一度きりのタイムオーバー

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 「なあ。どっから来たか、覚えてるか?」  俺がそう聞くと、その子はしくしくと涙を流しながら首を横に振った。  ある、夏のこと。  最高気温40度超え。  炎天下。  死者は全国で34名。  救急搬送は172名。    とにかく暑い日だったらしい。  あちらこちらで、救急車のサイレンが鳴り響いていたらしい。  俺は、街の小さな商店街の入り口で、額から噴き出る汗をそのままに、じっと時間が過ぎるのを待っていた。  照り付ける太陽。  屋根のない商店街。    通行人はいるが、買い物を目的とする者は少ない。  ほとんどの店が、そのシャッターを閉じている。  俺はズボンのポケットに120円が入っていることを確認し、長いため息を吐く。  心拍が異常に早い。  暑さもあるが、変に緊張しているせいもある。    額の汗が目に入りそうになり、俺はようやく顔を拭った。  その時だ。  商店街の向こう側から、小さな影が近づいてきた。  おぼつかない足取りで、こちらへ向かって歩いてくる。    それは、幼い女の子。  二つに結ばれた長い髪。  前髪は汗で額にぺっとりと貼り付いている。  薄黄色の半袖シャツ。  ジーンズの短パン。  頬は真っ赤に火照っている。  その頬には涙の跡が光っている。  不安そうに、きょろきょろと左右を見渡しながら、少しずつ進んでいる。  どこからどう見ても迷子だ。  しかも、脱水症状を起こしている。  だが、人間関係が希薄なこの街では、誰も声を掛けてこない。  そうでなくても、ここは人が少ない。  俺は唇を軽く噛み締め、意を決して立ち上がる。 「大丈夫か?」  小さなその女の子に近寄り、声をかけた。    その子は何も話さないで、じっと俺を見つめている。 「なあ。どっから来たか、覚えてるか?」  そう聞けば、その子は顔を悲しみに歪め、静かに泣き出してしまった。 「そりゃそうだよな。分かってたら、迷ってねえよな。分かってたけど、一応な」  その言葉は、もはや独り言だった。 「ほら、帰り道探してやる」  俺はその子に手を差し伸べる。  その子は涙を拭った手で、俺の手をやんわりと掴み取る。 「喉、乾いてるだろ?」  そう聞けばこくりと頷く。  俺は女の子を連れ、近くの自動販売機へと向かう。 「何がいい?」  女の子は桃のジュースを指差した。  俺はポケットの小銭を取り出し、桃のジュースを買ってやる。  がごんと音を立てて、缶の桃ジュースが降ってくる。  飲み口を開けて手渡してやれば、遠慮なしに女の子はそれを胃の中へと流し込む。 「ありがとう。お兄ちゃん」  すっかりそのジュースを飲みほした女の子は、にっこりと笑い、俺に礼を言ってきた。 「どういたしまして」  空の缶をゴミ箱に捨て、手を繋ぎ直して歩き出す。 「ねえ、お兄ちゃんのお家は?」  舌足らずな喋り方。  可愛らしい高い声。  じっと見つめてくるつぶらな瞳。 「言っても分からないだろうな、君には」  俺は思わず含み笑いを漏らす。    女の子はきょとんと首を傾げた。 「すずちゃんのお家はね、青い屋根のお家なの」 「ふうーん」  警戒心の欠片もない言葉。  小さい子供は、これだから恐ろしい。  俺は一つ目の交差点を右に曲がる。 「おつかい、失敗しちゃった」  とても残念そうに、女の子は呟く。 「ひろくんのね、ミルクをね、くださいなってしに行ったの」  今にも泣きだしそうな瞳をこちらへ向けて、その子は言った。  預けられていた小銭入れを、落としてしまったらしい。  被っていた麦わら帽子も、風に飛ばされてしまったらしい。  それらを探しているうちに、道に迷ってしまったらしい。  挙句の果てには喉が渇いて脱水症状。  