転生令嬢の可愛い婚約者

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転生令嬢の可愛い婚約者

 この世界では、時間があればお茶をして、その度に、お菓子が出てきて、また何かと着替えさせられ、これが貴族の令嬢の暮らしだとは思うのだが、非常に落ち着かない。  先ほども、お母様のお友達という方が来て、お茶に付き合わされ、一口だけ食べて置いていたケーキをお口に合いませんでしたかと下げられそうになったときは、慌てて全部口に入れたので、お客様の前ではしたないと叱られてしまった。  そう言われても、もともと、貧乏性の節約生活で38年暮らしてきた私には、一口食べて捨てるなどよほどの腐ったものだけで、とてもでないがこの生活に慣れることができない。  というのも、この世界は今の私にとっては異世界なのである。私の人格や記憶は、日本という現実世界で生きてきたもので、この異世界に生まれ変わり、何がきっかけか分からないが、突然、前世の記憶として私が甦ったのだ。  複雑すぎて、自分でも理解しがたいが、もともとの性格や思考といったものは消えてしまい、記憶も朧気である。  中世ヨーロッパ風のこの世界で、私の名前は、マリア・リングス、子爵家の令嬢として生きている。年齢は17歳だ。色白で赤茶色の長い髪に深い緑の瞳をした、可愛らしい女性だ。  そして、前世の私は、真野香苗(まのかなえ)という名前で、記憶にある当時は年齢は38歳で、結婚歴なしの独身。身軽な独り暮らしで東京で働くごく普通の女性だった。  そして、朧げな記憶だがなにか事故に巻き込まれた気がする。そこからの記憶がない、という事は、そこで香苗の人生は終わったと考えて間違いないだろう。  マリアとして気がついたのは一月ほど前になる。何度も色々な可能性を考えて、たどり着いた結論が、異世界への生まれ変わり、つまり転生で、この先マリアとして生きていかなくてはいけないということ。  それならばと、この世界について学び、生活に少しでも早く慣れるように手探りでやってきたのがこの一ヶ月だ。  香苗の頃は、派遣社員として会社を渡り歩いたので、新しい環境で人間関係を作っていくことは苦ではなかったが、異世界は分からないことだらけで、いまだに驚いたり慣れなかったりということばかりだ。  マリアは、両親に甘々で育てられており、絵に描いたような、我がままなご令嬢に育った。  昨年社交界デビューしたばかりだというのに、すでに数えきれないくらいのドレスを持っていて、そのほとんどが使った形跡もないという贅沢ぶりで気絶しそうになった。  当然パーティー三昧だったらしく、友人らしき者達から連日のように誘いがあったがそれらは全て断り、生活を正し足元の人間関係から改善することにした。  私がマリアになって最初の頃は、屋敷の使用人達から、冷たい視線を浴びて距離をおかれていたが、それもここ一ヶ月でかなり改善したと思う。  今日も与えられたスケジュール通りに、レッスンをこなした。ダンスに関しては、もともと社交ダンスを趣味として習っていたので、身体で覚えている部分も多くかなり助かった。教師からは、いつの間に特訓したのだと驚かれるほどだった。 「お嬢様は、本当に人が変わってしまったようで……、なんというか、ずいぶんと突然大人になってしまったようで、私はちょっと寂しいです。あっ、前の賑やかなお嬢様は確かに困ってはおりましたが……、どうも子供らしさがなくなってしまったというか…、うーん、複雑です」  素直な胸の内を明かしてくれたのは、侍女のメサイアだ。この世界のことを知るのに彼女にはずいぶんと助けられた。 「いつもありがとうメサイア。私も社交界デビューも終わりましたし、そろそろこの先のことを考えて、行動には責任を持たないといけないと考えました。これも成長と見て驚かずに、応援してくれると助かります」  心を込めて話したが、メサイアは複雑な顔をした。大人しくなったと歓迎してくれる人もいるが、もともとマリアを甘やかしていた者達は、だいたいこの調子だ。もっと遊びなさいとか、もっと好きにしなさいとか、母親と父親にいたっては、そんな事ばかり言ってくるので、ここ最近は少し窮屈な気持ちになってきた。  ふと窓の外を眺めると、森が広がっていて、たくさんの木々が見える。 (ここから見える景色は、私の生きてきた世界とは違いすぎて、落ち着かないわ)  異世界だから、奇抜な眺めであるわけではない。ごく普通の森林だ。こんなものは、もとの世界でも同じようなものである。ただ、香苗が生きてきた世界では縁のなかったものだった。  香苗は、小さな港町の漁港で、魚の加工工場を営む両親のもとで生まれた。工場の二階が自宅で、窓から眺める景色は、海そのものだった。毎日潮の匂いと波の音で目が覚めた。小学生の頃に母が亡くなって、自分の下に弟が4人。そこからは、完全な母親代わりとなって、家のことを任され、空いた時間は工場の仕事を手伝った。  高校を卒業してから、親戚のつてを頼って東京へ出て就職した。初めて一人で暮らしたアパートの窓からは、隣のマンションの壁しか見えなかった。その後は派遣社員としてがむしゃらに働き、弟たちを大学に入れるために、必死で仕送りを続けた。いつも会社と家の往復で、電車の中からも、会社の窓からも見える景色といえば、高いビルばかりでこんなに緑が豊かな、山の中のような場所で暮らしたのは、初めてだった。  17歳という年齢にも、戸惑いがあることは確かだ。自分が17歳の頃、何を考えて過ごしていたかなど、全く思い出せない。毎日学校が終わると走って帰って、その日の納品リストをチェックして漏れがないか確認する。繁忙期であれば、バイトさん達に残ってもらって、自分も生産ラインに入って夜遅くまで働いていた。いつも体に魚の匂いが染みついていた、それが自分の17歳の青春だった気がする。 (香苗として生きてきた人生に悔いはない。行き遅れて結婚は難しかったけれど、それでも満足だった。まさか17歳を今からやり直すとは…)  甘やかし代表の両親に呼ばれて部屋へ行くと、いつもヘラヘラしている父親が、珍しく真剣な顔をしていた。 「えっ?結婚ですか?」 「そうだ。もともとマリアは自分で見つけると意気込んで、連日のようにパーティーに参加していたのに、最近はぱったりと行かなくなってしまったじゃないか」 「それは、まだ17歳の娘が、あのようなお酒も出る席に参加するのは、いかがなものかと思ったからです」 「あら、パーティーなんて、そんなところじゃない。前は喜んでドレスも買っていたのに…。私たちは心配なのよ。