは理性ではわかってるんだけどね。 なのにどうしてわたしはいちいち彼の前に出るたびに気持ちが焦って言葉が上手く出なくて不審な動きをしちゃうのかな。怒られたり不機嫌な態度を取られたり、無視されたことすら思い返してみれば一度だってないのに。 いつもきちんと対等に接してくれてるもんね。と自分に言い聞かせてるうちにようやく冷静にものが考えられるようになってきた。なるべく手短にわかりやすく、彼の時間を無駄にしないように。 「あの、それでメニューなんですが。パンケーキとローストビーフサンド、どっちがいいですか?パンケーキはお客さまに出せるくらいの腕になったので今でもそこそこ焼けると思うし。今見たら澤野さんが作っておいてくれたローストビーフと買い置きのバゲットがあったから、そっちも人気メニューだったんで食べて欲しいなぁと…。柘彦さんはほんとにどっちでもいいかもしれないんですけど。さっきから迷っちゃって、決められなくて」 結局思うところをそのまま正直にぶっちゃけた。 彼は全く面倒そうな様子を表には出さず、ほんの少し黙って考えたのち温厚な声で提案してきた。 『…それでは、両方作って半分ずつ分けるというのでは。どうでしょう?二品作るとなると手間が大変でしょうから、僕も今から降りて行ってお手伝いします。あまり慣れてないので役には立たないかもしれませんけど』 ふぇ。 「いえそんな、…ご当主様にそんなこと。お手伝いなんて、させるわけには」 さすがにパニック気味になってごにょごにょと支離滅裂なことを呟くばかり。いえあの、柘彦さんが包丁握ったりサラダ菜洗ったりするの?正直見てはみたいけど。…やっぱり、申し訳ない。 彼はわたしの慌てふためいた反応を全く気にする風でもなくあっさりと話を片付けた。 『当主なんて名目だけの話です。何の意味もない立場ですから、お気遣いには及びませんよ。それでは、今からサンルームに伺います。ほんとに使えないかもしれませんが。そこはご容赦ください』 「いえいえ、…まさか。使う、だなんてそんな」 切れた。
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