希望、そして永遠の幸福

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「あら、こんにちは」 「こんにちは」 「今からお買い物?」 「はい。ちょっとそこまで」 「あらそう」 買い物に行こうとしてマンションのエントランスに出ると、掃除をしていた管理人さんと目があった。あえて急いでいるような雰囲気を出して、手短にその場を脱出。嫌いな人ではないのだが、そこまで親しい人でもないのに長時間会話するのは疲れるのだ。 それに、この後会う他の入居者の人との話のネタにされるのは分かり切っていた。 「いらっしゃいませ~」 いつものコンビニで、かごに必要な物だけを入れていく。そこまで店内は広くない店だが、何故か生活用品の品ぞろえはいい。 「あ……」 よく使う生理用品が並んでいる所だけ、今日はぽっかりと穴があいていた。この店でも、時たまに品切れを起こしていることもある。今日はそんな珍しい不運な日だったようだ。 「すいません、いつものなかったですよね!明日には入荷する予定なんですが……」 「そうですか。少なくなってきていたから買っておこうと思っていただけなので、また今度買いにきます」 この一年、通う間に顔見知りになった店員と会話をした。私が話しかけるのではなく、向こうから話しかけてくる。加えて、中身はどうでもいい内容だ。今日は、あの生理用品についてだった。いつも同じ物を買っているから、覚えてしまっているのだろう。 「2618円になります~」 画面に映し出された金額を見て、財布の中を漁る。今は後ろに人がいないからゆっくりと小銭を探していられる。世の中、そろそろキャッシュレスに変わってきた。そろそろ、私もバーコード決済とかにするべきかもしれない。それでも、もしお母さんに何かあったときには、現金じゃないといけない場面があるのではと考えると、やはり私は現金主義なのだろうか。 「あ」 ふと、お札と一緒に入れていたレシートが目に入った。正確には、レシートと一緒に渡された案内が書かれた方。 『母の日のプレゼント特集ページの案内』と書かれた紙。ちらりと、レジの横にある赤いポップを見る。赤いカーネーションの花束のイラストが描かれたポップには、笑顔の母親と子どもの絵も添えられていた。 「どうされました?」 「あ、言え……お願いします」 「はい、ありがとうございます!」 店員の声で我に返り、慌ててお札をトレーの上に乗せた。既に、品物はレジ袋に入れられていた。そういえば、この店も来週からはレジ袋にお金がかかるらしい。一円玉数枚だが、なんだかもったいなく思えるのだから不思議だ。 「はい、105円のお返しで~す」 「ありがとうございます」 おつりを仕舞う時に、残りの所持金を確認する。いつも同じ物を買うから、最低限のお金しか入れていなかったため、500円くらいしか残っていなかった。 「ありがとうございました~!」 ガサガサとレジ袋を鳴らしながら、店を出る。いつもなら、ここで家に帰るために左に曲がる。しかし、今日は右に足を向けた。買った冷凍食品がもつかどうかだけが心配だった。 「あら、おかえりなさい」 「あ、はい」 家族以外の人から「おかえり」と言われると、返事に困る。そういう人は多いだろう。 マンションに戻ると、管理人さんはまだエントランスにいた。どうやら私が外出した後に捕まえた人との会話を楽しんでいたらしい。もう30分以上経っているというのに、よく話題が尽きないものだ。恐らく、その話題の一つに我が家のこともあるのだろう。その証拠に、軽く会釈して通り過ぎ、エレベーターに乗り込む間に聞こえてきた内容は、私とお母さんのことだった。 「あの子のお母さん、まだ記憶が戻らないの?」 「そうみたい。怪我の方は治ってるからって退院はしてるんだけどね、変に徘徊されちゃ困るから、外に出ないようにさせてるって少し前に聞いたわ」 「かわいそうな話ねぇ……お父さんもいないんでしょ?」 「昔、病気で亡くなってね。お母さんも事故でアレでしょ……?かわいそうに」 確かに、私の家族は普通ではない。父親は幼い時に病死し、母親は事故に巻き込まれてまさかの記憶喪失だ。高校三年生の娘は大学進学をあきらめ、色々な保証金で生活している。 誰かのコンテンツとしては十分すぎるくらいの設定だ。お母さんの記憶が戻れば、いつかどこかのテレビ局から感動ストーリーとして紹介されるかもしれない。そう、お母さんの記憶が戻れば……。 「――――ただいま」 返事はなかった。お母さんがいる寝室の扉を開けると、ベッドの上で静かな寝息を立てている。知らず、張っていた肩の力を抜いた。 手に持ったままだったコンビニのレジ袋もそのままに、ベッドの脇の床に膝をついてお母さんの手を握る。温かい。 少し細くなった手首を手で包んでみると、ちゃんと刻まれる脈を感じる。リズムよく打つそれが、安心感を与えてくれた。 「お母さん……死なないでくれて、ありがとう」 眠るお母さんの横に、レジ袋に入れたままだったカーネーションの花束を置いた。花束と言っても、5本だけの簡単なものだった。花屋で5本だけのカーネーションを持って花束にしてくださいと言うのは子どものお使いのようで少し恥ずかしかったが、それでも丁寧に小さなブーケにしてくれたそれを手に持つと、ちょっとだけ嬉しい気持ちになった。 「赤いカーネーションはもう無かったんだ。だから、青いカーネーションにしたの。お母さん、青色が好きでしょ?リボンも青にしてもらったんだよ。後で、花瓶に差しておくよ。白い花瓶の方が、青色が綺麗に映えるかな……」 お母さんの体温に触れて安心したのか、眠気が襲ってくる。そういえば、昨日までテスト週刊でその間に溜まった家事を片付けてたから全然寝られなかったんだった……。 ベッドの縁に頭を乗せる。すぐに睡魔が襲ってきて、そのまま眠りに引きずり込まれてしまった。 柔らかい微笑みを浮かべるお母さんが、私の頭を撫でる。ゆっくりと、うなじ辺りまで下りて頭頂部に戻り、またゆっくりと撫で下りていく手。久しぶりに感じるそれを夢だと理解しつつも、襲来する嬉しさと懐かしさには敵わなかった。 「お母さ、ん……」 呟いた自分の声で目が覚めた。目は熱をもったように熱いのに、頬が冷たい。泣いていたらしい。ふと、室内に入り込む風を感じた。窓は開けていないはずなのにどうして。窓を見やると、カーテンがはためいている。そしてカーテンの裏には、白と青の何かが――――。 「日向?」 後ろから突然かけられた声に、思い切り首をひねって振り返る。そこには、あの夢の中で見たものと同じ微笑みを浮かべるお母さんがいた。「どうしたの?日向」と、久しぶりにいつもの声音で呼ばれる私の名前が嬉しくて、私はまた泣いていた。 泣きじゃくって動けない私の頭を、隣に膝をついたお母さんが抱き寄せる。限界だった。 「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」 口から飛び出た悲鳴のような泣き声の大きさに驚いた隣人が、管理人さんを連れて部屋に飛び込んでくるまで、私は全てを忘れて母にしがみつきながら泣いていた。 レースのカーテンがはためいている向こうに、5本の青いカーネーションが白い花瓶に生けられていることに私が気づくのはもう少しだけ先。花瓶の首には青いリボンが巻かれ、その端はカーテンに守られてそよそよと気持ちよさそうに揺れていた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!