容姿は良いのだから、もっと積極的に動かないと!うちは下流の貴族だし、財産も少ないのよ!16で婚約している令嬢なんてたくさんいるわ!マリアは少し遅いくらいよ」 (まさか、生まれ変わって、しかも17歳で、行き遅れを心配されるとは…。これじゃ、香苗の時と一緒だわ…) 「お前が動かないのであれば、私が、良い話がないか探すまでだよ。私の付き合いは狭いから、あまり良い相手は期待しないでくれよ」 「ええ。そういったことであれば、私はお父様にお任せします。どうぞよろしくお願いいたします」  そう言うと、両親は揃って、微妙な顔をした。らしくないというやつだろう。少し希望を伝えたほうが良かったのだろうかと思ったが、なんと言っていいか思いつかなかったので、それ以上言わなかった。  そういえば、香苗の頃も、父が気にして、見合いの写真を送ってきたことがあった。弟たちのために、自分の人生を無駄にしないでくれと、泣かれたこともあった。 (結婚したくないわけでは、なかったんだけどな)  20代は、まさに仕事仕事だった。それなりにモテたし、何人か付き合った人もいた。プロポーズのような話もされた。でも、やはりお金の事を考えると、結婚には踏みきれなかった。仕送りも続けたかったし、結婚費用もばかにならない。そんなことを考えていたら、あっという間に30代になり、途端に誘いがなくなってしまった。年齢を言うと、相手が一歩引いてしまうのが分かる。そこをなんとかしてまで、切り崩そうとする力が、もう自分には残されていなかった。  いつの間にか、そういう対象で見られる機会はなくなり、もう一人で暮らす老後を考えて、マンションでも買おうかと思っていたくらいだ。 (そんな私が相手に何か望むなんて、おこがましいわよね…)  そんな時、私のその後を決める運命の出会いは、突然舞い込んできた。お父様からではなく、遊びに来ていた母の弟で叔父のブラウンさんからだった。 「マリアは結婚相手を探しているのかー!ようし!ちょうどいいヤツがいるんだけど、どうかな、紹介させてよ、姉さん、義兄さん!」  久しぶりに姉の顔を見に来た、叔父のブラウンさんは、屋敷に到着して、お茶を一口飲んでから、面白い事を考えたように、目を輝かせてそう切り出した。確か30歳になったらしいが、独身を謳歌していて、まだまだ子供のような人だ。 「学生時代の後輩で、今年28歳になる男だよ。昔から非常に優秀で見た目も良くて、女にモテた。最近、離婚したばかりで、気落ちしているから、元気を出すには、新しく結婚するのが一番!どう?どうかな?」  なんというか、考え方が常識とはかけ離れたタイプで、父も母も頭を抱えた。 「ブラウン…、いい加減にして。マリアは、17歳で初婚の令嬢なのよ。こちらも再婚であれば、話もわかるけれど…、そこまで妥協しなくとも、まだまだ良いお話はたくさん来るわよ」 「じゃあ、これを聞いたらどう?彼は、もう爵位を継いでいるから、侯爵家の主だよ。ヴィンセント・フォレスター侯爵。領地は広いし、王都にでかい屋敷もあるし、別宅もわんさか持っている。貿易の事業も成功していて、金の心配なし!性格も良いやつだから保証する!」  これを聞いて、父も母も目の色が変わった。 「…無下に断るのは失礼だな。一度お会いしてみるのはどうだろう」 「…そうね、いまどき離縁は珍しい話ではないし。失敗は誰にでも。おほほほっ」 (分かりやすい人達だな…) 「マリアはどう?君の意見も聞きたい。というか今日はずいぶんと大人しいね」 「その方は、この話をご存じなのですか?」 「え?俺が今思いついただけだよ」 「…なるほど。であれば、離婚されたばかりとお聞きしましたので、少なからず、結婚に関して否定的で前向きになれないと思います。そんな中で、先輩からどうしてもと言われたら、断りづらいと思いますので、まずは、この先の考えについて聞いてみていただけますか?もし、前向きな回答があれば、この縁談を提案してはいかがでしょうか。私の方はその方の意向を聞いた後で結構ですので」  そう言うと、ブラウン叔父さんは、ポカンと大きな口を開けて後ずさった。 「どうしたの?え?本当にマリア?あの、金持ちの良い男いたら紹介してー!とか言って、ギャーギャー騒いでいた子が…。なにかの策略?」  ブラウン叔父さんは、慌てながら、父と母を見るも、二人共もう慣れたもので、ちょっとね、色々あってとか言いながら、それ以上の追求を避けた。  叔父さんは、良い返事を期待しておいてと言って持ち帰ったが、縁談の話までいっても、多分断られることになるだろうと思った。離婚した友人は何度も見てきた。皆、結婚に対してかなり後ろ向きになっていて、もう男なんていらないみたいな事を言って傷ついていた。しばらくしたら、再婚した人もいたが、さすがに直後に次へという人はいなかった。  自室に戻って、書棚から本を出してきて、適当に目を通していたが、あまり集中出来なかった。近い未来にくるであろう、結婚というものに、憧れがないと言えば嘘になる。  窓から見える木々が、風に揺れて、ざわざわと音を立てていた。この慣れない景色が、まるで自分の胸の内を表しているようで、何ともいえない気持ちになった。  □□□ 「はぁ?何を言い出すんだ?」  このところ、用もないのに頻繁に顔を出す友人が、夕食時に突然切り出してきた話に耳を疑った。 「だからさ、また結婚しない?って聞いたんだよ。だってしたいって言っただろ」  学生時代からの友人で、俺より2年先輩のこの男は、ブラウン・ハミルトンという名前で、30歳を過ぎても、面白いことや、興味のあることに首を突っ込んで、痛い目に合ったことは数知れず。学生時代は世話になったので、その度に、助けてきたが、いつも突然思い付きで色々とやらかすので、とても困った友人である。  この日も仕事場に顔を出して、話があるからと、目を輝かせていたので、嫌な予感がした。夕食に招待すると開口一番、お前この先の人生ずっと一人かと問われたので、何を言い出すかと思ったが、いずれは次の結婚も考えていると言った。確かに言った。するとブラウンは、じゃ、若い子紹介するから、すぐ結婚しなよと言ってきたのだ。 「…あのな、まだ離婚して一週間だぞ」 「もう、一週間だよ。それいつまで続けるつもりだ?一月?一年?気が付いたら何十年経ってるな」  俺が苦い顔をしていても、この男はお構いなしに、ずけずけと領域に入ってくる。 「だいたい、ジェニーと別居して一年だろう。向こうが男を作って出て行ったわけだし、遠慮することもない。気持ちの整理もついているだろう?」 「‥‥それは、気持ちの面では確かにもう、というか最初から、彼女とは上手くいかなかったから」  前妻との結婚は5年続いた。