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そう待たずにおじさんは一冊の資料を持ってきた。古めかしいタイトルには『小倉百人一首』と記されている。百人一首の解説書だ。
「こちらを見てください」
迷うことなく資料を広げ、狩野さんに示した。
「二十一番の和歌は『今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を 待ちい出でつるかな』です」
おじさんは流暢に資料を見ずに和歌を詠んだ。
なんとなく聞いた事があるような……でも、どういう意味だろう、と小さく首を傾げた。
「えぇと、意味は……『今すぐ来ると言っていたのに、九月の長い夜を待ち続けるうちの有明の月が出てしまった事だ』」
狩野さんは困惑した声で資料を読み上げた。
「この歌は素性法師によって詠まれたと言われています。男性が女性の立場に立って詠んだものです。女性が来ない男性を夜通し待ち続けた怨みが込められてます」
「怨み……」
狩野さんは弱々しく呟いた。
そっと手を組みおじさんは続けた。
「これは僕の見解ですが……あなたたちは双方が納得した別れをしていないと思います。なんとなく別れてしまったのではないでしょうか。そして、彼女さんはきっと狩野さん、あなたにまだ未練があると思います──ずっと待っているのに来ない。その寂しさを歌に載せたのではないでしょうか」
「彼女が、まだ俺を……」
呆然と狩野さんは呟いた。
「はい。そしてこの『有明』はおそらく……」
「有明西ふ公園!」
狩野さんはハッとしたような顔でおじさんの言葉を遮った。
「はい。きっと思い出の場所と有明の月……二つを掛け合わせているのかと」
「じゃ、じゃあ、しあさっての夜……有明西ふ公園に行けば彼女と……会える?」
おそらく、と優しくおじさんはうなずいた。
狩野さんの表情は憑き物が落ちたようなスッキリとした顔で、コーヒーを一気飲みすると勢いよく立ち上がった。
お客さんのスッキリした顔は如月相談所にいるとよく目にする事が出来る。
私は何もしていないけれど、そんな表情にさせるおじさんが誇らしい。
「ありがとうございました!」
「いえいえ」
おじさんは凄いなぁと改めて思いながらそっと空のコップを下げる。
給湯室で洗っていると微かに声が聞こえた。きっと会計中だろう。
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