まさに踏んだり蹴ったり。 「あの麦わら帽子、大好きだったのにな」  しくしくと泣き出してしまった。 「お金も落としちゃったし……。すずちゃん怒られるのやだよ」  段々と小さくなる声。 「すずちゃん、やり直ししたいよお」  眉をハの字に垂れさせる女の子。 「次……頑張ればいいじゃんか」 「次じゃいやだ。すずちゃん、今日は怒られたくないの」 「どうして?」 「どうしてもなの。ちえ先生にママの絵褒められたから、ママにも褒めてほしいの」 「……そうだったのか」  泣き虫な女の子。  次から次へと、別の理由で水分を浪費している。 「すずちゃん、今度はお金落とさないように気を付ける。お帽子の紐もしっかりつけるもん」 「時間は、巻き戻らないぞ」 「むうう」  女の子は口をすぼめ、拗ねたような顔をする。 「じゃあ、タイムマシンに乗って、もう一人のすずちゃんに"気を付けなさい"って言うもん」 「タイムマシン、かあ……」  俺は興味なさげに相槌を打つ。 「過去を変えても、その先の未来は変えられないんだ」  大人気ないと思いつつ、俺は冷たくそんな言葉を口にする。 「どうして?」 「"どうして"?」    悲し気な目が、俺を捉える。 「過去と未来は、繋がってるんだ」 「うん」 「過去から未来ではなく、未来から過去にも繋がってる」 「……うん」 「何か気に入らないことがあって、過去に戻って手を加えたところで無駄」 「うん」 「何故ならな。未来の自分が過去に戻ることさえも、決められたことだからだ」 「うん」 「現在ってのは、未来の自分が過去に戻って何かをした結果も含まれているんだ」 「うん」 「もう既に変えられた後なんだ。だから、君がおつかいをしたこの日を、変えることはできないんだよ」 「お兄ちゃんの言ってること、良く分からない」 「……そうかあ。分からんかあ」  分かるはずもない。この時代に、タイムマシンなんて存在しないのだから。  そもそも、理解するには、その子は小さすぎる。 「お兄ちゃん、どうしてそんな悲しそうな顔をしているの?」  不意に、そんな言葉をかけられ、どきりと心臓が跳ねる。 「お、俺は、別に悲しいんじゃない」  意図せずどもってしまう。 「そうなの?」 「ああ、そうだよ」  この角を曲がれば、青い屋根の一軒家が見えてくる。  そろそろ、お別れの時間だ。  誰もいない、無人の家。  鍵まで掛けられてしまっているのだ。  「あ! あれすずちゃんのお家!」 「……そうか」  とても、喜んでいる。  誰もいない家を見て、この上ないほどの笑顔を見せている。 「あれ? ママー?」  背伸びをし、インターホンを鳴らしても、一向に開かない玄関。  不思議に思ったその子は、不安げに声を張り上げる。 「ママー! ただいまー!」  反応など、あるはずがない。  父親は仕事。  母親は、病院へ向かった。  この子の弟が、熱中症になったのだ。   「ママ、いないのかな」  家を出る時。  母親はいつものように戸締りをしっかりと行なって家を空けてしまった。  おつかいに出た涼香を、忘れたわけではなかった。  だが、俺の症状にあまりにも驚いてしまって、母さんはいつもの癖で鍵を閉めてしまった。 「あうー、暑いよお」  そう言うが、既に汗は止まっている。  危険な状態だ。 「ごめん……。俺が何をしても、この運命は変えられないんだ」  タイムマシンは、もはや捨て置かれた無意味な機械技術。    人類は、何度もタイムマシンを使い、過去を変え、その影響によって未来をも変えようをした。  だが、それは決して叶わぬ試みだった。  一歩先の時間を行く人類も、同じように過去へと訪れた。その結果が、現在の世界を作り上げているのだ。   「お兄ちゃん。泣いてるの?」  それ故に、一度飛んだ時間には二度と降り立つことはできない。  