当時、お互いの両親が決めたもので、ほとんど顔を合わせることもなく、結婚したのだ。ジェニーは生粋のお嬢様で、放っておかれるのを特別嫌がった。派手な事が大好きで、いつも自分が中心にいないと気がすまなかった。パーティーには全部顔を出さないと怒り出したし、仕事で家を空けるなどというのも気に入らないと大騒ぎだった。そのうち、こんな生活耐えられないと、一人でパーティーに繰り出し、男遊びをするようになり、やがてそれが本気になり、ついに家を飛び出して帰ってこなくなった。一年経って、正式に離婚が出来たのだ。 「だいたい、若い子っていくつの子だよ」 「17歳」 「じゅ‥!まだデビューしたてじゃないか!?こっちは再婚だぞ!親が…」 「そりゃ、お前は侯爵様だから、親は乗り気だよ。というかうちの親戚だけどね」  ブラウンとの縁続きなど、ますます考えたくなかった。どう断ろうか考えていたところ、ふと、その本人のことが気になった。 「俺が若い女が苦手なのは知っているだろう。あの構って欲しいとか、私だけ見てとか、そういうのはもう勘弁してほしいんだよ」 「それは、ジェニーのこと?上手く関係を作れなかったのは、お前にも責任がある、若さの問題じゃない」 「……その子は何て言っているんだよ」 「ん?あぁ、それがなんというか、最近雰囲気が変わってしまって、前はもっと、キャピキャピ!イェーイ!パーティー!って感じだったんだけど」  思わず顔が引きつったまま動かせなくなった。その台詞を聞いただけで、ゾッとして、ひどく疲れを感じた。 「離婚したばかりだと、結婚に前向きになれないだろうから、いきなり誘うなって怒られちゃった」 「は?」 「まずは、今後どうしたいのか聞いて、それから紹介してくれって。俺が誘うと断りづらいだろうからってさー。我が姪ながら、何か道を間違えてしまったらしい」  道を間違えているのはお前だと突っ込みたくなったが、それより、そんなことを言う女性に興味が湧いた。ブラウンの面白い病に、俺もかかってしまったのかもしれない。 「分かった。話を進めてくれ」 「いいの!?本当に!?やっぱり、傷心の時は若い子と、パァーと遊ばないと!あっ、遊んじゃダメか、…ま、適当に話してみてよ。気に入るかもしれないし」  喜ぶブラウンを見て、不味い選択をしてしまったのかもしれないと、後悔の気持ちが浮かんできたが、とりあえず、会うだけならと気持ちを切り替えた。  このところ、食事は味を感じなかったが、口に含んだワインの味が久々に美味しく感じた。  もしかしたら、自分は期待しているのかもしれないと思うと、複雑な思いでグラスの底を覗いたのだった。  □□□  あれから、一週間。  なんと向こうのお相手から、進めて欲しいという返事をもらって、両親は意気揚々と見合いの日を決めてしまった。きっと、叔父さんに言いくるめられて了承したのではないかと思った。  見合いの日当日、ど派手に着飾ってきなさいという、母の要望はご遠慮いただいて、柔らかい優しい印象のマリアの良さを引き立てるようなドレスを選んだ。  レモンイエローの裾がレースで縁取られたシンプルなドレスだ。見た目は幼い印象の残るマリアだったが、落ち着いたドレスで、ぐっと大人っぽい仕上がりになった。  支度が終わると、フォレスター侯爵はすでに到着していて、父と母、叔父も一緒に部屋で話しているようだった。呼ばれて部屋に入ると、叔父の隣にその姿はあった。  漆黒を思わせるような黒くて艶のある髪は、綺麗に後ろに流して整えてあり、色は白く、西洋の彫刻を思わせるような整った顔をしていた。濃い色の髪と対比するように、瞳は輝く黄金色をしていて、その美しさに目を奪われた。  お互い簡単に挨拶をすると、まずは、叔父がペラペラと学生時代の話を始めた。 「俺とヴィンセントが学友だったことは言ったけど、初めから仲が良かったわけではなくてね。もともとこいつは優秀だったからさ、入学早々、学生長なんて任されちゃってさ、まー三年のうちらは、ふざけた奴等が多かったから、誰も言う事きかないわけ」 「おい、その話を…!」  ヴィンセントの静止にも、我関せずに、叔父は意気揚々と話を続けた。 「あるイベントを三年がぶち壊して、会場をぐちゃぐちゃにしたんだけど、みんな帰った後の会場をさ、こいつ一人で片づけていてさ。何やってんのか聞いたら、自分の説明不足だったから、楽しみにしていた生徒のために、もう一回やるっていってさー、きっと楽しいはずだから、三年にもまた参加してほしいって、もう、ぐちゃぐちゃにされて、また誘うつもり?ってもう対抗する心がなくなっちゃって。で、俺が三年全員説得して、イベントは成功。それが縁で仲良くなったわけ」  良いやつでしょうとケラケラ笑う叔父の横で、当の本人は頭を抱えて顔を伏せていた。少し耳が赤くなっているのが分かった。確かに30近くなって学生時代の話を披露されるのは、かなり恥ずかしいだろう。  父と母も曖昧に笑ってやり過ごそうとしていた。 「良いお話ですね。学生時代の思い出というのは、その時だけのものです。苦労したり大変だった時の方が、ずっと思い出として残りますよね。それに、その頃から付き合いのある友人がいるというのは、すごく羨ましいです。誰でも持てるものではないですよ。どうぞ大切にしてください」  自分の学生時代を思い出しながら、しみじみと語った。港町にあった香苗の高校は、生徒数も少なく、仲が良かった友人も卒業後会うこともなく、何をしているかも知ることはなかった。  気が付くと、ヴィンセントは目を見開いてこっちを見ていて、横に座っている叔父もポカンと大口を開けている。すでに慣れたうちの両親だけが、目を伏せながら、お茶をすすっていて、その音が部屋に響いていた。 (なにかしら…、17歳の娘の台詞としては達観し過ぎていたかしら…) 「…なんか、マリア変わったね。落ち着いちゃった?前はもっと、パーティー大好き!ドレス大好き!イエーイ!って感じだったのに」  叔父の空気を読まない発言に、両親揃って、お茶を噴き出してむせていた。 「社交界デビューをして、少し浮かれていた時期もありましたが、よくよく考えれば、あのような、たくさんの男性がいて、お酒を嗜むような場所は、17歳の娘が行く場所として相応しくありません。私の貴族の令嬢としての責任を考えれば、参加する必要があるのかもしれませんが、私は何より、自分自身の生活が整っていなかったので、まず社交の場に行くよりも、自己を研鑽する必要があると考えたのです。レッスンはさぼり気味でしたし、屋敷の者達とも、まともな人間関係を築いておりませんでした。まずは、その改善に努めておりました。叔父様の期待を損ねるような状態でしたら申し訳ございません」  叔父の発言で、噴き出していた両親は、今度は椅子から転げ落ちそうになっていた。  どうやら、真面目に語っても、気に入らないらしい。 「……なんか、マリア、学校の先生みたいなこと言うね」  叔父も若干引いている様子だった。どう捉えられても良かった。この場だけ変に媚びて自分を作っても、後からボロが出るものだ。この先の長い人生、隠し通せるものでない。  ヴィンセントを見ると、肩が小刻みに震えていた。 「…くっ…くっっっ……、はっ…ははははははは」  頑張ったようだが、耐えきれなくなったヴィンセントは、お腹を押さえて、大口を開けて笑いだした。  ちょっと冷たい雰囲気のある方に見えたが、少年のような笑い方は、ギャップがあって、好感が持てた。 「くっくく……、なかなか面白い方ですね。良いですね。女主人はそれくらい気概があるほうがいい」  あー忘れてたけど、こいつも変わってたなと叔父がこぼした辺りで、両親と叔父は部屋から出ていった。 「マリア。ブラウンから聞いているかもしれないが、私は先日離婚したばかりなんだ」 「はい。そのように、聞いております」  二人きりになった部屋で、ヴィンセントからは笑顔が消えて、真面目な顔になって、続きの話が始まった。 「この話も、ブラウンからの頼みでなければ、正直引き受けなかった。前の妻とは色々あってね、結婚というものに、少し距離を置きたいという本音もある」 「そうですね。普通はそう、切り替えられるものではありませんよね」  ヴィンセントの片方の眉が上がったのをみて、知った風な口を聞いてしまったことを恥じた。結婚に関しては、香苗は未経験の素人なのだ。 「ただ俺は、今、この話は、流れてしまうのは惜しい気がしていてね」 「……え?」 「マリア、もう少し、君と仲良くなりたいんだ。ただ、すぐに婚約や結婚と捉えるのではなく、俺も一度失敗しているから……、いや、これは無責任かな」 (お友達から、という事かしら、でもその方が私の感覚としては自然だな。この世界はなんでも急ぎすぎる気がする) 「いいですよ。私も同じ事を考えていました。これきりにするには、もったいない方だなと。お友達から始めましょう。貴方の傷が癒えるまで」  ずっと仏頂面なのも、申し訳なかったと気がついたので、笑顔で答えてみた。というか、緊張していたせいもあるのだが、やっと気が抜けて、笑えるようになった。  ヴィンセントは、少し驚いたように、目を見開いたが、そのまま、下を向いて咳き込んでしまった。何か喉にでも詰まったのだろうか。  大丈夫ですかの問いには、気にしないでくださいと、謝られてしまった。  両親には、ヴィンセントから、まだ離婚して間もないので、少し時間が欲しいという回答が伝えられ、婚約などについては、保留となった。  そのまま、しばらく、何事もなく過ぎていくのかと思ったが、次の週、ヴィンセントから遊びに誘われた。  ちょうど、王都で豊穣を祈る祭りが行われているので、それに行かないかという誘いだった。  家での生活には、少し退屈してたのと、この世界のことを知るには良い機会だったので、喜んで行きますと伝えた。  迎えの馬車に乗って、山道を抜けていくと、貴族の屋敷がぽつぽつと現れて、そこを通りすぎていく。どこも、自然豊かだが、その中に突然大きな屋敷が見えるので、幻想的な雰囲気は見ているだけで飽きない。  マリアになってから、自宅を出たのは、これで二回目だ。一度目は、どうしてもと言われて、パーティーに連れていかれた。  自分の失態を思い出すと、今でも腹が立ってくる。 「どうしたの?何だか、少し怒っている?」  ヴィンセントに突然話しかけられて、ハッとした。不機嫌が顔に出るなんて、子供のやることだと恥ずかしくなった。 「……私、子供がパーティーに出るべきではないなんて、偉そうなことを言いましたが、貴族にとって社交は大事なことだというのは分かっているのです。ただ、一月前に参加したパーティーで、失態をおかしてしまい、それが頭から離れなくて、思い出して、時々腹が立つのです」 「へぇ、いったいどんな失態をおかしたの?」  あれは、マリアとして気がついてから、まだ日も浅い頃、お母様に強引に連れ出されて、パーティーに連れていかれた。  こういった華やかな場に出ることなど、ほとんど記憶になく、すっかり雰囲気に飲まれてしまった。  社交的な母は、あっという間に人の輪の中に消えてしまい、私は人の輪から少し離れたところで、ぼけっと突っ立っていた。  その時、明らかな酔客が近寄ってきた。  そして、完全にターゲットにされ、絡まれてしまったのだ。  会社の飲み会の席で、こういうことは、たまにあった。  上司であったり、同僚であったり、または、隣の席の客であったり。  そういう時は、相手にしてはいけないのが鉄則だ。何を言われても、適当に聞いてますとフリをして、さりげなく逃げるのが一番良い。下手に言い返したり、完全に無視をすると、余計に逆上させてしまうのがオチだ。 「相手にしないで、適当にあしらって逃げるのが一番だというのは、分かっていました。ただ、その時は、雰囲気に飲まれて、頭がまわらなくて、無視をしてしまったのです」  酔った男は、完全無視のマリアに、案の定、逆上して、腕を掴んできた。  気取っているんじゃないとか、そんなことを言われた気がする。腕を掴まれた時は、恐怖で動けなかった。  そのまま、壁に押し付けられて、無理やり抱きつかれてしまった。  酒とキツイ香水の臭いが混じって、吐きそうになった。  騒ぎを聞き付けたお母様達が、慌てて助けてくれたが、今思い出しても不愉快な気持ちになる。  余計な話をしてしまったかと、前を向くと、自分と同じように不機嫌そうな顔をしたヴィンセントがいた。 「それのどこが、君の失態なんだよ。悪いのはその男だろう」  しかも、何故か怒っていた。口調も何だか荒っぽく感じた。人の話を聞くと、感情移入してしまう、タイプなのかもしれない。 「ヴィンセント、……さん」  ここで、そういえば名前を言うのは初めてだと気がつく。すかさず、本人から、さんは、つけなくていいと、言われてしまった。 「お酒が出る席に行くということは、女性として、自分の身を守る方法も身につけておくべきだと思うのです。もちろん、一番悪いのは、あの酔った男性ですが、上手く対処できなかった私も、やはり良くないです。お酒は人を変えます。悪事を働いても、お酒に酔っていたからが、言い訳になってしまうんです。