どんなにタイムマシンに改良を加えても、過去の詳細を知った人間が、もう一度その時間に飛ぶことはできなかった。  小型化は進んでも、それだけは実現しなかった。  神は許していないのだ。  人類が時間をコントロールするなんて、そんな大それたことなど。   俺には、何百、いや何万だって、繰り返す覚悟ができているのに……。 「泣いて、ねえよ」  俺は、この世界で悪あがきはしない。  過去は変えても未来は変わらない。    その常識が、俺の脳には根強く浸透している。 「ごめんな。涼香姉さん。少し先の俺も、ただ見てるだけだったんだな」  俺は、目の前の小さな姉に、震える声で謝った。 「お兄ちゃんが、何を言ってるのか、分からないよ」  俺の姉さんは、俺が二歳の時に死んだ。  ちょっとしたおつかいだった。  俺のミルクを、買いに行ってくれていた。  喉が渇いたら好きなものを買いなさいと、余分に渡されていたお金は落としてしまった。  直射日光を防ぐための麦わら帽子も空の彼方。  道に迷って、そのまま熱中症になってしまった。  妥協で持っていた携帯式タイムマシン。  未来は変えられない。  そう分かっていても、暑さに苦しんでいる姉さんを少しでも助けたくて、小銭だけを持ってタイムマシンに乗り込んだ。  誰も姉さんの死に際を見た者はいない。  俺に与えられた情報は、とても少なかった。  何とか確定した過去を変えられないか。そう思って、昔の新聞を手に入れ、姉さんに関する記事を探したりもした。聞き込みをしたりもした。  だが、ろくな情報は得られなかった。  一度死んで、未来で復活する人生。  もしかしたら、そんな運命も存在するかもしれない。そんな淡すぎる期待も抱いていた。 「お兄ちゃんも、本当は迷子だったの?」  うつろな瞳。  それなのに、自分のことよりも、俺のことを心配している。  過去の俺も、結局こうして姉さんが弱っていくのを、ただ見ていただけなんだろうか。  姉さんが死なないように、努力したところで、何も意味がないと。  努力した結果が俺が生きている世界なんだと。  そう諦めて、ただ茫然と、一緒に歩いていただけなんだろうか。  だがそれなら、一番初めにその努力をした俺はどこにいるんだ?  未来の俺が、今の俺と同じことをしているのなら、どの時間の俺も、姉さんを助けようとしていないじゃないか。  そんなの、 「行くぞ! 涼香姉さん!」  万が一にも、助けられるわけがない。  俺は、ふらふらな涼香姉さんを抱きかかえ、病院へ続く道を猛ダッシュした。  最初から、未来は変えられないと諦めてしまえば、それまでじゃないか。  何も変動しないのは当たり前じゃないか。 「おにい、ちゃん?」  俺は、先を行く未来の俺とは違う!  「君! 待ちなさい!」  突如、背後から俺を呼び止める声が聞こえてきた。  無視して走り続ければ、声の数は増えていき、それは怒号ばかりとなる。 「くそ! 一体どっからっ」  迷子になった涼香姉さんの目撃者は全くいなかったのに、湧くように集まる大人たち。 「……涼香、姉さん」  息も絶え絶えに、俺は腕の中の姉に呼び掛ける。  返事はない。  とうとう体力の限界がきて、俺は先回りされた警察官に阻まれた。  涼香姉さんを無理矢理取り上げられ、数人の大人たちに、俺は取り押さえられた。  頬に押し付けられたアスファルトは、火傷するほどに熱を帯びていた。  時間が無いと言うのに邪魔をされ、俺は憎しみの籠った目で取り囲む奴らを睨み上げる。  警察官の腕の中では、眠りに落ちている涼香姉さんの横顔が見えた。    その時。  俺は思い出した。 『猛暑の女児誘拐犯。忽然と姿を消す』    そんな見出しで始まる、小さな新聞の記事を。  ――――ああ、時間切れだ。
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