だから、対処できないなら、初めから行くべきではなかったと、そう思うのです」  話終わって、恐る恐るヴィンセントの方を見ると、やはり、眉間にシワを寄せて、不機嫌そうな顔をしていたが、ふいにため息をついて、両手を上げてお手上げというポーズをした。手にはめた質の良さそうな黒い革手袋が、やけに似合っていて、カッコいいと思った。 「君には敵わないよ。本当に17歳なのか?まるで母に言いくるめられているようだ。あぁ、これは、良い意味で、だよ。君の言うとおり、これからは、パーティーには、俺のエスコートで参加して欲しい。と言っても、俺はパーティーは苦手でほとんど行かないから、気を使わせてしまうかもしれないけど」 「いえ、そう言っていただけて、ホッとしました。私も華やかな場所は苦手です。それなら、自宅でヴィンセント様と踊ってるほうが、きっと、楽しそうだなと思います」  ヴィンセントは、先ほどまで、ムッとした顔で眉を寄せていたのに、今度は少し目が輝いて、機嫌が良さそうな顔に変わっている。なんて可愛い人だろうと思った。何しろ、香苗からしたら、10も年下の男なのだ。  向こうは10は年上だと思っているから、事実はそれでいいのだが、非常に複雑な関係だ。  あからさまに機嫌が良くなってしまったのを、隠すためか、軽く咳払いをして、窓の外に目を向けているのも、また可愛らしい。 「マリア、その、そんなに見つめられると……」 「あぁ、失礼しました。不躾でしたね」 「いや、そこまでは……、少し照れるだけだから」  また、そっぽを向きながら、少し顔を赤くしているヴィンセントを見て、微笑ましい気持ちになる。これでは、まるで年下の恋人みたいだ。年上としか付き合ったことがないので、こういった反応はとても新鮮だった。  大人の男はいつもどこか余裕があって、その育ちすぎたプライドが、頑なに隙を見せてくれなかった。  王都に着くと、早速祭りの会場へ行った。たくさんの出店や、人で混みあっていたが、外国の伝記を舞台で披露するものや、火を使った手品など、珍しいとされるものをたくさん見られた。  そして、歩き疲れて、カフェでお茶をすることになった。 「ふふふっ、その時の叔父様の顔が目に浮かびます。本当に子供のまま、大人になったような方ですよね」 「本当に、こんな学生時代のくだらない話が面白いの?楽しそうに聞いてくれるのは嬉しいけど」  カフェに入ってからも、ヴィンセントとの話はつきなかった。仕事柄、外国へ行くことも多いので、話題も豊富であるし、共通の叔父の話では、ユーモアたっぷりに学生ネタを披露してくれて、お腹が痛くなるほど、笑ってしまった。 「ええ、本当に……楽しいです。まさか、こんなに、よくお話しされる方だとは、思っておりませんでした」 「仕事柄、それなりには話す方だけど、それより、マリアの方が驚きだよ。年のわりに落ち着いているのは既に分かったけど、こんなに、よく笑う女性だとは……。顔見せの時は、ずっと表情が変わらなくて、大人しいのかと思っていたよ」  男性から、よく笑うと評されたのは、驚きだった。大人しい、落ち着いているというのは、香苗時代の代名詞みたいなもので、付き合った男性からも、もっと笑った方がいいと言われていたくらいだ。気づくと、家族と接していた時のような、素の自分が出ていて、ヴィンセントとは、不思議と気が合うのかもしれないと思った。 「すみません、うるさいのは苦手でしたか?ヴィンセントのお話が楽しくて、つい気を抜いてしまいました」 「いや、そんな……、俺はむしろ、そっちの方が……」  急にゴニョゴニョと、こもるように話したヴィンセントの言葉は聞き取れなかった。 「そうだ、先ほど見て回った店で、何か欲しいものはあった?今日の記念に何かプレゼントしたい」  それは、友人の範疇を超えているような気がしたけれど、断るのは失礼かと思い、一つ気になった物を頂くことにした。  それは、貝を合わせて作られた工芸品で、紐が付いていて、振ると、カラカラと音がする、キーホルダーのようなものだった。  子供向けのお土産らしく、こんなもので良いのかと何度か聞かれたが、これでいいですと言って、プレゼントしてもらった。  その後もしばらく散歩して、暗くなった頃、家まで送ってもらった。実に健全で楽しい時間だった。  別れ際、楽しかった分、無性に寂しくなってしまい、なんとか平静を装った。ヴィンセントの方は、急に饒舌になり、まったく、関係のない話を始めたりして、しばらく別れられずに、話に付き合ったが、最後に、やっと、また週末出掛けないかと誘われて、すぐに了承した。  その慌てぶりから、なんとなく、同じ思いであってくれるのかなと感じた。  部屋に戻っても、今日の興奮は冷めなかった。こんなに笑ったのは、どのくらいぶりだろう。マリアになってからは別にして、香苗の頃の話だ。  気ままな独り暮らしは、孤独と隣り合わせで、休日は誰とも会話せずに、独り言で、あぁ今日初めて声を出したなと、気がつくこともあった。笑いとは無縁の生活が続くと、表情筋は自然と動きを忘れてしまった。  まだ今日が終わらないのに、すでに次の週末を楽しみにしている自分が信じられない。ヴィンセントに買ってもらった、貝のキーホルダーを取り出して、カラカラと音をたててみた。海からは遠いと思えるこの場所で、海の気配が感じられるものは、嬉しかった。ここに故郷なんてないのに、遠いあの日を思い出して懐かしくなった。  この世界でも、いつか海に行けるだろうか。  自分の隣に立っている人を想像して、慌てて頭を振って打ち消した。歳をとると恋に臆病になる。マリアの歳なら突っ走ってもいいのかもしれないが、そんな青い気持ちはすっかり忘れてしまった。この熱を帯びた思いを、どこへ持っていけばいいのか、また一つ悩みが増えて、ため息をついたのだった。  □□□ 「これで、十五回目ですね」  一瞬何を言われたか分からなかったが、すぐに思い当たって、あぁそうだなと返した。 「それは、今朝から数えたのか?それとも……」 「ええ、この一時間の話です。今朝からの数をお教えしましょうか」 「いや、もう、結構。本当、セバスはよけいな事まで気が回るのだから困る」    セバスは、父の代からフォレスター家に筆頭執事として仕えている。昔よりは髪が白くなったが、完璧な仕事ぶりは健在だ。公私ともに自分を支えてくれる家族のような存在で、父が亡くなった後は、別宅に住む母の面倒もよく見てくれる。  そんなセバスは、よく目が効きすぎるので、朝から俺の様子に何か言いたげな顔をしていた。 「可愛らしい玩具ですね。ヴィンセント様にそのようか趣味があるとは、存じ上げませんでした…」  玩具とは、先ほどから、ヴィンセントの手の中でコロコロと音を鳴らしている、貝の玩具だ。子供への土産物によく使われるもので、合わせた貝の中に、石が入っていて、鳴らして遊ぶ単純なものだ。紐が付いてるのは、子供が腕で結ぶためだ。 (まさか、彼女がこんなものを欲しがるとは……)  出店で彼女がこれを選んだので、なんとなく興味が湧いて、自分の分も買ってしまった。このところ、それを転がしながら、その度にため息をついていた。 「…いや、これは、俺ではなく、彼女が欲しがったんだよ。つられて一緒に買ってしまっただけだ……。週末までは後……」 「3日です」 「なんだ、まだ、そんなにあるのか……」  仕事はほとんど終わらせたが、部屋に戻る気持ちもなく、コロコロと貝の音を鳴らして、またため息をついた。  なんであんな事を言ってしまったのか、後悔の気持ちがふつふつと湧き上がってくる。  初めはちょっとした好奇心だった。初めて目にしたマリアは、優しそうな瞳をした可愛らしい人だった。まだ幼さが残るが、そこに落ち着いた大人の色気が加わって絶妙な雰囲気があり、思わず目を奪われた。  しかし、ずっと表情は変わらず、喋る言葉と言えば、母と会話をしているような気持にさせるくらい固いもので、とても17歳の令嬢には思えなかった。しかし、彼女にもっと興味が湧いてしまったのも確かだ。  自分の事情が事情なので、まだ新しい気持ちに踏み出せず、無責任で中途半端な提案をしてしまった。だが、彼女は快く引き受けてくれた。そして、そこで初めて笑ってくれたのだ。それは、春の草原に突然花が咲き誇り、大地が匂い立つような美しさで、少し赤くなった頬に、今すぐ触れたいと思ってしまった。そして、わずか数秒で自分が口にしたこと後悔してしまった。  帰りの馬車の中では、ベラベラと喋るブラウンの声を聴き流しながら、ずっとマリアの事を考えていた。なんて馬鹿な提案をしたのかと後悔しながらも、身持ちの堅い彼女なら、焦って婚約せずとも、他の男に取られるようなことはないだろうと、またもや馬鹿な考えが浮かんできた。  そこで、ブラウンが、マリアと声にしたので、思わずブラウンの話に耳を傾けた。そういえば、マリア、急に綺麗になったな、あれは声もかかるだろうなと、それはまるで悪魔の囁きのように聞こえた。  慌てて週末の約束を取り付けて、ちょうど王都で開かれていた祭りに連れていくことにした。そこで、改めて婚約について、話をしてみようと思ったのだ。  馬車の中で、彼女から、パーティーでの失態を聞いた時は、腹が立って仕方がなかった。彼女の言い分も分かる、確かにそうではあるが、まだ17歳の令嬢にそこまで求めるのは酷ではないかとも思う。当然周りがフォローするべき問題なのではないかと、頭の中で考え出したら、ムカムカが止まらなくなった。そんな大人げない状態だったが、彼女がパーティーへ行くよりも、俺と踊ったほうが楽しそうだと言って、微笑んだだけで、俺の機嫌は完全に回復した。というか、嬉しくてたまらなくなり、さすがに自分でもあきれた。  そんな俺を、マリアは天使のような微笑みで見つめてきた。胸の鼓動は止まらなくなり、そこで自分が踊らされていることに気が付いた。10くらい若い、まだデビューしたての青い令嬢に、リードされているような気がして、もどかしい気持ちになった。  そこからは、なんとか自分が主導権を握ろうと頑張った。仕事で培った話題の引き出しを、これでもかと開けて、マリアに見せつけた。マリアは、よく笑い、笑って目じりに涙を浮かべ、笑いすぎてお腹が痛いと俺を責めるような目で見てきて、俺が戸惑うと、それを見てニヤリといたずらっ子のように笑って、楽しそうに先に歩いていってしまった。  その後ろ姿を見て、これはもう自分の負けだと感じた。  自分はマリアに恋をしてしまったのだと。  気持ちを自覚すると胸は切なく痛んで、彼女の顔を見るだけで心臓は早くなった。ジェニーとの冷めた結婚生活しか知らなかった自分に、こんな感情が備わっていたのかと、驚きと感動で胸は震えた。  マリアを喜ばせたくて、何でも買ってあげたくなった。宝石でもドレスでも、なんでもいいと思っていたが、彼女が選んだのは、小さな貝の加工品、子供の玩具だった。  変に遠慮されたのかと、複雑な気持ちでマリアを見ると、マリアは、小さな貝を指でなぞって、微笑んでいた。そして無意識なのか、鼻をつけて匂いをかいだ。そして、なんとも言えない悲しそうな、切ない顔をした。自分も真似をして、匂いをかいでみると、わずかに潮の匂いが鼻についた。マリアは何か、海に思い入れでもあるのかと、聞きたかったが、その横顔を見ると何も言えなかった。  送り届けた後、別れ際はもう最悪だった。すんなりと出ていこうとするマリアを呼び止めて、どうでもいい、くだらない話を長々として、それにマリアを付き合わせてしまった。そして一番言いたかった婚約について、進めたいという話は、喉まで出かかって止まってしまった。あれだけ、自分勝手なことを言っておいて、すぐに意見を変えるというのは、男としてどうなのだろうと思い始めて、そんな自分をマリアが不快に思ってしまったら、嫌われてしまったらと考えると、次の約束を取り付けるだけで精一杯だった。俺はいつの間に、こんなに腰抜けになってしまったのだろう。 「私は、ヴィンセント様が、そんなお顔をなさるようになって、嬉しく思っております」 「……セバス。だが、私は離婚したばかりで、彼女はまだ若いし、二回しか会っていないのに…」 「それがなんですか。愛しいと思うなら、年齢も時間も関係ありませんよ。気持ちに嘘はつけませんから」  堅物のイメージしかなかったセバスから、なかなか情熱的な考えを聞いて驚いたが、勇気付けられた気がした。  手の中の貝は、相変わらず気持ちの良い音で鳴いた。それを聞きながら、今度こそマリアに惹かれていることを伝えようと、気持ちを引き締めたのであった。  □□□  ¨お前といると、真面目すぎて窮屈なんだよ。家族のためとか言って、結局俺と結婚する気なんてないんだろ。やっぱお前無理だわ、つまらない女¨  20代の頃、そう言われてフラれた。  今思えば、自分の過ちが理解できる。ずっと、弟の手本であるべく、生きてきた。決まりを守り、弱さを否定して、人一倍、努力してやってきたつもりだった。  でも、いつしか自分に向けた厳しさは、人にも向いてしまった。気の緩みや、心の弱さが許せなくて、身近な人間には特に、うるさく言うようになった。  自分は間違ったことは言っていない。悪いのは向こうだ。そうやって生きていたら、いつの間にか、周りから恋人はおろか、友人と呼べる人までいなくなった。  一番上の弟に、姉貴は人に完璧を求めすぎだと言われた。人はそんなに完璧には生きれない、どこか損なっていて、真っ直ぐ生きようとするが、時には過ちもする。それを愛しいと思えなければ、誰とも生きれないと。  雷が落ちたみたいだった。自分の信じていたものが、音を立てて崩れ落ちた。  それからは、憑き物がおちたみたいに、他人のことが気になることはなくなった。  自分のことも、少しずつ許せるようになった。もしかしたら、また誰かを愛し愛されることがあるかもしれないと、そう思っていた矢先に、香苗の人生は終わってしまった。  二回目のお出掛けは、王都の劇場に誘われた。人気のオペラを見るという、貴族らしいお誘いで、長丁場ということで寝てしまうか心配だったが、素晴らしい歌に引き込まれ、豪華な衣装に目を奪われ、あっという間に終わってしまった。 「素晴らしかったです。ジョセフィーヌの切ない恋に、本当に胸が苦しくなるほど引き込まれてしまいました。あの二幕の歌は、とても美しくて感動しました」  劇場のロビーで歩きながら、感想を聞かれて、興奮が冷めないまま熱っぽく語ったら、ヴィンセントにクスっと笑われてしまった。 「いや、ごめん。マリアも年相応に、こんな風に熱くなるのだと思ったら、ちょっとおかしくて……」 「なんですか、それは……。私、そんなにいつも萎れてますか?」 「いや、そういう意味じゃなくて。可愛いなと思ったんだ」  サラッと言われた言葉に、心臓がドキリと跳ねた。  言った本人も、口を押さえてしまったという顔をしていた。  二人の目線が絡み合い、見つめあったまま、時が止まってしまった。その言葉の意味を聞こうとした時、乱入者によって乱暴に視線は散らされてしまった。 「あら!ヴィンセントじゃない。偶然ね、こんなところで会うなんて」 「……ジェニー」  白いファーで飾られた真っ赤なドレスの女性は、ドレスと同じく、目につく派手な顔をした美女だった。豊かな胸は、際どいドレスで、これでもかと強調されていた。 「連絡しようと思っていたのよ。私、あなたにひどいことをしてしまったと気がついたの。やはり、私の気持ちはあなたにあるわ。今さらだけど、私を許してちょうだい。それで、また前のように戻れないかしら」  ジェニーは、真っ赤な唇で、優雅に笑った。内容から考えて、元奥様に間違いないと思った。  なぜ離婚したかは聞いていなかった。それでも、一度は想い合った相手である。お友達を強調して、婚約はしなかったヴィンセントの気持ちは、まだ彼女にあるのではないかと胸がざわざわと騒いだ。  ジェニーの方を向いた背中が、遠くに行ってしまうような気がして、思わず掴みたくなるのを、手を強く握りこんでこらえた。 「……ジェニー、君が俺にしたことを、もうとやかく言うつもりはない。俺の中で、君との気持ちは、もう過去のものだ。悪いが戻るつもりはない。今は大切に思う人が出来たんだ」  気の強そうな美人のジェニーが、気の強そうな目で、こちらを睨み付けてきた。 「それは、その方かしら、ずいぶんお若いようだけど。そんなお子様で、ヴィンセントを満足させられるのかしら」  マリアを値踏みしたジェニーは、挑発するようなことを言って、ケラケラと笑った。 「彼女を挑発するのはやめろよ。そうだよ。マリアは俺の大切にしたい人だ」  ヴィンセントの台詞に身体が痺れた。  婚約に前向きではないと思っていたのに、気持ちが変わってくれたのかと思うと、心は喜びで満たされた。  そして、今度は自分が素直になって、足を踏み出す番だと思った。 「初めまして、ジェニー様。マリア・リングスと申します。ヴィンセント様とは、まだ知り合って日も浅いですが、私も気持ちは同じく、大切にしたい方と思っております。仰る通り、経験も浅く未熟ですが、ヴィンセント様を支えていけるように、これから努力していくつもりです。どうかよろしくお願いいたします」  気持ちは同じだと言ったところで、ヴィンセントが息を飲んだのが分かった。  ジェニーは、ひどく嫌そうな顔をして、こんなつまらなそうな女がタイプだったの?つまらない同士お似合いね、と捨て台詞を残して逃げるように行ってしまった。  ジェニーが去っていく背中を見ながら、ため息をついた。ただでさえ、往来で目立っているのに、これ以上騒いで、ヴィンセントに悪評でも出てしまったら困ると、穏便にすんだことに安堵した。 「マリア……」  切羽詰まったような声で、ヴィンセントに呼ばれて振り返ると、ヴィンセントの目には、熱が宿っていた。その強い視線に、心臓の鼓動は激しくなる。 「さっき言ってくれたことは本当?大切にしたいって………」 「え?ええ……」 「それは……、もしかして………」  ヴィンセントの金色の瞳の色が濃くなったように思えた。鋭くて、捕らわれてしまうような強い視線だ。 「そうですね、まだ出会ったばかりで、こんなことを思うのは、どうかと思ったのですが、私はヴィンセントのことが好きになってしまいました」 「…マリア」 「こういうのは、時間ではないのですね、きっと。何だか、ずっと前から一緒にいるような気持ちで……、お友達でいいなんて、余裕があるようなことを言いましたが、ちょっとショックだったのです。初めて出会ったとき、実は惹かれていましたから……」  私がそう言うと、ヴィンセントは、強い力で抱き締めてきた。身体が折れてしまうかというくらい、激しく強い力だった。 「待って、それ以上言わないでくれ!あぁ情けない。先に伝えるはずだったのに…」 「あ……、私……、ヴィンセントの気持ちも考えずにベラベラと……」 「いや、違うんだ!本当は後悔しているんだ!婚約を先伸ばしにしたことを。俺も初めて出合ったとき、マリアに惹かれていた。勿体ぶって友達なんて言って無責任だった。いつ言おうか、何度も考えていたんだ。今さら情けないけど、俺もマリアが好きなんだ!君とずっと一緒にいたい」  ヴィンセントの熱烈な告白は、心も身体も痺れるほど嬉しくて、心臓は爆発しそうになった。こんな気持ちになったのは、香苗の頃を含めても、生まれて初めてで、抱き合ったヴィンセントから、心臓の音を感じて、自分と同じだと思うと、興奮と喜びで、目頭が熱くなった。  しかし、ふと周りの視線を感じて見渡すと、そこは劇場のロビーで、多くの人が行き交う場所だった。  青い気持ちで満たされていたけど、立ち止まって遠慮なしに見てくる人もいて、さすがにこれは場所を変えた方がいいと思いヴィンセントに目で訴えたが、完全に甘い雰囲気と捉えられてしまったようで、ヴィンセントの興奮の色が濃くなった。 (まずい……これは……) 「マリア……君に触れたい……」 「ちょ……ヴィ……んっ!!」  その先に続く名前ごと、ヴィンセントに口づけで飲み込まれてしまった。  巧みなキスは、角度を変えて丁寧にかつ、強引に甘く攻め立ててくる。  遠慮がちに舌が入ってきたのを感じて、抵抗するのをやめて、もうどうにでもなれと迎え入れた。  香苗にとっては、年下の若い恋人。その勢いの激しさをこれでもかと、実感したのであった。  □□□  それから、ヴィンセントと婚約してマリアが18歳の誕生日を迎える日に、結婚することになった。  ちゃんと付き合ってからは、週一どころか、毎日のようにフォレスター家に顔を出して、一日を過ごすのが日課になってしまった。  ヴィンセントは、仕事で忙しいので毎日はよくないとお願いしたのだが、毎日顔を見ないと落ち着かないと懇願され、来てくれないと、リングス家で仕事をするとまで言われて、しかたなく毎朝通っている。  ならば、早く結婚すればいいのだが、これには父親がお願いだからもう少し娘と一緒にいたいと譲らなかったので、期限を設けたかたちだ。  ヴィンセントも、仕事によっては、現地へ赴くこともあるが、基本は屋敷での書類仕事が多い。ヴィンセントの仕事中は、フォレスター家の使用人達と話したり、書庫を借りて、本を読んで過ごしている。  そして、何の仕事をしているかよく分からない、叔父のブラウンがたまに遊びに来て、喋り倒して帰っていくこともあった。 「ヴィンセント……、待って……、まだ仕事中でしょう……」 「俺の可愛い恋人はつれないな。昨日は突然ブラウンが来たおかげで、ほとんど出来なかった。だから昨日の分も必要なんだ」 「でも、誰か来たら……、んっ……」  私の可愛い恋人は、こうやって、仕事を放り出して、どこでもお構いなしに、突然唇を奪ってくる。  今日は執務室に引っ張り込まれ、薄い抵抗は何の意味もなく、いつものようにたっぷり奪われてしまう。  頭の中では、昼間からこんなこととか、仕事を放り出すのはまずいとか、当たり前の考えが浮かんでくるのだが、そんなものは、ヴィンセントと唇を重ねれば、あっという間に消えてしまう。  付き合い始めたばかりだから、いつかは落ち着くだろうと思うのだが、自分に夢中になってくれる、可愛い恋人のためを思うと、喜んで受け入れてしまう。  その時、カラリンと何かが、机から落ちた音がした。  あっと、声をあげたヴィンセントが慌てて落ちたそれを拾った。 「あっ……、それは、まだ持っていらしたのね」  初めて二人で出掛けたとき、祭りの出店で買った貝の玩具だ。私に一つと、ヴィンセントは自分にも一つ買っていたのを思い出した。  ヴィンセントは、落ちた玩具を大切そうに引き出しにしまった。 「そういえば、これを買ったときマリアはすごく悲しそうな顔をしていたね」 「私がですか……?」  自覚はなかったが、郷愁の思いが顔に出てしまっていたのかもしれない。 「……以前、夢をよく見たのです」 「夢?」 「ええ。夢の中で私は、今よりずっと年上の女性で、人がたくさん暮らす町で、一人で生きていました。不幸でも幸せでもない人生でしたが、よく子供の頃に育った港町のことを思い出すのです。潮の匂いと、波の音、家族で手を繋いで歩いた海岸。孤独な生活に疲れると、時折帰りたいと懐かしく思う……、そんな夢です。だから貝を触って潮の匂いが懐かしく感じて、その夢を思い出したのです」  ヴィンセントは、話を茶化したりせずに、じっくり最後まで聴いてくれた。 「………すみません、こんな訳の分からない話をして……。ただの夢の話です。忘れてください」 「……いや、なんだろう。その夢の女性は、なんだか、まるで君自身のようで……」  これ以上は、深く考えられると、変な部分まで探られると困るので、ごまかすように自分からヴィンセントの膝にのし掛かって口づけた。 「んっ…………」  何度も重ねた口づけだか、自分から求めたのは初めてかもしれない。 「………んー、気持ちいいし、嬉しいけど。なんかごまかされたような……」 「夢の話はまた、いずれ、お話しします。それより、そろそろ領地をまわる予定のお時間では?」 「せっかく、求めてくれたのに。私の可愛い恋人は、ひどいことを言うなぁ」  そう言って微笑んだヴィンセントは、今度は最後とばかりに深く口づけてきた。  頭の中が全部溶けてしまうような、甘い甘い口づけだった。  そうして、二人して息を切らしていると、可笑しくなって、一緒に笑ってしまった。  この瞬間が何より幸せに思えた。 「マリア、新婚旅行は、アヌビス湾にある別邸で過ごそうか?マリアと一緒に海が見たい」 「え?私とですか?」  いつだったか、ヴィンセントと二人で並んで海を眺める姿を想像して、打ち消したのを思い出した。 「他に誰がいるんだよ。あぁ、俺の恋人は、冷たいな。こんなに愛しているのに」  拗ねた可愛い恋人は、いつもの数倍可愛くなる、こんなことを思っているなんて、本人には言えないけれど。 「まぁ、そんなことを言わないで。幸せすぎて信じられなかっただけですよ。知っていますか?私はヴィンセントが思うよりも、ずっとあなたに夢中なんです。あなたのことを思って、夜も眠れないくらい」  耳元でそう囁くと、可愛い恋人は目を見開いて顔が赤くなった。  出発の時間になってもヴィンセントが出てこないので、業を煮やした執事のセバスが、ドアをノックして、ヴィンセント様、本当にお願いしますと声をかけてきた。 「……では、私はこれで」  柔らかく微笑んで、先に失礼しようとすると、ヴィンセントに腕を掴まれて、そのまま抱き上げられてしまった。 「あ……あの、何を?」 「気に入らない!いつも、そうやって、マリアは私の心を弄ぶのだから。今日はこのまま、一緒に連れていく!」 「ええ!?お仕事にですか!?さすがにそれはちょっと……」 「私の心に火をつけたマリアが悪い!このまま帰せるか!」  ヴィンセントは、セバスにドアを開けさせて、本当に抱き上げたまま歩いていく。  セバスを見ると頭に手を当てて、気まずい顔をしていた。  年下でもあり、年上でもある、私の恋人は、今日も可愛くて、とことん甘い。  本当の意味で、甘い夜を過ごしたら、どんどん加速しそうな気がする。まぁ、それは贅沢な悩みであるのだが。 「マリア、愛している」  いつまでも離してくれない恋人に、困った顔をしながらも、何をされても許してしまうのは、きっと、自分の方がハマっているからだと感じた。  近い将来、海岸を歩く、幸せな二人の姿を思い浮かべながら、ゆっくりと目を閉じて、また唇を重ねるのであった。  □□完□□
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